興浜(おきのはま)で候 

興(こう)ちゃんの手掘り郷土史

橋で候7 横河重陳の石碑を訪ねて

2010年06月07日 | 橋梁

 3月21日に投稿した、橋で候 二見横河公園3の石碑の碑文の中に、この公園の隣の菩提寺観音寺にある重陳の巨碑は、市指定文化財である。と書いてあったのでもう一度訪ねてみた。

 タイトル写真の大きな石碑がそれで、4面全てに碑文が書かれてあるが、すでに風化しており解読は困難である。

 住職にお願いして石碑の拓本から読み取ったものを頂いて帰った。

 詳しくは後日になるが、横河家のご先祖である横河重陳が、寛永元年(1624)、大坂城桜紋の石垣築造の時、備前犬嶋から、縦4間、横8間の巨石を切り出して海上を大坂城に運び、人々を驚かした。桜門前の巨石がこれである。という事が書かれてあるようだ。

 真砂大橋の工事の担当部分が無事終ったという事もあり、横河グループの創業者である、横河民輔氏の墓参りも兼ねての訪問であったが、住職さんに聞けば、兄弟である民輔氏と震八郎氏以降のお墓は、北に少し行ったところにある大三昧にあるとの事だったので、そちらに向かった。





 
横河家の菩提寺である観音寺。
  

 


 
元々お寺の墓所にあったようだが、庫裡の横に移動されたようだ。

 

 
横河グループ創業者である、横河民輔氏のお墓。

 

 
 



大三昧にある、横河家の墓と、大きな石碑。
後日解読していく予定である。

 真砂大橋の現況をデジブックでご覧下さい。
 高欄は他社施工であるので、高欄設置前の写真となります。



 



西の馬場 渡神殿(わたりしんでん) 網干公民館主催歴史ウォーク 旭陽南地区を訪ねて 2 

2010年06月01日 | 歴史散歩

 前回から引き続き、今回は網干歴史ウォークにおいて興ちゃんがガイドをした「魚吹八幡神社お旅所(おたびしょ)」別名「西の馬場(ばば)」について簡単に書いてみます。

魚吹八幡神社 お旅所
 毎年10月21・22日には魚吹八幡神社の秋季祭礼があります。
御祭神である神功皇后(じんぐうこうごう)・応神天皇(おうじんてんのう)・玉依姫命(たまよりひめのみこと)が21日の宵宮の時にここ「お旅所」にある渡神殿(わたりしんでん)に神輿で来られて一泊されます。
 その時に氏子である興浜・新在家・余子浜・垣内・大江島・吉美・平松の七ケ村が道中を御神燈で照らし無事にこのお旅所に渡られるようにしていた事が、現在、魚吹八幡神社の秋祭りが「提灯まつり」の別名で呼ばれている由縁です。
 「お旅所」は別名「西の馬場」と呼ばれていますが、ここ津市場村だけは「宮の馬場」と呼んでいるようです。
 渡神殿には津市場の提灯が掛けられていて、かつてはお旅所の外周を津市場の村人が提灯を持ちお迎えされていたようです。
 22日の本宮祭には御祭神は魚吹八幡神社の本殿にお還りになられます。


というのが当日の虎の巻きであるが、補足説明があるので紹介する。

1.この歴史ウォークをする前に、ガイドを務めるメンバーで会議を行い、それぞれの案内文を披露する時に指摘された事であるが、その時「渡神殿」を”としんでん”と言ったところ”わたりしんでん”と言うだと皆さんから言われました。
こういう指摘をされるので先輩達との交流に感謝です。
舟で人を渡す場所は、渡し場(わたしば)であるし、ふたつの建物をつなぐ渡り廊下の事は渡殿(わたどの)と言うし、季節によって住む場所をかえる鳥は渡り鳥(わたりどり)と呼ぶのだから、神様が年に一夜お渡りになられる神殿は「わたりしんでん」に間違いない。ただ最近”としんでん”と呼ぶ祭り関係者を”わたりしんでん”に訂正する事ができるだろうか。これからの課題である。