興浜(おきのはま)で候 

興(こう)ちゃんの手掘り郷土史

秋祭り日記その5 23日清掃

2008年10月29日 | 魚吹八幡神社 秋祭り

  10月23日の朝、魚吹八幡神社境内の様子である。

 21、22日の秋祭りでのゴミが境内に散乱している。
ほとんどが、テキ屋で買って食べたあとのゴミと哀しいかなテキ屋の残骸である。

 いつの頃からか詳しく聞いていないが、朝日中学校の生徒の皆さんがボランティアで清掃活動を行っている。もちろん宮内の方や有志の方も参加されています。

 魚吹八幡神社壮青年会も若衆引き連れ参加している。

 神輿殿の周囲は神輿3ケ村(興浜・新在家・余子浜)の役員の方が来られている。

 今年に関してはあいにくの雨模様だったので人出が少ないのではと心配しながら7時30分頃お宮に到着。数人の中学生を参道で見かけて安堵していたら、みるみるうちに沢山の生徒さんが集まって来てくれた。

 ちなみにお宮の方々は5時から開始している。

 興ちゃんは今年休み年という事と、昨日風邪気味だったので早い時間に就寝したので、参加しやすかったがのだが、2日間の疲れや村の跡片付けがあると思うがこれを見て「おらが神社」の事なので一度ご参加ご協力をと思いこの記事を書く次第である。

 タイトル写真は、8時30分に作業を終えた生徒さんが集合している様子。
今年は朝日中学1年生320名が参加。
後は清掃業者の方が集めてまわるのみの状態になっている。

 朝日中学校の皆さんご苦労様でした。

        

 
  拝殿東側 テキ屋の跡か?          ベビーカステラの売れ残りか?

 
  国旗掲揚塔下                  西門

 
  西門アップ                   

 
  神輿殿裏                     境内北側

                                写真提供:魚吹八幡神社


秋祭り日記その4 無情の雨

2008年10月23日 | 魚吹八幡神社 秋祭り

 10月22日の本宮、天気は前日の予報で夕方から雨となってしまっていたが、当日予報より更に早い時間から雨となった。

 楼門のところで長老が「もうすぐ未半刻(ひつじはんとき)だ」と声がしたので、雨が降り始めたのは3時前だったのだろう。

 西の馬場(お旅所)に移動。15時30分合羽を着た小学校4年~6年生女子の巫女さんを先頭に興浜神輿がビニールシートを被り出発。

 今年はその後から興浜の若衆が幟を持って祭り絵巻に色を添えた。

 4年前は神輿の前であったが、後幟の方が後方から来る外敵を防ぐには心強い。

               
 この写真を見たら平成13年の興浜武神祭での無情の雨を思いだすであろう。

 今日のブログは興浜の方しか理解できない内容でした。

    
 16時40分 新在家檀尻が西の馬場から出発

               
 19時 風邪をひいたのか無念のリタイヤ。
 宮内交差点南側に出店されていた「あんまき」を土産に一足早く帰路につく。
 この「あんまき」興浜大覚寺荒神さんに来ていたが買いそびれていた。
 「あんまき」甘等にはお勧め。美味の上衛生なり。


秋祭り日記その3 お旅提灯宮入終了報告

2008年10月22日 | 魚吹八幡神社 秋祭り

 魚吹八幡神社秋季例祭の宵宮祭は10月21日の19:00に輪番・宮惣代・敷村役員が拝殿にあがり祭典が始まる。

それと時間を同じくしてお旅提灯が下記の七ケ村から集まってくる。

お旅提灯が宮入りする時間は細かく取り決められている。

平  松  19:00~19:25  (25分)
吉  美  19:25~19:45  (20分)
大江島  19:45~20:05  (20分)
興  浜  20:05~20:35  (30分)
新在家  20:35~21:15  (40分)
余子浜  21:15~21:35  (20分)
垣  内  21:35~22:00  (25分)

 この時間は各村の先頭の高張提灯が楼門を入ってから、最後尾の高張提灯が楼門を入りきる時間である。

 先頭の高張提灯のあと提灯行列(子供会なども含む)があり、中学少年団の提灯練り、若衆の提灯練りと続き、若衆の提灯練りで祭典委員長が持ち時間を調整する。中学少年団の提灯練りの前に子供会が提灯練りをする年もある。

 この持ち時間の分配は各村の戸数で決められたと聞いているが、最近では垣内村の戸数が多いと思われるが、改定されていない。

 ここ最近に関しては、各村取締役は時間を厳守する事に神経を尖らせていると言ってもいいほどだ。遅れれば最後に宮入りする垣内村の練り時間が短くなる為だ。垣内までの6ケ村が各村1分ずれ込んでも6分も垣内村は持ち時間を失う。あくまでも垣内は他村が時間をずれ込んだとしても22:00の宮入りは守っている。

 すべての提灯が宮入りを終了すれば、興浜・新在家・余子浜・垣内の4ケ村の各代表が角提灯を携えて、揃いお旅宮入り終了の旨を拝殿に居る輪番に報告する。

 この報告係りは興浜が担当する事になっている。タイトル写真がその様子だ。

 興浜祭典委員長「輪番に報告します。網干4ケ村お旅提灯宮入りが完了しました。」

輪番はこの報告を受け金幣の出御を指示する。

               
 輪番が報告を受けたあと大江島の金幣が出御する様子

               
 興浜の神輿に「応神天皇の御霊」が移されている様子

               
 楼門前において渡御される興浜神輿


秋祭り日記その2 興浜提灯練り

2008年10月22日 | 魚吹八幡神社 秋祭り

 興浜興伸会のお旅提灯練りである。

 タイトル写真は渦を巻くように楼門に向かって走り込んで来る様子。

  
  輪を作りながら入って来て、提灯をすりあわせている
  まさしく魚が砂を吹きあげてこの土地をつくりあげた魚吹神話だ

  

  
                        同じ隣保のよしみで古西君

            
 平成10年だったと記憶するが、檀尻音頭出しをされていた市岡先生に提灯練りの最後の音頭を作って頂いた。

 祭典委員長と興浜興伸会会長が時間を見計らい興浜興伸会会長が最後の音頭を出し興浜の若衆は宮に入る。戻す事は無い。

「お旅提灯 魚吹に燃えて これが止(とどめ)の 祭り唄」

 長谷川会長・金井お旅頭、ご苦労様でした。


秋祭り日記その1 秋祭りウォーク

2008年10月21日 | 魚吹八幡神社 秋祭り

 興浜村は今年の魚吹八幡神社秋祭りは檀尻が出ないので、21日は巫女の村練りと夜の提灯行列・提灯練りと神輿の渡御、22日は巫女行列と神輿の還御だけとなる。

 祭典委員長が今年の子供会会長と同級生という事もあり、タイトル写真にする運びとなった。そういわれると、このコンビ平成平成10年と11年で前梃子だったのだ。並びも一緒でなつかしい。

 本日これを皮切りに夕方まで、午前中は徒歩で午後は自転車で魚吹秋祭りめぐりをしてみた。

               
 9:50興浜公民館前 今年は檀尻が休み年の為、興浜興伸会の若衆が巫女のあとを幟で練って祭りの雰囲気を盛り上げた。


  
 10:30新在家網干神社 檀尻出立前の演芸披露

  
 新在家の昔ながらの提灯が並ぶ通り

  
 橋本町商店街には網干橋の絵柄の提灯が吊るされている

  
 網干橋には新在家文化祭典振興会の皆さんのお旅提灯が並ぶ

  
 10:50余子浜公民館前 船渡八幡神社の檀尻にはこの時間人影なし

               
 11:20垣内檀尻蔵前 檀尻出立前の演芸披露 タイミングよく30分全て見られた 

  
 12:20西の馬場付近にベーコンエッグたい焼きを2軒発見 美味也

               
 12:30 魚吹八幡神社到着

  
 神輿殿東側にテキヤが出店していないか確認
 社務所前には出店してしまっていた 困った


               
 13:15 新在家ことぶき食堂前 新在家流し行列通過


                  
 13:30 網干保育園前から新在家檀尻を撮影 楽しそうだ 

                
 14:15 津市場村 津市場本村屋台の村練り


                
 15:30 JR網干駅前 糸井和久高田福井坂出の屋台5台練り


                
 15:50 坂上屋台蔵前通過


富島神社秋祭り 本宮から

2008年10月20日 | 歴史散歩

 宵宮の際、神輿渡御を見ないまま帰ったので、還御されるところだけは見たいのでお宮に行った。一日遅れの昨日19日の出来事。

 興浜に伝わる掛け声とは少し違う「ヨーイ ヨーイ ヨーイ ヨーイ ウエー」は聞く事ができなかったが、神輿止めの方が「ヨーサジャー ヨーサジャー」の掛け声で止める瞬間は確認できた。

 神輿かき前4名が「ヨーイ ヨーイ ヨーイ ヨーイ ウエへー」のかけ声で、かいたまま神輿の前部を上下にゆする。(後はかいたまま静止状態)
 神輿かき後4名が同じかけ声で、かいたまま神輿の後を上下にゆする。(前はかいたまま静止状態)
 神輿かき全員が同時に同じかけ声で、前後調子を合わせて神輿を上下にゆする。
と、興浜の手引きにあるが、これも富島神社においてほぼ同じ事を確認できた。

                
 神具棒が軽トラに乗っていたのには少し驚いた。

 
 富島神社には神輿は2基あるようで、ご奉仕する村も輪番制のようだ。
 聞くところによると今年新調されたようだ。

                
 隅絞り軽トラを発見。伊達綱軽トラは見失った。

            西釜屋の檀尻も発見。

         
  苅屋屋台、拝殿前で最後のチョーサ。


魚吹八幡神社 秋祭り 注連縄張りのご奉仕当日

2008年10月19日 | 魚吹八幡神社 秋祭り

  10月16日に書いた記事の報告だ。

                
 日本触媒駐車場に8時に集合して、笹竹60本を切りトラックに積み込んだ。

               
 魚吹八幡神社境内で竹を切りそろえて、枝を落としてから西の馬場へ。
 宮内交差点の信号から西の馬場までの注連縄張りを終えてタイトル写真の渡神殿の注連縄張りと金幣殿の注連縄張りを行った。

               
 楼門前の笹竹と楼門から半鐘台までの注連縄張りが追加だったが、若い衆はいやな顔もせず高いところにあがりがんばってくれた。

        
 楼門東側に注連縄をくくり付けている様子

        
 楼門からの注連縄を半鐘台にくくりるけている様子

 作業が終ったのは11時だった。 
 伝統を継承すべく、作業中の掛け声は「ウエヘー」と言って意思疎通をはかってくれていました。興浜の掛け声「ウエヘー」の復活を心より喜びます。
 興浜興伸会並びに青年団の皆さんご苦労様でした。


富島神社秋祭り宵宮から

2008年10月18日 | 歴史散歩

 今日は仕事が終わってからたつの市御津町苅屋の嫁さんの実家の秋祭り見物に出掛けた。

 富島神社の氏子は苅屋村・濱田村西・濱田村高津・黒崎村・釜屋村西・釜屋村東があるようだ。

 毎年のように行っている祭りであるが、去年苅屋の神輿資料を偶然見た時にあれと感じた事があるので、子供の提灯行列から参加させて頂き何か見つけるものがあればと思ったが残念ながらおみやげはなかった。

 そのふと感じた事とは、神輿の掛け声だ。
苅屋村の資料に「掛け声はヨイヨイヨイヨイ ウエー」とあったのだ。

 興ちゃんは平成16年の興浜神輿新造から19年まで、新造披露式を含めると5回ご奉仕させて頂いた。いろいろな祭りの神輿を調べながら、自分なりにいろいろ考えた事があるがそれは置いといて、興浜自治会が平成7年に『興浜神輿手引』なる神輿マニュアルを作成している。聞くところによるとその頃祭典委員長になられた方が神輿の飾り付けや当日の運行の際非常に困ったので、有識者を集めて後々までの為にマニュアルを作成したと聞いている。神輿奉仕者になると当日の運行の部分を頂くのだが、興ちゃんが神輿奉仕をさせて頂いた時に驚いた事がひとつあった。マニュアルに書いてある掛け声を出していないのだ。3年前から去年まで世話役をさせて頂く機会に恵まれたので昔の掛け声を復活したのが、何と「ヨーイ ヨーイ ヨーイ ヨーイ ウエヘー」、神輿を止める時は神輿止めが「ヨーサジャー ヨーサジャー」の掛け声を出して止めるのだ。

 この事は苅屋は興浜と同じく丸亀藩であった事が同じような不思議な掛け声の理由であろうが、これも何も文献がないので丸亀藩好きな興ちゃんの想像に過ぎない。

  
 苅屋子供会が18時苅屋屋台蔵前集合という事だったので甥子を連れて集合
 濱田子供会の提灯神輿が通過

  
 苅屋子供会の提灯行列に参加

  

  

  

  

  

  

 
 苅屋村若中の提灯練りの様子


 魚吹八幡神社と富島神社の提灯行列を比較した時、興ちゃんが感じた事を記す

 1.魚吹八幡神社の提灯行列は七ケ村が順番に宮入するが、富島神社の宮入方法はそれぞれの子供会が宮入したあと若中の提灯が宮入するという事。
 この事は平成に入ったくらいから大人のお旅を行うようになったためだと理解しているが、確かな事ではない。

 2.魚吹八幡神社の場合、高張り提灯から高張り提灯までが村のクイキリとして大名行列の如くその他の村のものが横切ったりするような事があれば排除されるが、富島神社の場合、道中はおろか宮の中においても誰もが好きなように歩いているという事。

 おらが村が一番、おらが祭りが一番である事には間違いはない。


魚吹八幡神社 秋祭り 注連縄張りのご奉仕

2008年10月16日 | 魚吹八幡神社 秋祭り

  魚吹八幡神社秋祭りにおいて魚吹八幡神社から西の馬場までの神様のお旅区間は注連縄が張られるのであるが、いつの頃かは知らないのだがその作業を宮内交差点から西の馬場までの区間を檀尻が休み年の村がご奉仕する事になっている。

 今年は興浜がご奉仕する番であるので、興浜興伸会の皆さんとご奉仕する予定である。

 今年は19日が日曜日なので皆が出やすい事もありこの日がご奉仕日となった。朝から笹竹100本を切ってから魚吹八幡神社に向かうのであるが、この事を掲載した理由のひとつに興浜の皆さんの参加呼びかけともうひとつは前回の4年前の出来事を書き留めるいい機会だったからだ。

 前回の平成16年の秋祭りは前日の20日は台風23号の襲来というアクシデントに見舞われた。大型でこのあたりも被害も多かった事は下記の神戸新聞記事を読んで頂ければ思い出される方も多いと思う。

 魚吹八幡神社も被害を受けていた。強風の為境内の東側の大木が倒れたのだ。そこはまさしく屋台を据えつける場所であり、加納土木社長がユニック車で駆けつけたのだがお宮のチェーンソーの調子が悪くなり興ちゃんもチェーンソーを持って駆けつけ参戦した。どうにか境内は祭りができる状態になったが、さて毎年なら前日に行なわれる注連縄張りをその年は21日宵宮の朝に行なわなければならなくなった。

 興浜協議委員の皆さんは興浜神輿の飾り付けがあるので、その時興浜興伸会会長をさせて頂いていた興ちゃんが若い衆を引き連れてご奉仕させて頂いた。

 テキ屋の車はやって来る、神輿の各村役員さん達も来る、もちろん宮内の方々、神社の方々、わけもわからないまま若い衆のがんばりであっという間に注連縄張り作業を成し遂げた事をここに記録する。

 あの団結力と責任感を思い出し、今年もご奉仕を無時完了できる事を祈念する。

  

 宮内交差点からお旅所までの注連縄

 
    魚吹八幡神社が作成している当日の作業マニュアル
    興浜興伸会の皆さん予習しておいてくれ

 
   平成16年10月21日の神戸新聞朝刊での台風23号の記事


青山稲岡神社内の金刀比羅神社

2008年10月15日 | 金刀比羅神社

 一昨日に訪れた青山稲岡神社の境内の西側に金刀比羅神社がある。
同行者があまり興味がない為、詳しい調査は後日にする事にしたが、自分自身が忘れないようにアップする事にした。

 秋祭りという事で幟があがった写真を撮影する事ができたのはうれしい事なのですが、ふと気になってしかたがない事が一点ある。金刀比羅神社とタイトルを付けさせていただいたが、幟は金比羅神社と、の文字がない。その他の物には金刀比羅神社と書いてある。なぜか。

 失礼ではあるが興浜の方でも金刀比羅神社と間違わずに書ける方は少ない。

 金刀比羅神社を見るとどうも気になるのは当たり前。丸亀藩興浜人だからでしょう。


魚吹八幡神社 秋祭り 興浜提灯練り

2008年10月14日 | 魚吹八幡神社 秋祭り

 今日の原稿は、21日の夜に楼門前で行なわれている提灯練りの際読み上げられる文章だ。夜という事もあり中学生ではなく大人の方が読まれている。平成16年の時興浜興伸会の若者に書いてもらった原稿を紹介する。

 最近、魚吹八幡神社といえば提灯練り提灯祭りと楼門前で激しく提灯をたたき割る奇祭のようになってしまっているが、はたしてそれが本当なのか。
 各村競うように、大提灯をつくったりクラッカーを仕込んだりとしているが、興浜は人数にものを言わせて激しく練って提灯をたたき割り、ヨイヨで練り、音頭を出して練るというシンプルな形をここ最近続けている。

 平成4年の時、興浜興伸会の会長に提灯錬りの準備を任せて頂き、興浜興伸会の幟を製作してもらい、「お旅頭(おたびがしら)」なる役を勝手につくってしまい、提灯の竹切りから責任をもって当日まで準備をさせていただいた事は非常に光栄極まる事であった。

 さて、この提灯練り、昔は貴重な提灯をたたき割るなどしなかっただろう。

 興ちゃんが幼い時は、父の背中におぶさり提灯を持ち興浜から魚吹八幡神社に行き、興浜の神輿について興浜住民の責任として興浜神輿のあかり提灯として西の馬場まで渡御したのだ。ただその時興浜住民の提灯行列の後方に着いてくる興浜の青年団の方々が青竹で威勢良く練っていたのを覚えている。

 現在の貴重な提灯をたたき割るスタイルの原型は興浜の重鎮であるN氏とI氏が昭和50年代後半に始めた事を各村がまねていると聞いている。サンテレビでのテレビ放送、平成10年から始まったケーブルテレビWinkの放送が提灯錬りを派手にした要因のひとつという事は忘れてはならない事である。

 街灯がない時代の先人達が今日の祭りを見たらどう思われるだろう。提灯を粗末にするなと叱られるだろうが、今になってはどうしようもない。

 興ちゃんの勝手な持論であるが、御神体がお旅所に渡御される祭りの原形はインドのジャガンナート寺院の大祭であると思っている。ジャガンナートの神様は新月の夜にお旅所に渡られる。その渡御される山車が京都祇園祭の山鉾の原型だと言われている。ジャガンナートの神様の渡御には明かり提灯がないが、興ちゃんが言いたい事は新月の夜にお旅所に渡られたのではないだろうか。という事だ。

 今年も興浜の心意気を見せてもらいたいものだ。


姫路市 青山地区へ

2008年10月13日 | 歴史散歩

 昨日の雑学塾の歴史めぐりの影響か、今日は青山地区へ行ってきた。その一部を紹介する。

 稲岡神社が昨日秋祭りだったのか、静まりかえった様子だった。
 
 祭りが終ったので5台の屋台を片付け中なのでしょうか。

  
                            灯明する為に後部に階段がついた燈籠

 

  
製紙組合の碑
 青山の西、旧山陽道と国道2号線が交差する手前にある石碑。
明治17年に青山村の山口重太郎が大阪から紙の製法を伝えた。その後このあたりで和紙の製造が盛んになり、製紙の創始者で組合の人々の世話をして功のあった米田勝松をたたえた石碑。


  

  
青山のかけ樋(ひ)
 
本日のお気に入り場所
 稲岡山の西にある江戸時代の石造交差水路。青山小学校南の上池・下池から引いた水は上の写真では東西に流れる深い水路の為、南側の青山地区に流す事が困難な為、細い石造の水路を設置し、北の方から青山川の水を引いた。その東西の深い水路を越す石造の水路がかけ樋だ。


       

     
旧山陽道の道標
 
本日の目的地
 国道2号線夢前橋西交差点から国道29号線を北へ100mほど行った左側に道標がある。
 安政2年(1855)の造立で、高さ2.13mの市内最大級の道標。
 五角柱のめずらしい形をしている。
資料によると右は因州・伯州・作州・雲州、左は備前・九州方面、東は姫路・大坂・京・江戸とあり、さらに主要地までの距離を表示している。


  

  
道標から西に旧山陽道沿いの青山の風景


今宿の牛市・省己橋・西国街道・縄手の下を訪ねて

2008年10月12日 | 歴史散歩

 9月での網干雑学塾で、姫路地名研究会の田中先生が「地名の話-省己橋から西国街道そして縄手の下-」の話をされた。
 本日はその現地を雑学塾のメンバーで訪ねた。

 先生の話をあまりメモしていなかった為、姫路市教育委員会発行の『文化財見学シリーズ』と先生のブログ『姫路の地名色模様』から孫引きしながらの孫引きブログの始まりだ。

 最初は琴丘高校東にある大井川分水堰(おおゆかわぶんすいぜき)に行った。
写真は無し。宅地化がすすみここ2年程で以前の状態ではなくなっていた。
 明治9年から20年以上にわたった大井川水論和解の分水堰。
 この大井川の源流は山ではなく湧き水のようだ。


               
 省己橋(せいこばし)
 琴丘高校前に架かる橋。別所という小字の土地。
 琴丘高校があるところは元々県の豚や牛の種畜場だったようだ。



     

    
 縄手の下(なわてのした)踏切り
 今宿にある小字「縄手の下」が踏切名に用いられている。
 「縄」の付く地名は全国にあるようで、幹線道路沿いにつけられた特徴ある地名のようだ。
 国道2号線と並行して北側に走る西国街道と呼ばれる道が、縄手道だったようようだ。


               
 その『西国街道』の石碑
 最近できたような石碑だ。岳神社の秋祭りの太鼓の音が聞こえてきていた


                
 西国街道の石碑の東側にある旧高岡村道路元標
 旧高岡村役場のあった所。路線の起点・終点・経過地を示す標識で、大正9年(1920)兵庫県告示によって飾磨郡内の27ケ所に設置された。 


                 
 岳神社道標(たかおかじんじゃどうひょう) 
 西国街道の西今宿3丁目の公園のすぐ東にある。
 正面に「式内岳神社」 左に「北在五丁」 
 背面に「庚午閏年(明治3年)10月 姫路藩庁」 右に村民30人の名が刻まれている。
 岳神社は「延喜式」に記載されている式内社。


        
 茶屋の地蔵さん
 西今宿3丁目の公園で祭られている道祖神 

 

   
 神子岡の髭題目塔
 右側に「元祖第四百遠忌報恩徳建立之」と刻まれ、日蓮の四百遠忌にあたる延宝9年(1681)に建てられたもの。同宗では各地で盛大な報恩会が行なわれたようで、同じ月日付の題目塔が白浜町宇佐崎や坂田町にもみられる。


        

          
 タイトル写真にもある今宿の牛市
 先生が到着した時に「家がない」と言われた。その場所には新しい家が建っていた。かつて先生が訪れた家の屋根には牛市を示す牛の瓦があがっていたとの事。

 そこで興ちゃんは勇気をだしてその家のインターホンを押した。
今日のその時、平成20年10月12日11:50
家の方が出て来られ、玄関先に大切に残してある瓦を見せて頂いた。

 今宿の牛市
 戦前に神子岡のふもと、今宿の街道南側に牛市があった。戦後取引所は北側に移った。この牛市は明治のはじめのころより開かれているようだが、記録に出てくるのは明治16年。株式会社になったのが明治36年。牛は主に岡山や鳥取・九州・四国の農家から集められ市はすこぶる賑わったが、昭和32年を頂点に衰退していった。


田中先生から屋根の上にあった時の写真を頂きました。
 


   
 面白山(おもじろやま)

       
 帰り道、網干の喫茶店に立ち寄った時、垣内の檀尻の試し曳きと遭遇。


魚吹八幡神社 秋祭り 中学生放送文 興浜流し

2008年10月11日 | 魚吹八幡神社 秋祭り

 本日は、檀尻の前を艶やかに進む興浜流しの紹介。平成14年と19年の原稿。

 平成に入ってから、檀尻の奉納演芸は『興浜太鼓集団 一擲』と『興浜子供会6年生の太鼓』がほとんどであるが、それまでは女性による『踊り』であった。

 さらに時代をさかのぼると、専門の演芸集団が檀尻の奉納演芸を行っていたのだろう。21日朝、出立ちの時に興浜金刀比羅神社において舞台をひろげ演芸を披露したあと舞台をしまい西の馬場に向けて出発。その時檀尻の先導役が演芸集団の方々による流し行列であったのだろう。現在も興浜流しが『博多どんたく』の曲を奏でながら歩く事が唯一今に残る興浜流しの姿ではないだろうか。

 昭和3年の魚吹八幡神社1600年大祭の時の文書にこうある。
 1 檀尻芸ハ各40分以内トスルコト。
 2 楼門前ニテノ檀尻芸ハ各同時ニ行フコト、其時間ハ1時間以内ノコト。

 1は、22日における西の馬場において檀尻奉納演芸は各村40分以内で行うという事。
 2は、楼門前では出場した全ての檀尻が奉納演芸を1時間以内で行うという事。のようだ。

 昭和時代の後期に檀尻奉納演芸を参加した檀尻村が一斉に行っていたのはこの時の流れであろう。