興浜(おきのはま)で候 

興(こう)ちゃんの手掘り郷土史

渡邊 鼎  その10  大覚寺由来の石碑

2009年06月29日 | 興浜偉人傳

 前回から少し間が空きましたが、渡邊鼎さんの偉人傳を再開します。

 これからは鼎さんの晩年の大覚寺での功績を書く事になります。大覚寺の荒神さんのお祭が3日間とも晴れたという事で今日からの再開としました。 

 境内東側にある総門のすぐ北側に大きな石碑があります。

 この石碑には、大覚寺の由来と、鼎さんの功績が書かれています。

 石碑の文字を書き写すのに精一杯の状態でしたので、今回は詳しい解説文はありませんが、すばらしい石碑だと思っています。

 

 

石碑の中に「檀家有渡邊鼎氏」とある。


大賀ハス(古代ハス)を放生池へ

2009年06月17日 | 大覚寺

 本日の朝、大覚寺内の放生池に大賀ハス(古代ハス)の苗を植えた。

 現在この池は、睡蓮が見事に咲いている。

 睡蓮:和名はヒツジグサで、未(ひつじ)の刻(深夜の2時頃)に咲くのでそう呼ばれたようだが、実際は明るくなると開き暗くなると閉じるようであるが、観察していると花によってマチマチのようだ。

 調べてみると7月10日と8月5日の誕生花のようである。

 興ちゃんの誕生日は7月10日だ。これはうれしい事である。 

タイトルの大賀ハス(古代ハス)を池の南側に3ツの鉢に植えた。

興浜の石工植大さんの大きな火鉢がふたつと、興浜の仕出しまる万の大きな植木鉢にまだちいさな苗を植えた。

きれいなハスの花を見る事ができるのは来年だろうか。

大覚寺に行けば、遠いところに行かなくても、きれいなハスと睡蓮は見る事ができる。


網干公民館 網干歴史ウォーク通信 義徳院

2009年06月16日 | 歴史散歩

 4月26日に網干公民館主催の歴史ウォーク(浜田)において興ちゃんが義徳院と林松寺跡の案内させて頂いた事は既に記事にしています。

 このたび6月1日発行の網干公民館だよりの中で歴史ウォーク通信として掲載して頂いた事を書いてみます。

 歴史ウォークでの興ちゃんが考えた案内の虎の巻は
義徳院
 山号仁弘山(にんこうざん)、寺号義徳院(ぎとくいん)は、盤珪禅師の生誕地です。
 盤珪は徳川幕府が開かれてから約20年後の1622年に徳島から流れてきた儒医菅原道節の三男として生れました。
 11歳の時に父を失い兄に育てられました。
 その後日本各地できびしい修行をし、「不生禅」を説き、龍門寺を開祖したという事です。
 

 という内容ですが、公民館だよりの原稿はちょっと違った視線から書かせてもらおうと思い下記のような文章になりました。

 山号仁弘山(にんこうざん)、寺号義徳院(ぎとくいん)は、盤珪国師の生誕地です。境内には約260年前に建立された「盤珪国師誕生之地」の石碑と、産湯に使った井戸である「盤珪国師初湯之井」があります。日本各地できびしい修行をし、「不生禅」を説き、龍門寺を開祖しました。生誕地である網干ならではの事はないだろうかと古文書学習会で皆さんに尋ねたら網干小学校の古い校歌を教えて頂きました。古い校歌の一番の歌詞の中に「♪御法 ゆかしき 龍門寺 国師 盤珪 名はかほる」とあります。さてこの校歌を歌われたのはいつごろまでだったのでしょうか。

 という内容でしたが、先輩方よりこの校歌は終戦までで、終戦後に現在の「♪歴史の都・・・」に1番と2番の歌詞が変わったと教えて頂きました。3番と4番はもとからあった歌詞のようです。

昭和10年3月8日校歌制定兵庫県知事採用
文部省図書監修官 井上 赳 作詞
東京音楽学校講師 梁田 貞 作曲
姫路市立網干小学校の古い校歌の一番
♪玉垣 浄き 津の宮の
 御稜威は 千代に いや崇く
 御法 ゆかしき 龍門寺
 国師 盤珪 名はかほる
  いざや 我等は誓も固く
  皇国に 捧げん まことの心

 


加藤家網干サロンより 龍力こうのとり

2009年06月14日 | 歴史散歩

  昨日加藤家での土曜サロンの話者は本田商店本田会長なのでお酒の話しと思っていたら、唎き酒会も兼ねていました。

 冒頭会長は、伊豆の石廊崎権現(いろうざきごんげん)の話しをされて、その話しに登場する播州の豪商源内について歴史が好きな方は調べて下さいとありました。

 石廊崎権現は今もこの約11mの帆柱が基礎となりの社殿を支えているようでした。もちろん本田会長もお参りに行かれたようで龍力の樽酒他たくさんのお酒を奉献されたようです。

 配布された資料はインターネットからのようで、長くなりますので下の部分をクリックするとリンクしますので見て下さい。
 
石廊崎権現の帆柱(Wikipedia)
 石廊崎権現の帆柱

 その他検索すると次のようなものも見つかりました。
 
民話・昔話し・・・石廊崎権現の帆柱

 机の上にはテイスティング用のシートが置かれていますが、今回は12種類のお酒を利き酒させて頂きました。

            
 香港で行われた「International WineFair」に行かれた時の話しもされていましたが、香港の高級中華レストランでは高級ワインとともに「秋津」が720ml入り6万円で並んでいるとの事でした。会長にすればロマネコンティが180
万円で30分の1だからまだまだとおっしゃっていました。

            
 タイトル写真は「純米大吟醸 コウノトリ」のラベルです。
このラベルの絵は、愛子内親王殿下の絵の先生であるクリストフ先生が書かれたようです。秋篠宮様のご家族をコウノトリに見立てて書かれておられるようで、最初に秋篠宮様が25本購入されたようです。美智子様も「天賜杯」を御愛飲のようです。
 


大覚寺 お経と法話の会へ

2009年06月07日 | 大覚寺

 中西住職から、住職をして間もない頃に、「お経と法話の会」を3年余り続けていたが、このたび明法殿が完成したのでこの会を復活したと挨拶がありました。

 つづいて弟子の末吉さんが「浄土宗西山勤行式」から「三尊礼(さんぞんらい)」と「発願文(はつがんもん)」の発声指導がありました。

 浄土真宗の「真宗勤行集」には、お経の1文字1文字に音の高低を表す‘博士(はかせ)’という記号が付いているのですが、浄土宗には付いていないようです。

 末吉さんが「三尊礼(さんぞんらい)」と「発願文(はつがんもん)」に博士を付けたものをつくられたようでそれを見ながらの練習となりました。 

 

 練習のあと皆で「浄土宗西山勤行式」を読んだのですが、浄土宗のお経は題目の次の一句目は導師である中西住職の横に座っている弟子の末吉さんが読み上げる事になっているようでその役割を‘ゆいな’と呼ぶようです。

 お茶とお菓子でのティータイムのあと中西住職のお経の解説がありました。全てを記憶できていないので手控えたものを参考に書いてみます。

 

 「香偈(こうげ)」と「三宝礼(さんぽうらい)」の説明がありました。

 なぜお経というのかというお話。
 地球の経度が縦線を表すように経という言葉は縦糸という意味があるようです。昔お釈迦様の時代は文字があったようですが、お釈迦様は本を出していません。お釈迦様が話された言葉を弟子達が後世に伝える為にサンスクリットという言葉で書いたものがお経であり、サンスクリット語で‘スートラ’と言います。
 当時紙は無く、木の葉に書いたようです。
貝多羅葉(ばいたらよう)という大きく丈夫な葉に針などで傷つけるようように文字を書くとその部分が黒くなり文字として残るようです。
 もちろん貝多羅葉一枚にお経を書く事など無理なので、数枚に書いて穴をあけて重ねて縦糸を通すとスートラの出来上がり。

 調べてみると、日本でも500年程前に武士がこの貝多羅葉に似た多羅葉(たらよう)に文字を書き便りとした事が「葉書」の語源となったようです。「葉書の木」とも言われ、平成9年4月に総務省より「郵便の木」の指定を受けたようです。

 ちなみに横糸という言葉は常に移り変わっていくあてにならない仮のものを表しているとあります。
 その日、興ちゃんはとりあえず南縁の一番後ろの席に着席したらすぐ隣に綺麗なご婦人が座られました。意気統合して次回もご一緒する約束も取り付けましたがこのような場でよこしまな気持ちになった事を帰ってから深く反省した次第です。

 その他にもたくさん話されましたが、なかなか文章にするのは難しいです。