興浜(おきのはま)で候 

興(こう)ちゃんの手掘り郷土史

武神祭 その12 平成13年当番町興

2012年06月05日 | 魚吹八幡神社

 平成13年3月25日(日) 近年の武神祭の予備日をつくる原因の無常の雨が降りしきった日である。不思議な事にこの日の前後は晴天であった。

 筆頭氏子興浜ならではの後世に残る試行が凝らされた武神祭になるはずであったのだが、残念な事であった。

 興ちゃんは興伸会幹事長として檀尻運行に携わった。詳細な記録を残しているのでいずれこのブログで紹介できればと考えている。

 雨の中での檀尻運行は前梃子・梃子持ちは前梃子経験者でその年に発足した前梃子会が担当。根曳きを興伸会・青年団の参加者120名が担当。

 タイトル写真は、魚吹八幡神社楼門前での曳き子の集合写真。

 雨の中での強行な檀尻運行の為、カメラを持つ人も少なく、貴重な一枚である。

 
 平成12年当番町津市場北の時の津宮山魚吹寺徳寿院からの目録。
 来年平成13年の興浜が当番の時も今年と同じように御献上品をお願いしますという目録である。

 
 平成13年の時の請書。
 御鏡餅と御供酒を献上頂き受取ましたという請書。
 受取致候(うけとりいたしそうろう)はいい響きです。

 
 こちらは魚吹八幡神社の目録。
 平成12年の当番町津市場北の時に来年は御献上品をよろしくという目録。
 御献饌下され候也(ごけんせんくだされたくそうろうなり)

  
 平成13年の当番町の時に御献上品を受け取りましたという目録。
 御献饌下され候也(ごけんせんくだされそうろうなり)

 

 長々と続いた武神祭シリーズですが、ブログタイトルにふさわしい候文の書状で一旦終了とさせて頂き、次回より別のシリーズに移っていきたいと考えております。

終わり


武神祭 その11 昭和53年当番町興  四

2012年05月29日 | 魚吹八幡神社

 興浜が前回当番であった平成13年度の武神祭は無常の雨の為、献納行列は中止され場所を網干西小学校体育館に移しての献納行列披露と相成った。

 タイトル写真は、昭和53年の時の金刀比羅神社での出立ち前の風景である。

 興ちゃんその時中学2年生。大覚寺南側の関町に住んでいた。その関町の献納行列が赤穂四十七士の義士行列であったと覚えている。

 その行列に父が参加していた。赤穂義士が好きな父は近松勘六役であった。近松勘六34歳、赤穂藩馬廻役250石取。

 

 
 流し太鼓の衣装が自前の着物であったのがこの時かその前くらいから村持ちの着物に変わった。
現在調査中。

つづく


武神祭 その10 昭和53年当番町興  参

2012年05月22日 | 魚吹八幡神社

 タイトル写真は、興ちゃん登場である。

 三木毅俊氏からアルバムを預かって目を通していて驚いた。自分がオドケテ写っていた。それも2枚。

 隣に写っているのがお隣に住んでいたヒトツ年上の今栄清志の兄ちゃんなので間違い無い。

 自分のアルバムには無い自分の写真に35年ぶりの再会に感謝。

 中学生は体育の服装で統一されていたが、腕章を見たら、現在「水掛係」と「電線係」であったが、この当時は「水掛係」が「給水係」であったようだ。檀尻横に付いた水槽に前もって役員さんがお願いされていた家からバケツで水をもらい給水するのが中学生の仕事のひとつであった。

 

つづく


武神祭 その9 昭和53年当番町興  弐

2012年05月13日 | 魚吹八幡神社

 上のタイトル写真は、三木毅俊氏より提供して頂いた写真である。

 武神祭での一連の行事が終了し、檀尻が帰路につく魚吹八幡神社参道前の写真であるが、この写真の右上の部分を注目してもらいたい。

 楼門の部分に足場が組まれているのがわかるだろうか。

 この年の秋に行われる1650年秋季大祭に間に合うように楼門の改修工事中である。

 魚吹八幡神社楼門
 構造形式:三間一戸楼門 本瓦葺き
 建築年代:鬼瓦と丸瓦銘によって、貞享三年(1868)であることが確認できる。 『姫路市史 第15巻下』より

 万治元年(1658)5月2日に京極高和、網干興浜村に郡代・奉行を置く。
 万治元年(1658)5月3日に京極高和、播州龍野を出発し網干より乗船する。『旧丸亀藩事蹟』より

 京極高和が、龍野藩より丸亀藩に移り、飛び地である興浜に陣屋を置いてから10年後の建築である事がわかる。

つづく 


武神祭 その8 昭和53年当番町興  壱

2012年05月08日 | 魚吹八幡神社

 今から34年前の昭和53年(1978)4月5日(水)の興浜当番の武神祭での目録・請書類の書類はタイトル写真の目録のみしか残っていない。

 34年前という事で参加したり記憶に残っている方も多いのではないだろうか。

 小生興(こう)ちゃんは中学2年に進級する春休みであった。

 前梃子をされた赤鬼の上村博保氏はすでに亡くなられたが、興浜の祭り関係者は誰一人忘れていない偉人のひとりであり、青鬼の三木毅俊氏は興浜前梃子会会長として後輩である我々を温かく見守っていてくれている。

 昭和53年の写真は青鬼である三木毅俊氏からの提供である。ありがとうございます。

 
 元締さんの左側は当時の祭典委員長であった関町の田宮さんだ。

 
 前梃子の横綱がカッコイイ!添梃子のマワシの上に巻いたものが面白い!

 

 
 バックは魚吹八幡神社の土塀である事からして楼門前へのラストスパート。

つづく


武神祭 その7 昭和32年当番町興  弐

2012年05月01日 | 魚吹八幡神社

 昭和32年の武神祭の写真を手に入れる事ができた。

 興浜金刀比羅神社での檀尻出立ちの写真だ。

 注目すべき点は、モノクロなので特定できないが前梃子と梃子衆は赤色と青色の肌着を着用している事と、曳き子はその当時の秋祭りでも着用していた白色のシャツを着用している事だ。

 前梃子の梃子棒が鬼の金棒のようになっているように見えるのだが気のせいだろうか。

 元締・前梃子が誰であるかは今のところ解らないが、これから情報が入ってくる事を期待する。

 元締の方の衣装も少し変わっている。

 
 金刀比羅神社境内の上から出発する様子であろう。

 
 金刀比羅神社鳥居前。右側に見える掲示板の右側は現在の丸山洋品店でこの当時は山本家の前栽(せんざい)であった。

 
 金刀比羅神社の檀尻出立ち前の檀尻上での演芸風景。
 この写真で注目すべき点は、後方に写っている金刀比羅神社拝殿の屋根である。
 檀尻上での演者と金刀比羅神社の屋根が写るという事は金刀比羅神社での出立ちの演芸は檀尻が北を向き金刀比羅神社に向かって演芸を行っていたという事だろうか。
 当たり前と言えば当たり前の事ではあるが、昔の方は筋が通っている。

つづく


武神祭 その6 昭和32年当番町興  壱

2012年04月22日 | 魚吹八幡神社

 タイトル写真は昭和32年に当番町であった興浜が津宮山魚吹寺(徳寿院)への献上品の目録である。

 下の写真は、昭和31年4月5日(木)に当番町であった津市場が津宮山魚吹寺(徳寿院)へ御鏡餅三重と御供酒一樽を献上したので次の年の昭和32年4月5日(金)に興浜も同じように献上品をお願いしますという請書である。 

 この請書は津市場がご奉仕した昭和31年4月5日(木)に受け取ったようである。

 昭和11年の当番の時は3月7日が武神祭であったが昭和31年32年は4月5日となっている。

 下の2枚は上が昭和31年4月5日(木)に当番町であった津市場が武神祭をご奉仕した翌日の昭和31年4月6日(金)に魚吹八幡神社が翌年の当番町興浜に出された目録である。

 下が昭和32年4月5日(金)に興浜がご奉仕した時に出された目録である。

 昭和31年と昭和32年の目録の違いについて書いてみる。

 献納品については同じであるが、その次の文章に違いがある。

 上の昭和31年の目録は
 右昭和32年4月5日武神祭ニ御献饌被成下候也(ごけんせんなしくだされたくそうろうなり)
 津宮山魚吹寺(徳寿院)からの請書と同様の意味で興浜さん来年のご奉仕の時は御献饌を下さいますようという意味である。

 下の昭和32年の目録は
 右昭和32年4月5日武神祭ニ御献饌被成下候也(ごけんせんなしくだされそうろうなり)
 津宮山魚吹寺(徳寿院)からの目録と同様の意味で興浜さん御献饌を下さいましたという意味である。

つづく

 


武神祭 その5 昭和11年当番町興 追記

2012年04月11日 | 魚吹八幡神社

 昭和11年に行われた武神祭の貴重な写真を当時興惣代であった太田覚次郎氏のお宅から拝借する事ができた。

 タイトル写真は、太田家の玄関に飾られた武神祭に献納する「櫻と橘の造花」と「鬼大鏡餅」である。

 武神祭の数日前に興浜住民によって搗かれた餅を当日の朝まで惣代宅の玄関に飾られたのであろうと推測される。

 当時は今と違い興浜村の中での集会場所は金刀比羅神社社務所しか無かったのではと想像する。

 その金刀比羅神社社務所も確か誰かが住んでいたように聞いている。

 従って、現在なら公民館等に保管しておけたが、昭和11年当時は惣代宅となったのであろう。

 下の写真はタイトル写真の裏側に書かれていた部分を拡大したものであるが。

 「昭和11年3月7日 武神祭 鬼ノ鏡  供進 桜橘造花  鬼鏡餅二石 内 一石鏡  一石配リ餅  太田家」とある。

 鬼鏡餅二石(内 一石鏡  一石配リ餅) とある。

 1石分を大鏡餅に搗き、1石分を餅まき用の小餅にしたという事である。

 一石(いっこく)について書いてみよう。

 1合(ごう)≒180ml、10合=1升(しょう)、100合=1斗(と)、1000合=1石(こく)である。

 米俵1俵=4斗=400合であるので、1石は2.5俵という事になる。

 1俵をkg換算すると60kgになる。従って1石=60kg×2.5=150kgという事である。

 現在の武神祭では各村8俵の餅米を使用しているようである。

 8俵という事は3石よりも少し多い量である。

 

 

 上の写真は武神祭での興浜檀尻の貴重な写真である。

 魚吹八幡神社楼門前と推察さきる。檀尻の後方に移っているのは東側の燈籠であろう。

 この時の前梃子の一人は興ちゃんの亡くなった祖父であると亡くなった祖母から聞いた事がある。

 現在前梃子や梃子持ちは赤鬼・青鬼のスパッツを着用したりしているが、当時は色粉を体に塗ってのまわし姿であったようだ。

 帰って来てからお風呂で洗い流すのが大変だったと祖母は語っていた。祭りではいつも家族の弁当を造っては渉外のリヤカーに届けるのが精一杯で祭りに行った事が無かった祖母である。

※太田家の方々には貴重な写真を提供して頂き感謝の気持ちで一杯です。   
 太田覚次郎氏は大正14年10月から昭和24年1月までの期間興惣代として興浜の干拓事業等現在の興浜の礎を造られた偉大な方である。現在太田家の方と共に興浜偉人の一人として調査中である。


武神祭 その4 昭和11年当番町興

2012年04月07日 | 魚吹八幡神社

 昭和11年3月7日(土)に武神祭の当番であった記録が、津宮山魚吹寺からの請書として残っている。

 津宮山魚吹寺とは徳寿院の事である。

 現在と変わらず、徳寿院への献上品は御鏡餅三重六個と御供酒一樽である。

 昭和32年以降の記録では、津宮山魚吹寺と魚吹八幡神社社務所への目録という形で残っている。

 当然昭和11年にも魚吹八幡神社社務所への献上品はあったであろうが記録は残っていない。

 数年前から昭和11年の武神神の写真を探していたが発見できずの状況である。

 現在、檀尻が魚吹八幡神社に行く経路は金刀比羅神社を出発して本町通りを東にぬけて東雲橋を渡るが、東雲橋ができるまでは橋本筋商店街に架かる網干橋を渡っていたようである。網干橋の架橋が天保元年(1830)、東雲橋の架橋が明治26年(1893)である。(茨木利雄氏の資料より)

 たつの市新宮町の総合建設業の(株)進藤組が東雲橋の架け替え工事を昭和11年3月に受注、昭和12年3月に完成し、渡り初め式は三代夫婦では無くその年の武神祭の当番町であった新在家村の檀尻であったと、(株)進藤組のHPに書かれている。

 という事は昭和11年3月7日(土)に行われた興浜当番の武神祭の檀尻は東雲橋架け替え工事の寸前に渡ったのか、それとも網干橋を渡ったのかはわからない。

 今残るのはこの一枚の請書のみである。


武神祭 その3 南無八幡大菩薩

2012年04月01日 | 魚吹八幡神社

 魚吹八幡神社は明治以前は「福井庄津宮山魚吹寺八幡宮」と呼ばれていた。

 ところが、明治維新の廃仏毀釈という流れのなかで、「福井庄津宮山魚吹寺八幡宮」は魚吹八幡神社に改名された。

 魚吹八幡神社と徳寿院の関係について少し書いてみる。

 魚吹八幡神社の東側に隣接する津宮山魚吹寺徳寿院は明治以前は魚吹八幡神社と一体の神宮寺であった。

 魚吹八幡神社関係の古文書にこのようなものがある。
 文政10年に取り決められた例祭の規定についてで明治維新まで存続した。
「神事のとりきめ」
1.祭祀のことは別当(等覚院)社僧(徳寿院)がとり計らい、神事全体については、両寺・輪番と敷村役人がその年柄を考慮して計らう。
とある。

 又次のようにもある。

 明治政府は、天皇の神権的権威確立のために、神武創業への王政復古祭政一致を目的に、従来混合していた新道と仏教とを分離する政策をとり、慶応4年(1868)諸神社に対し神社所属の寺僧の還俗を命じ、続いて仏像を神体とすることを禁止し、仏像仏具を神社より取り除かせれう命令を発した。
 津之宮八幡神社も、別当等覚院蜜道が当初、等覚将監と改名したが、高野山から等覚の二字は仏語であると言われ、福井将監と改名し神職を勤め、さいわい等覚院敷地が神社敷地外にあるので、そこに仏像仏具を移し徳寿院とし、徳寿院は神社敷地内にあるので、そこを社務所とするよう協議決定した。(近世魚吹八幡神社関係史料)より 

 現在魚吹八幡神社境内の北西にある招魂社の位置に徳寿院があり現在徳寿院がある場所に等覚院があった。
招魂社建立が明治11年8月なので徳寿院を撤去した跡地にできた事は年代的にも間違い無い。

 別当とは何ぞやという事だが、魚吹八幡神社の本宮である石清水八幡宮の田中宮司が書かれた本から引用すると、

 石清水八幡宮の名称も、明治維新以前は「石清水八幡宮寺」で、神さまを祀る寺、すなわち「宮寺」というスタイルでした。かつて一山のトップにあたる人を「検校(けんぎょう)」社事務の執行を行う人を「別当(べっとう)」といいましたが、いずれも僧侶で、立場的にも僧侶のほうが神主より上だったのです。いわば神主は、検校や別当の下で、社務を補佐する立場でした。
  御鎮座から明治維新までの長い間、神仏同座のもっとも典型的な宮寺であり、八幡大菩薩と呼ばれた神をお祀りしてきた当宮・・・(神社本庁総長石清水八幡宮宮司 田中恆清著 『神道のちから』)より

 

 

つづく


武神祭 その2 徳寿院

2012年03月28日 | 魚吹八幡神社

 今年の武神祭の日の津宮山魚吹寺徳寿院の様子の写真を掲載する。

 
熊見村からの御鏡餅三重と御供酒を献納された徳寿院の本堂の様子


徳寿院のお世話をされている方々の温かい気持ちが伝わってくる境内の様子

つづく

 


武神祭 その1 今年当番町熊見村

2012年03月25日 | 魚吹八幡神社

 平成13年3月25日(日)の興浜が当番町であった武神祭は、無常の雨にたたられながらも檀尻と献納船のみ魚吹八幡神社に行き、演芸披露については網干西小学校体育館で行われた。

 その次の当番町である新在家以降3月最終土曜日を武神祭にし、次の日曜日を予備日と設定して今日に至っている。

 3月23日(金)の大雨の日に24(土)も雨予報が出ていた為に、今年の当番町である熊見村が25(日)に延期を決定した。
熊見村は前回の平成元年が昭和天皇の御崩御の年であった為、武神祭は中止であったので48年ぶりの御奉仕という事に相なった。

 今回は魚吹八幡神社の武神祭は皆さんいろいろと投稿されているようなので、徳寿院での武神祭を絡めながら、興浜の記録としたいと考えている。

 タイトル写真は、魚吹寺徳寿院へ献納品である御鏡餅三重と御供酒一樽を持ってこられた熊見村の使者3名と若衆の方々。

つづく


楼門屋根裏の落書きで候 魚吹八幡神社大掃除より

2009年12月31日 | 魚吹八幡神社

                

 魚吹八幡神社で27日に行われた年末大掃除では、興浜は主に楼門の清掃を担当させて頂いている。

 下の写真に写っている魚吹八幡宮の扁額の下から屋根裏に入る事ができる。

 普段は施錠されているが、秋祭りの電気工事をする時に一緒に入らせて頂いた。梁に書かれている文字がタイトル写真である。

 楼門の屋根替えを昭和3年に行った時に、痛んだ梁の部分を交換する木材に、大正3年に大鳥居を建てる時に使った木材を使用した跡であろうか。

 興浜興伸会と興浜青年団の清掃風景を含めての今年最後の投稿となりました。

 今年も一年ありがとうございました。

 来年もよろしくお願い申し上げます。

        

      

                         

     

     


魚吹八幡神社壮青年会 第6回大掃除

2009年12月30日 | 魚吹八幡神社

 27日(日)の午後、今年も魚吹八幡神社の大掃除が行われた。

 年々参加者も増え200名以上の有志が集まりあっという間に魚吹八幡神社のお掃除が終了し、新年を迎えるだけとなった。

     

     

     
 楼門では鳩の糞との格闘である。
 最初の頃はジェット洗浄機で掃除をしていたのだが、重要文化財という事で全て雑巾を使っての手拭きである。



     
 本殿と本殿まわりの掃除風景。

     
 拝殿の屋根の上でも鳩の糞と格闘中。

     
 馬舎まわりは、おみくじをはずして掃除中。

     
 厳島神社も掃除中。

              
 放生池が一番手間のかかる大仕事である。
 
     
 神輿殿は掃除がおわり注連縄を取替え中。

     

     
 新社務所も内側と外側から窓を拭いている。

     
 掃除がほぼ完了して、拝殿前の注連縄が取り替えられている。

     

     
 大屋根から境内東側の望む。
今年の秋祭りの前に設置した、屋台据付用の板石が綺麗に見える。

     
 15時、放生池の掃除のみを残し、澤宮司から終了の挨拶。

写真提供 魚吹八幡神社


魚吹八幡神社 糸井で候

2009年11月21日 | 魚吹八幡神社

魚吹八幡神社の古文書を少し紹介して魚吹八幡神社に吊るされる提灯の年号を整理しながら糸井の本殿前の提灯について書いてみる。

『宝暦十年(1760)庚辰(かのえたつ)二月
播磨国揖東郡揖西郡之内二十八箇村神社帳抄』に
天文三年(1534)甲午(きのえうま)八月朝日山ニ於テ龍野ト太田方闘争ノ時當社モ兵火に罹リシ・・・と続き
氏村
京極佐渡守様御領分
興濱村 天満村 長松村 田井村 宮内村 津市場村
代官飯塚伊兵衛様支配所
余子濱村 大江島村 西土井村 熊見村 山戸村 
脇坂淡路守様御領分
新在家村 丁村 宮田村 朝日谷村 糸井村 田村 和久村 出屋敷村 坂上村
脇坂淡路守様御領分 池田傳之助様御領分
平松村
建部丹波守様御領分
吉美村
右氏村二十八ケ村□申得候得共當時二十二ケ村有之興濱村新在家村余子濱村より九箇村役相勤候故二十八村にて御座候
別當 等覚院  社僧 徳寿院  社家 拾壱人

『播磨国揖東郡宮内村鎮座 魚吹八幡神社由緒』には
天正四年(1576)丙子(ひのえね)十月羽柴家ノ従竹中中集等ノ狼藉ニ依リ社頭神庫都テ兵火ニ罹リ社記神悉ク灰塵トナル只御正體ノミ神官河田□□□火ノ中ヨリ護出シ奉ル
寛永九年壬申(みずのえさる)正月宮社ヲ重営シ鎮座シ奉ル則今ノ社頭是ナリ
寛永年中京極家龍野入部田□リ寄付セラル以来崇敬暑シ云々

※この文書は明治三年七月に行われた神社調査において、各村の氏子惣代及び庄屋が丸亀藩網干出張所へ提出した文書である。

『播州揖東郡福井荘魚吹八幡宮由緒』には
貞亨年中より輪番と号し氏中より三箇村つつ庄屋三人社用の節罷出宮入用等取扱ふ事に相談一決し一年替の勤来セリ

年表順に整理してみる。

天正四年十月(1576)丙子(ひのえね)魚吹八幡神社は兵火にあい消失

寛永九年(1632)壬申(みずのえさる)魚吹八幡神社再建

明暦二年(1656)丙申(ひのえさる)本殿前箱提灯 糸井(龍野藩?)

万治元年(1658)戊戌(つちのえいぬ)京極刑部少輔知魚吹八幡神社社領を寄付、この時の祭礼日は八月十五日

貞亨年中(1684-1687)輪番制が始まる。この時は三ケ村交代の輪番制

正徳二年(1712)壬辰(みずのえたつ)本殿前箱提灯 宮内(丸亀藩)
 

享保四年(1719)己亥(つちのとい)魚吹八幡神社楼門大提灯 宮内(丸亀藩) 

宝暦十年(1760)庚辰(かのえたつ)時代の魚吹八幡神社の氏子は
興濱・天満・長松・田井・宮内・津市場・余子濱・大江島・西土井・熊見・山戸・新在家・丁・宮田・朝日谷・糸井・田・平松・吉美の二十二ケ村


明和五年(1768)戊子(つちのえね)本殿前箱提灯 糸井(龍野藩)

安永八年(1779)己亥(つちのとい)魚吹八幡神社拝殿箱提灯 天満(丸亀藩)長松(丸亀藩)田井(丸亀藩)


興ちゃんの独り言
万治元年に京極知公が社領を寄付するまでは、糸井村が中心となり本殿をお守りをしていたのだろうか。その後、丸亀藩京極知公が社領を寄付して丸亀藩の宮内村が本殿の提灯、楼門の大提灯と次々と寄付したあと、明和五年に糸井村が昔をしのび「糸井村こそ本殿の守り村」と提灯を寄付したのだろうか。

タイトル写真と下の写真は秋季大祭時の本殿前

現在提灯を吊っているフックは最近に取り付けたものである。

江戸時代の匠の技である提灯を吊るす為の木製の滑車が
今も残る。
めずらしく、貴重なものである。