興浜(おきのはま)で候 

興(こう)ちゃんの手掘り郷土史

武神祭 その6 昭和32年当番町興  壱

2012年04月22日 | 魚吹八幡神社

 タイトル写真は昭和32年に当番町であった興浜が津宮山魚吹寺(徳寿院)への献上品の目録である。

 下の写真は、昭和31年4月5日(木)に当番町であった津市場が津宮山魚吹寺(徳寿院)へ御鏡餅三重と御供酒一樽を献上したので次の年の昭和32年4月5日(金)に興浜も同じように献上品をお願いしますという請書である。 

 この請書は津市場がご奉仕した昭和31年4月5日(木)に受け取ったようである。

 昭和11年の当番の時は3月7日が武神祭であったが昭和31年32年は4月5日となっている。

 下の2枚は上が昭和31年4月5日(木)に当番町であった津市場が武神祭をご奉仕した翌日の昭和31年4月6日(金)に魚吹八幡神社が翌年の当番町興浜に出された目録である。

 下が昭和32年4月5日(金)に興浜がご奉仕した時に出された目録である。

 昭和31年と昭和32年の目録の違いについて書いてみる。

 献納品については同じであるが、その次の文章に違いがある。

 上の昭和31年の目録は
 右昭和32年4月5日武神祭ニ御献饌被成下候也(ごけんせんなしくだされたくそうろうなり)
 津宮山魚吹寺(徳寿院)からの請書と同様の意味で興浜さん来年のご奉仕の時は御献饌を下さいますようという意味である。

 下の昭和32年の目録は
 右昭和32年4月5日武神祭ニ御献饌被成下候也(ごけんせんなしくだされそうろうなり)
 津宮山魚吹寺(徳寿院)からの目録と同様の意味で興浜さん御献饌を下さいましたという意味である。

つづく

 


武神祭 その5 昭和11年当番町興 追記

2012年04月11日 | 魚吹八幡神社

 昭和11年に行われた武神祭の貴重な写真を当時興惣代であった太田覚次郎氏のお宅から拝借する事ができた。

 タイトル写真は、太田家の玄関に飾られた武神祭に献納する「櫻と橘の造花」と「鬼大鏡餅」である。

 武神祭の数日前に興浜住民によって搗かれた餅を当日の朝まで惣代宅の玄関に飾られたのであろうと推測される。

 当時は今と違い興浜村の中での集会場所は金刀比羅神社社務所しか無かったのではと想像する。

 その金刀比羅神社社務所も確か誰かが住んでいたように聞いている。

 従って、現在なら公民館等に保管しておけたが、昭和11年当時は惣代宅となったのであろう。

 下の写真はタイトル写真の裏側に書かれていた部分を拡大したものであるが。

 「昭和11年3月7日 武神祭 鬼ノ鏡  供進 桜橘造花  鬼鏡餅二石 内 一石鏡  一石配リ餅  太田家」とある。

 鬼鏡餅二石(内 一石鏡  一石配リ餅) とある。

 1石分を大鏡餅に搗き、1石分を餅まき用の小餅にしたという事である。

 一石(いっこく)について書いてみよう。

 1合(ごう)≒180ml、10合=1升(しょう)、100合=1斗(と)、1000合=1石(こく)である。

 米俵1俵=4斗=400合であるので、1石は2.5俵という事になる。

 1俵をkg換算すると60kgになる。従って1石=60kg×2.5=150kgという事である。

 現在の武神祭では各村8俵の餅米を使用しているようである。

 8俵という事は3石よりも少し多い量である。

 

 

 上の写真は武神祭での興浜檀尻の貴重な写真である。

 魚吹八幡神社楼門前と推察さきる。檀尻の後方に移っているのは東側の燈籠であろう。

 この時の前梃子の一人は興ちゃんの亡くなった祖父であると亡くなった祖母から聞いた事がある。

 現在前梃子や梃子持ちは赤鬼・青鬼のスパッツを着用したりしているが、当時は色粉を体に塗ってのまわし姿であったようだ。

 帰って来てからお風呂で洗い流すのが大変だったと祖母は語っていた。祭りではいつも家族の弁当を造っては渉外のリヤカーに届けるのが精一杯で祭りに行った事が無かった祖母である。

※太田家の方々には貴重な写真を提供して頂き感謝の気持ちで一杯です。   
 太田覚次郎氏は大正14年10月から昭和24年1月までの期間興惣代として興浜の干拓事業等現在の興浜の礎を造られた偉大な方である。現在太田家の方と共に興浜偉人の一人として調査中である。


武神祭 その4 昭和11年当番町興

2012年04月07日 | 魚吹八幡神社

 昭和11年3月7日(土)に武神祭の当番であった記録が、津宮山魚吹寺からの請書として残っている。

 津宮山魚吹寺とは徳寿院の事である。

 現在と変わらず、徳寿院への献上品は御鏡餅三重六個と御供酒一樽である。

 昭和32年以降の記録では、津宮山魚吹寺と魚吹八幡神社社務所への目録という形で残っている。

 当然昭和11年にも魚吹八幡神社社務所への献上品はあったであろうが記録は残っていない。

 数年前から昭和11年の武神神の写真を探していたが発見できずの状況である。

 現在、檀尻が魚吹八幡神社に行く経路は金刀比羅神社を出発して本町通りを東にぬけて東雲橋を渡るが、東雲橋ができるまでは橋本筋商店街に架かる網干橋を渡っていたようである。網干橋の架橋が天保元年(1830)、東雲橋の架橋が明治26年(1893)である。(茨木利雄氏の資料より)

 たつの市新宮町の総合建設業の(株)進藤組が東雲橋の架け替え工事を昭和11年3月に受注、昭和12年3月に完成し、渡り初め式は三代夫婦では無くその年の武神祭の当番町であった新在家村の檀尻であったと、(株)進藤組のHPに書かれている。

 という事は昭和11年3月7日(土)に行われた興浜当番の武神祭の檀尻は東雲橋架け替え工事の寸前に渡ったのか、それとも網干橋を渡ったのかはわからない。

 今残るのはこの一枚の請書のみである。


武神祭 その3 南無八幡大菩薩

2012年04月01日 | 魚吹八幡神社

 魚吹八幡神社は明治以前は「福井庄津宮山魚吹寺八幡宮」と呼ばれていた。

 ところが、明治維新の廃仏毀釈という流れのなかで、「福井庄津宮山魚吹寺八幡宮」は魚吹八幡神社に改名された。

 魚吹八幡神社と徳寿院の関係について少し書いてみる。

 魚吹八幡神社の東側に隣接する津宮山魚吹寺徳寿院は明治以前は魚吹八幡神社と一体の神宮寺であった。

 魚吹八幡神社関係の古文書にこのようなものがある。
 文政10年に取り決められた例祭の規定についてで明治維新まで存続した。
「神事のとりきめ」
1.祭祀のことは別当(等覚院)社僧(徳寿院)がとり計らい、神事全体については、両寺・輪番と敷村役人がその年柄を考慮して計らう。
とある。

 又次のようにもある。

 明治政府は、天皇の神権的権威確立のために、神武創業への王政復古祭政一致を目的に、従来混合していた新道と仏教とを分離する政策をとり、慶応4年(1868)諸神社に対し神社所属の寺僧の還俗を命じ、続いて仏像を神体とすることを禁止し、仏像仏具を神社より取り除かせれう命令を発した。
 津之宮八幡神社も、別当等覚院蜜道が当初、等覚将監と改名したが、高野山から等覚の二字は仏語であると言われ、福井将監と改名し神職を勤め、さいわい等覚院敷地が神社敷地外にあるので、そこに仏像仏具を移し徳寿院とし、徳寿院は神社敷地内にあるので、そこを社務所とするよう協議決定した。(近世魚吹八幡神社関係史料)より 

 現在魚吹八幡神社境内の北西にある招魂社の位置に徳寿院があり現在徳寿院がある場所に等覚院があった。
招魂社建立が明治11年8月なので徳寿院を撤去した跡地にできた事は年代的にも間違い無い。

 別当とは何ぞやという事だが、魚吹八幡神社の本宮である石清水八幡宮の田中宮司が書かれた本から引用すると、

 石清水八幡宮の名称も、明治維新以前は「石清水八幡宮寺」で、神さまを祀る寺、すなわち「宮寺」というスタイルでした。かつて一山のトップにあたる人を「検校(けんぎょう)」社事務の執行を行う人を「別当(べっとう)」といいましたが、いずれも僧侶で、立場的にも僧侶のほうが神主より上だったのです。いわば神主は、検校や別当の下で、社務を補佐する立場でした。
  御鎮座から明治維新までの長い間、神仏同座のもっとも典型的な宮寺であり、八幡大菩薩と呼ばれた神をお祀りしてきた当宮・・・(神社本庁総長石清水八幡宮宮司 田中恆清著 『神道のちから』)より

 

 

つづく