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興浜(おきのはま)で候 

興(こう)ちゃんの手掘り郷土史

片岡家 一般公開 筑前琵琶演奏

2008年07月20日 | 歴史散歩

 

 姫路市網干区の網干商店街の土曜夜店が7月12・19・26日の3日間に行なわれている。

 その商店街の西の端のほうにある、300年以上の歴史がある片岡家が一般公開されている。

 その片岡家において19日と26日の2日間、網干区新在家在住の熊谷さん親子による筑前琵琶の弾き語り演奏会があった。

 うまく表現できないが、響きわたる弾き語りの筑前琵琶の音は、歴史ある大庄屋にふさわしい舞台であった。

 題目は『安宅の関』と『扇の的』

 来週の題目は『壇ノ浦』と『扇の的』

 筑前琵琶について詳しく調べていないのでこれ以上書く事はできないが、26日にも演奏があるので、このような機会はめったにないので、取り急ぎ皆さんにご報告します。世話人一同ひとりでも多くのご来場をお待ちします。

 筑前琵琶について熊谷さんに取材できれば詳しくUPします。


鶴林寺 国宝太子堂 檜皮ふき見学会へ

2008年07月13日 | 歴史散歩

  

 加古川市加古川町北在家にある鶴林寺では、国宝である太子堂が屋根修理工事を行っている。

 屋根の檜皮(ひわだ)ふき作業に入っており、今日と明日現地見学会がある事を知り行ってきた。

 聖徳太子創建の太子堂は1112年に建てられた。
26年ぶりのふき替えとの事で、約6万枚の檜皮(幅15cm長さ75cm)を使用し厚さは10cm近くなるとの事である。

 ちなみに興ちゃんが住む、姫路市網干区興浜にある金刀比羅神社の屋根は、明治25年に檜皮の葺き替えを行った記録がある。その後昭和26年の葺き替えは檜皮ふきではなく、銅版を張る屋根替えで今日に至っている。

  
すでに完成している軒先の部分。

        
左の黒い部分はまだ大丈夫なので葺き替えていないとの事。
古くからの伝統技法を守りながら、現在では軒の上に水切銅版を張り軒先の耐久性を高めていると、修理工事監督から説明があった。

        
使用材料である檜の皮ですが、この状態に加工されるまでには沢山の工程がある。

  
今日は横一列に並んで檜皮を張る作業を見学した。

        
檜皮ふきにはかかせない竹釘。
専門職人「竹釘師」により製造されている。
真竹を長さ3.6cm径3mmに裁断し、天日乾燥したあと焙煎するとの事。
見学をされた方は皆さんお土産にほしかったようですが、現場監督から貴重な材料なのでご遠慮下さいとの事であったが、興ちゃんは現場に竹釘が一本落ちているのを発見。あとはご想像にお任せします。
檜皮は30年~40年が葺き替え時期だが、この竹釘は傷みがないとの事。

        
水で濡らしておいた、檜の平皮を1.2cmほどの間隔で葺き重ね、竹釘を20~30本ほど口の中に含み、舌先で1本ずつ向きを揃えて選りだしては屋根金槌で打ち込んでいく。左手は檜皮を押さえ右手で竹釘を打つというこのすばやい職人技を見たかったのだ。  


姫路菓子博覧会

2008年05月06日 | 歴史散歩

姫路菓子博覧会

 本日、姫路菓子博に行ってきました。

 菓子博にも興浜と祭りネタがありました。

 


ふれあいステージにおいて、11:15~11:30 興浜太鼓集団一擲(和太鼓)が出演
会場が広いのか、音が割れて聞こえました
興浜公民館で練習している時に我が家に聞こえてくる音の方がいいぞ


山本勘助が使っていた本物の兜のようです


伊達政宗の兜はミニチュアでした

 
どうもまつりのポスターが張ってあると気になります

 

 このポスターは四国香川県観音寺市の太鼓台まつりのポスターです。
『太鼓台』の上にひらがなで『ちょうさ』と書いてあります。
これは、この地方では『太鼓台』の事を『ちょうさ』と呼ぶからです。

 ここ、姫路市網干の魚吹八幡神社では、『太鼓台』の事を『屋台』と書き『やったい』と呼んでいます。ただその『やったい』を担ぎ手が『ちょうさ』と声をそろえて差しあげるのが特徴です。

 播磨地方の海岸線の祭りには『屋台』と呼ぶ『太鼓台』は神輿のお供をして太鼓を打ち鳴らす賑やかしとしてかかせないものですが、場所により『やったい』『やたい』『やっさ』と呼び方がかわります。

 ここ姫路市網干の魚吹八幡神社は寛永9年(1632)に京極家の社地を寄附して本社を再興され今日に至っています。姫路市網干は姫路藩であったが、寛永14年(1637)、龍野藩京極家の領有となりました。そして、万治元年(1658)、龍野藩主であった京極家は讃岐丸亀藩に移封されます。しかし、ここ網干の興浜とその他28ケ村は引き続き丸亀藩京極家の飛地になりました。丸亀藩はここ興浜に網干陣屋を設け、代官・奉行をおきこの飛び地を治めました。

 さらに付け加えると、この『太鼓台』の事を四国西讃岐地方では『さぁしましょ』とも呼んでいるところがあるようです。ここ興浜より西に揖保川を渡った浜田・苅屋・釜屋・黒崎地区の富島神社でも『太鼓台』の事を『屋台』と言い、差し上げる時の掛け声は『ちょうさ』である。さらに『さぁしましょ』という掛け声が入る事もあるようです。

 魚吹八幡神社と富島神社の掛け声が『ちょうさ』になったのは、同じ丸亀藩だからでしょう。もしかしたら、近い昔はここ魚吹八幡神社と富島神社に限っては『屋台』の事を『ちょうさ』と呼んでいたのかもしれませんが、正しい文献が出てこない限り『興ちゃん』の想像に過ぎません。


はなまつりINあぼし

2008年05月05日 | 歴史散歩

はなまつりINあぼし

 本日、ここ姫路市網干において、『はなまつりINあぼし』と題していろいろなところで、バザーや一般公開がありました。

 その中で、専念寺での亀田豊氏による彫刻仏像展と昨日の準備で紹介した片岡家の模様を掲載します。


あまりにすばらしかったので、ご覧下さい


姫路市網干区新在家本町通りにある大庄屋片岡家


椛本さんによる手品の様子 楽しいひとときでした

 

 


下太田薬師堂春祭り

2008年05月05日 | 歴史散歩

 今日の朝、下太田廃寺跡の横を通ったら、吹流しが見えたのでこれは祭りだと思い少しばかり立ち寄って話しを聞いてみた。

 下太田地区にある薬師堂の為、下太田地区の方が祭りをしているようです。午後から餅ほりが行なわれるようである。今日は祭りやイベントが重なっているので餅ほりに行けないのが残念です。餅ほり愛好家として餅ほりカレンダーには書き込んでおきます。


この薬師堂は昭和に入ってから建てられたもの

 
下太田廃寺跡 礎石が残されています

 

 

 
東側に移築された、もとからあった薬師堂
中をのぞかせていただいたら、黒岡大明神が祀っていました


龍野藩南組大庄屋片岡家一般公開

2008年05月04日 | 歴史散歩

 明日5月5日、網干仏教会の伝統行事『花まつり』に合わせて『はなまつりINあぼし』というイベントが網干の各所であるようです。

 ここ姫路市網干区新在家本町通りにある片岡家は、江戸時代元禄15年(1702)年の建築で姫路市でもっとも古い町家である。龍野藩南組15ケ村の大庄屋でした。

 明日この片岡家が一般公開されます。私【興ちゃん】も準備を少し手伝わせて頂きました。一足早く展示の模様を写真で紹介します。


玄関から入ったら、鯉幟がお出迎え


明日のメインテーマは『高濱登さんのひょうたん展』でしょうか


たくさんの瓢箪(ひょうたん)にびっくりです


朝来た時はこのような展示でしたが、結果下のようになりました


高張り提灯が粋です


武者物の定番、加藤清正

 
裃(かみしも)等、昔の着物を展示中でした


網干公民館主催歴史ウォーク 網干区垣内地区を訪ねて

2008年04月13日 | 歴史散歩

 今日の9時から12時まで、網干公民館主催の歴史ウォークがありました。
ここ最近この時期に行なわれている行事のようです。

 今年は『垣内地区』をまわりました。
コースは順に網干公民館→三石天満宮→狭間公園→お旅道→万福寺→武大神社→河野鉄兜生家跡→長太郎石→蔵の内→光接院跡→古網干遺跡でした。

 網干公民館古文書学習会の生徒が各場所の説明にあたるという事になっており、私、興ちゃんは『光接院跡』の説明担当になりました。


本日のコースマップ

 


三石天満宮


狭間公園


お旅道

 


河野鉄兜生家跡


武大神社 今日は春祭りのようです


長太郎石


蔵の内










 光接院跡 興ちゃんの説明用虎の巻

 みなさんご存知と思われますが、興浜に浄土宗の『鶴立山 大覚寺』は、天福元年(1233)【鎌倉時代・北条泰時の時代】定翁隆禅上人の開基です。この隆禅上人はもと天台宗比叡山の僧でしたが、山を下り諸国を歩くうち、ここ砂山という地にあった「釈迦堂」に入って残りの生涯を念仏に明け暮れたと伝えられています。

 この「釈迦堂」は、後に『鶴林山 光接院』と改称して真言宗に属していたのですが、これら開基以来の歴史を正しく伝える史料は大覚寺にも残念ながらないとの事です。

 「光接院」には専称寺・徳栄寺など末寺七ヶ寺を数え、その後永正年間(1504~21)に真言宗から浄土宗に転宗したのですが、天文三年(1534)【武田信玄・上杉謙信・北条早雲の時代】、赤松氏の乱【朝日山戦争】の折に兵火にかかり堂宇を焼失しました。

 そのあと第七代住職である空鑒尭淳上人が、弘治年中(1555~58)【室町時代 川中島の戦いの時代】の時、興浜に移転して『鶴立山大覚寺』と改められました。



古網干遺跡 ここで現地解散になりました


室津海駅館へ

2008年03月16日 | 歴史散歩

    

 本日、たつの市御津町室津にある『室津海駅館』で行なわれた、
『歴史講座 朝鮮通信使400年記念講演』に行ってきました。

 『朝鮮通信使400年、それから~』
   講師:京都造形大学客員教授仲尾宏先生

 申し込みの時に人数制限があり、50人程度でしたが、結構遠くからも来られている方もおられたようで、朝鮮通信使に興味を持っておられる方の多さに驚きました。ここ1年間にNHKで2,3本の特集番組が放送された事も影響しているようです。仲尾先生は朝鮮通信使の研究においては有名な方のようです。
 あっという間の2時間でしたが、その中でメモを取った事を発表します。

1.朝鮮通信使について中学校では教えてもらった記憶がないような気がしていましたが間違っていませんでした。仲尾先生は昭和55年くらいから教科書に登場したとの事です。ちなみに今年中学校を卒業する次男の歴史の教科書を見ると、朝鮮侵略の事とは別に短いですが載っていました。『朝鮮とは、家康の時代に講和が結ばれ、将軍の代がわりごとに400~500人の朝鮮通信使が来る慣例となりました。・・・』とあります。

2.『唐人雁木』『唐人踊り』『唐人人形』など朝鮮通信使が日本に伝えた事が多い話もして頂きました。参加者の方のなかに実際『唐人人形』をコレクションされている方が持ってきて見せて頂きました。最後に朝鮮なのになぜ『唐』なのかという質問がありました。仲尾先生の答えは、江戸時代は南蛮人・紅毛人・唐人の3種類の呼び名しかなかった。南蛮人とはポルトガル人の事をその後西洋人の事を言った、紅毛人とは紅い毛をしたオランダ人の事を言った、唐人とは東洋人全般をと呼んでいたとの事。だから朝鮮人も唐人なのです。

3.唐辛子は19世紀に日本経由で朝鮮に入ったのではないか。だから唐辛子で赤くて辛いキムチの歴史は浅いのではとの事。調べてみると、秀吉が朝鮮出兵の時に加藤清正が持って行ったか、朝鮮通信使が持ち帰ったかの、どちらかだろうとありました。