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興浜(おきのはま)で候 

興(こう)ちゃんの手掘り郷土史

上野田の夫婦木を訪ねて

2009年09月15日 | 歴史散歩

 9月13日(日)晴れ
 地名研究家である田中先生の案内で網干歴史雑学塾の皆さんと、飾磨区上野田地区に行って来た。     

 詳しくは田中先生の姫路の地名色模様-夫婦木(めおとぎ)を読んで下さい。

 その昔、この場所のすぐ東までが市川だったそうだ。

 タイトル写真は夫婦木の地名の由来である二股にわかれた目出度い木と、その北側に祀られている天神さんとお地蔵さん、木の南側には石碑が三基建っている。

 訪ねた時は気にかけていなかったが、真ん中の大正14年の石碑に記された寄附金の総額は918円である。

 大正14年で918円。そのお金で何をしたのかは調べていないので不明であるが、
ふとある事に気が付いた。

 大正6年、興浜にある金刀比羅神社で本殿部分の地上げを行っている。
その時の寄附金は、本殿地上げを言い出したと伝えられる、網干町長もされた山本真蔵氏の200円、当時の興浜惣代であった太田勝治氏の100円、そのあとに80円、70円とつづき総額はまだ計算していない。

 しかし918円もあれば相当な仕事ができたように想像できる。

 そして、8月14日に掲載した、大覚寺石畳の事を思いだした。

 大正4年に今榮儀八郎氏が100円で石畳を寄附したと伝え聞き、その石碑も残るのでそう信じていたが、その当時の100円であれだけの石畳ができたのであろうかと考え、もう一度自分が解読した石碑を見て、思い違いをしていた事に気がついた。

 石畳の石の材料は有志がお金を出し合い都合したのだろう。

 今榮氏は石工の手間賃として100円を寄附したのではないだろうかとふと思った。

 独り言のような記事になりました。

     
          北側の石碑

     
           真ん中の石碑の表

     
          真ん中の石碑の裏

     
          南の石碑の表


南の石碑の裏


お地蔵さんの石でできた花筒には大正14年の文字がある


片岡家 筑前琵琶の調べ

2009年07月12日 | 歴史散歩

 

 

 昨日、網干区新在家の網干商店街にある片岡家において、新在家に在住する熊谷親子による琵琶の弾き語りがあった。

 片岡家は、江戸時代龍野藩南組大庄屋をしていた家で、元禄15年(1702)に建築された姫路でも古い町屋である。

 網干商店街の土曜夜店とタイアップした形で、去年に引き続き今年で2回目。

 クーラーもなく、団扇片手に聞かせて頂いた琵琶の音は、片岡家だけが江戸時代にタイムスリップした錯覚さえ与えてくれた。

 最初に、主催者を代表して谷口からお二方の説明があり、熊谷章香さんが「都落ち」をそのあと、熊谷櫻香さんが「安達が原」の弾き語りがあった。

 今年は、下の写真でわかるようにパンフレットもあるので説明ははぶきくが、「安達が原」の内容が怪談風だったので、調べてみると二本松市のHPの中に安達ケ原物語りが掲載されていた。





 18日の土曜日も午後19時30分から別の題目で弾き語りがある。

 弾き語りは二人で1時間もないくらいだが、あっという間に過ぎた。

 終ったあと、皆で冷たいスイカを頂いた。


網干公民館 網干歴史ウォーク通信 義徳院

2009年06月16日 | 歴史散歩

 4月26日に網干公民館主催の歴史ウォーク(浜田)において興ちゃんが義徳院と林松寺跡の案内させて頂いた事は既に記事にしています。

 このたび6月1日発行の網干公民館だよりの中で歴史ウォーク通信として掲載して頂いた事を書いてみます。

 歴史ウォークでの興ちゃんが考えた案内の虎の巻は
義徳院
 山号仁弘山(にんこうざん)、寺号義徳院(ぎとくいん)は、盤珪禅師の生誕地です。
 盤珪は徳川幕府が開かれてから約20年後の1622年に徳島から流れてきた儒医菅原道節の三男として生れました。
 11歳の時に父を失い兄に育てられました。
 その後日本各地できびしい修行をし、「不生禅」を説き、龍門寺を開祖したという事です。
 

 という内容ですが、公民館だよりの原稿はちょっと違った視線から書かせてもらおうと思い下記のような文章になりました。

 山号仁弘山(にんこうざん)、寺号義徳院(ぎとくいん)は、盤珪国師の生誕地です。境内には約260年前に建立された「盤珪国師誕生之地」の石碑と、産湯に使った井戸である「盤珪国師初湯之井」があります。日本各地できびしい修行をし、「不生禅」を説き、龍門寺を開祖しました。生誕地である網干ならではの事はないだろうかと古文書学習会で皆さんに尋ねたら網干小学校の古い校歌を教えて頂きました。古い校歌の一番の歌詞の中に「♪御法 ゆかしき 龍門寺 国師 盤珪 名はかほる」とあります。さてこの校歌を歌われたのはいつごろまでだったのでしょうか。

 という内容でしたが、先輩方よりこの校歌は終戦までで、終戦後に現在の「♪歴史の都・・・」に1番と2番の歌詞が変わったと教えて頂きました。3番と4番はもとからあった歌詞のようです。

昭和10年3月8日校歌制定兵庫県知事採用
文部省図書監修官 井上 赳 作詞
東京音楽学校講師 梁田 貞 作曲
姫路市立網干小学校の古い校歌の一番
♪玉垣 浄き 津の宮の
 御稜威は 千代に いや崇く
 御法 ゆかしき 龍門寺
 国師 盤珪 名はかほる
  いざや 我等は誓も固く
  皇国に 捧げん まことの心

 


加藤家網干サロンより 龍力こうのとり

2009年06月14日 | 歴史散歩

  昨日加藤家での土曜サロンの話者は本田商店本田会長なのでお酒の話しと思っていたら、唎き酒会も兼ねていました。

 冒頭会長は、伊豆の石廊崎権現(いろうざきごんげん)の話しをされて、その話しに登場する播州の豪商源内について歴史が好きな方は調べて下さいとありました。

 石廊崎権現は今もこの約11mの帆柱が基礎となりの社殿を支えているようでした。もちろん本田会長もお参りに行かれたようで龍力の樽酒他たくさんのお酒を奉献されたようです。

 配布された資料はインターネットからのようで、長くなりますので下の部分をクリックするとリンクしますので見て下さい。
 
石廊崎権現の帆柱(Wikipedia)
 石廊崎権現の帆柱

 その他検索すると次のようなものも見つかりました。
 
民話・昔話し・・・石廊崎権現の帆柱

 机の上にはテイスティング用のシートが置かれていますが、今回は12種類のお酒を利き酒させて頂きました。

            
 香港で行われた「International WineFair」に行かれた時の話しもされていましたが、香港の高級中華レストランでは高級ワインとともに「秋津」が720ml入り6万円で並んでいるとの事でした。会長にすればロマネコンティが180
万円で30分の1だからまだまだとおっしゃっていました。

            
 タイトル写真は「純米大吟醸 コウノトリ」のラベルです。
このラベルの絵は、愛子内親王殿下の絵の先生であるクリストフ先生が書かれたようです。秋篠宮様のご家族をコウノトリに見立てて書かれておられるようで、最初に秋篠宮様が25本購入されたようです。美智子様も「天賜杯」を御愛飲のようです。
 


福聚海無量

2009年05月26日 | 歴史散歩

 本日は5月8日に掲載しました、「雲水あぼしを行脚する」に関連した事です。

 姫路市網干区浜田にある臨済宗妙心寺派龍門寺(河野太通住職)で、第4回安居会(あんごえ)が行われたという記事ですが、その時にあぼしまち交流館が休息場所になったのですが、その前日に河野太通住職から交流館に送られた一枚の色紙が交流館の受付に揚がっています。

 福聚海無量(ふくじゅかいむりょう)

 『広辞苑』には、福徳の集まることが海のように広大だということ。もと、法華経普門品で、観音の福徳をたたえた語。とあります。

 興味のある方はインターネットで検索して頂くと、沢山の解説文が出てきます。

 本日、興ちゃん夫婦の19回目の結婚記念日ですので、このありがたい言葉を掲載してお祝いといたします。 


あぼしまち交流館受付の時計の横に揚がっています


雲水あぼしを行脚する (龍門寺安居会)

2009年05月08日 | 歴史散歩

 姫路市網干区浜田にある臨済宗妙心寺派龍門寺(河野太通住職)で、第4回安居会(あんごえ)が行われている。

 安居会とは、龍門寺が本山に成り代わり修行道場になり、専門道場に事情があって修行できない人々のために設けている制度のようだ。

 5月6日(水)8:30~11:00まで、その安居会の修行のひとつである、托鉢(たくはつ)があぼしのまちで行われた。

 菅笠(すげがさ)をかぶり足袋をはき草鞋(わらじ)を結んだ雲水(うんすい)達22名が、「ウォーッ、ホォーッ」という声を張り上げながら列をつくり行脚(あんぎゃ)する姿は是非とも来年は皆さんも見てもらいたい。

 「行雲流水(こううんりゅうすい)」
「行く雲や流れる水のように1箇所に留まらない」という意味で、禅の修行僧は「雲水」と呼ばれる。・・・『週間朝日百科 仏教を歩く№3』より

 

 
龍門寺から北に国道250線まであがり東を向き網干大橋を渡り余子浜に入る


パリジャンの坂を余子浜側に下りる


余子浜専念寺の前を通る


東雲橋を渡り網干1番街商店街へ向かう


本柳寺の前を通る


商店街では雲水たちは店々に散らばり施しを乞う


龍野藩南組大庄屋だった片岡家の前を通過


興浜と余子浜の境に架かる両浜橋を渡る


今年2月にオープンした、あぼしまち交流館で休息の為立ち寄る
雲水たちは全員整列して挨拶のあと入館

   
入館前に菅笠はきちんと揃えて玄関に置かれた(写真左)
休息時でのお茶と柏餅の接待とお布施のお礼からか帰り際、般若心経を唱えられた(写真右)

 雲水たちの食べた柏餅のあとには、柏の葉が無かったという事だ。
興浜の銘菓浪花堂の主人に聞けば柏餅の葉は食べられないと言う。
雲水たちは持ち帰られたのか?

 この後、興浜と浜田の商店街を通り、雲水達は龍門寺に帰って行った。 

<!-- 龍門寺 安居会 -->



網干公民館主催歴史ウォーク 網干区浜田を訪ねて

2009年04月26日 | 歴史散歩

 今日の9時30分から12時まで、網干公民館主催の歴史ウォークがありました。

 今年は『浜田地区』をまわりました。
コースは順に本町橋→義徳院→道祖神社→西方寺→行者道→旧渡し場→東芝引き込み線跡→旧三昧場→龍門寺→水準標→火の見櫓跡→龍源寺→稲荷神社→不徹寺→恵美酒神社→林松寺跡でした。

 網干公民館古文書学習会の生徒が各場所の説明にあたるという事になっており、私、興ちゃんは『義徳院』『林松寺跡』の説明担当になりました。

 興ちゃん担当の『義徳院』『林松寺跡』を中心にいくつかを案内しましょう。


義徳院に到着


盤珪国師初湯之井戸があります。


盤珪国師誕生之碑


境内はきれいに掃除されていました。

義徳院
 山号仁弘山(にんこうざん)、寺号義徳院(ぎとくいん)は、盤珪禅師の生誕地です。
 
盤珪は徳川幕府が開かれてから約20年後の1622年に徳島から流れてきた儒医菅原道節の三男として生まれました。
 
11歳の時に父を失い兄に育てられました。
 その後日本各地できびしい修行をし、「不生禅」を説き、龍門寺を開祖したという事です。 


参加者は60名以上だったようです。


龍門寺


龍源寺

       
       不徹寺では竹内住職の話と甘茶・菓子の接待がありました。
       竹内住職誠にありがとうございました。


不徹寺境内

    
 片隅にある四ツ目結紋が入った瓦。ここは江戸時代興浜と同じ丸亀藩京極家の飛び地であった。


揖保川の風景を3枚


林松寺跡

林松寺跡
 
11年前の平成10年6月までこの場所には現在八十大橋西側にある林松寺がありました。
 
林松寺は行基上人の開基です。
 
約1300年前の奈良の大仏をつくった聖武天皇の時代に、薬師如来・聖観世音菩薩を奉ったのが縁起です。
 
その後菅原道真公が自ら松苗を植え置かれたとのはなしもあります。
 
浜田の郷土史には、大きな松が一本あって木の高さは18m余り、幹の太さは8mほどもあり、直径2m50cmほどだったとあります。またその松のそばに瓦屋根の古い祠があり天満天神が祀られていたそうです。その松が道真公の松だったかは今になってはわかりません。
 
ここはその当時播磨灘に浮かぶ観音島という小島だったので人々の往来が無く寺の荒廃は進み、衰退の一途を辿りました。
 
その後昭和26年の揖保川河川改修工事を契機に伽藍を再興したのですが、平成3年に再度の河川改修工事において道路拡張計画の範囲に入ったので、平成10年に移転したという事です。


あぼしまち交流館のオープンと村紋

2009年01月26日 | 歴史散歩

  今年の2月14日にオープンする「あぼしまち交流館」を見せてもらった。

 タイトル写真は、大ホールの天井にある九つの提灯型の照明である。

 網干の魚吹八幡神社の秋季例祭が最近「あぼしの提灯まつり」という名で有名になっている。地域のイベント等でも提灯をアピールしているようだ。

 さて、その提灯型の照明に網干中学校区6ケ村の村紋が入っている。

 村紋とは何ぞやという事だが、県や市にシンボルマークがあるようにその昔各村にもマークがあったようだ。
 いろいろな資料を読んでみたがこれといった確信には到らなかった。
 先日網干古文書学習会の新年会の席でその事を質問したところ、世話役をしてくださっている前田さんからこのような意見を頂いた。「江戸時代の古文書には各村の水争いの文献が数多く残っている。水は命の次に大事なものであったのであろう。稲作の時期、堰板(せきいた)の開け閉めなどの作業で自分の村の堰板と他の村の堰板を間違って開け閉めしたら大変な事になったであろう。その為に村のマークを決めて印をしていたのではないか。」
 納得である。江戸時代は今のように全ての人々が読み書きができたわけではなかったでだろう。だからといって読み書きできる者だけで事は運べなかったはずだ。その時に決められた印が村紋となり、こんにちに到っているのだろう。皆さんなら秋祭りの時、高張提灯や役員が持つ弓張提灯に記されている村紋をみているはずです。
 

   
     事務所はあぼしの町並に多く残る格子戸を使用している


網干歴史めぐりの案内版


最高級御影石である庵治石でできた網干町歌が刻まれた石碑と会館


加藤家 網干サロン

2008年12月14日 | 歴史散歩

 昨日の姫路市網干区余子浜にある加藤家での土曜サロンの事である。

 塩野安弘さんによる「ユーモアのある老後を楽しみたい」と題してのお得意の漢文講座だった。

 塩野さんは現在、網干区垣内にお住まいだが、育ちは興浜である。亡くなられた父上は興浜檀尻の音頭出しとして活躍されていた。

 サロンが始まる前に御当主である加藤三郎さんより「加藤家住宅」が国登録有形文化財建造物になった報告があった。

 タイトル写真の「嶺(みね)」と題した掛け軸の解説から始まった。
この掛け軸は一行目が右から左に読んで、二行目は左から右に読むと教えて頂いた。二行目がネン、四行目がエン、六行目がミン、八行目がセン、十行目がケン、十四行目がレンと韻(いん)をふんでいるので、「六言古詩」というそうだ。

 その他、塩野さんの創作された漢詩の披露と解説などあっという間の一時間半であった。


富島神社秋祭り 本宮から

2008年10月20日 | 歴史散歩

 宵宮の際、神輿渡御を見ないまま帰ったので、還御されるところだけは見たいのでお宮に行った。一日遅れの昨日19日の出来事。

 興浜に伝わる掛け声とは少し違う「ヨーイ ヨーイ ヨーイ ヨーイ ウエー」は聞く事ができなかったが、神輿止めの方が「ヨーサジャー ヨーサジャー」の掛け声で止める瞬間は確認できた。

 神輿かき前4名が「ヨーイ ヨーイ ヨーイ ヨーイ ウエへー」のかけ声で、かいたまま神輿の前部を上下にゆする。(後はかいたまま静止状態)
 神輿かき後4名が同じかけ声で、かいたまま神輿の後を上下にゆする。(前はかいたまま静止状態)
 神輿かき全員が同時に同じかけ声で、前後調子を合わせて神輿を上下にゆする。
と、興浜の手引きにあるが、これも富島神社においてほぼ同じ事を確認できた。

                
 神具棒が軽トラに乗っていたのには少し驚いた。

 
 富島神社には神輿は2基あるようで、ご奉仕する村も輪番制のようだ。
 聞くところによると今年新調されたようだ。

                
 隅絞り軽トラを発見。伊達綱軽トラは見失った。

            西釜屋の檀尻も発見。

         
  苅屋屋台、拝殿前で最後のチョーサ。


富島神社秋祭り宵宮から

2008年10月18日 | 歴史散歩

 今日は仕事が終わってからたつの市御津町苅屋の嫁さんの実家の秋祭り見物に出掛けた。

 富島神社の氏子は苅屋村・濱田村西・濱田村高津・黒崎村・釜屋村西・釜屋村東があるようだ。

 毎年のように行っている祭りであるが、去年苅屋の神輿資料を偶然見た時にあれと感じた事があるので、子供の提灯行列から参加させて頂き何か見つけるものがあればと思ったが残念ながらおみやげはなかった。

 そのふと感じた事とは、神輿の掛け声だ。
苅屋村の資料に「掛け声はヨイヨイヨイヨイ ウエー」とあったのだ。

 興ちゃんは平成16年の興浜神輿新造から19年まで、新造披露式を含めると5回ご奉仕させて頂いた。いろいろな祭りの神輿を調べながら、自分なりにいろいろ考えた事があるがそれは置いといて、興浜自治会が平成7年に『興浜神輿手引』なる神輿マニュアルを作成している。聞くところによるとその頃祭典委員長になられた方が神輿の飾り付けや当日の運行の際非常に困ったので、有識者を集めて後々までの為にマニュアルを作成したと聞いている。神輿奉仕者になると当日の運行の部分を頂くのだが、興ちゃんが神輿奉仕をさせて頂いた時に驚いた事がひとつあった。マニュアルに書いてある掛け声を出していないのだ。3年前から去年まで世話役をさせて頂く機会に恵まれたので昔の掛け声を復活したのが、何と「ヨーイ ヨーイ ヨーイ ヨーイ ウエヘー」、神輿を止める時は神輿止めが「ヨーサジャー ヨーサジャー」の掛け声を出して止めるのだ。

 この事は苅屋は興浜と同じく丸亀藩であった事が同じような不思議な掛け声の理由であろうが、これも何も文献がないので丸亀藩好きな興ちゃんの想像に過ぎない。

  
 苅屋子供会が18時苅屋屋台蔵前集合という事だったので甥子を連れて集合
 濱田子供会の提灯神輿が通過

  
 苅屋子供会の提灯行列に参加

  

  

  

  

  

  

 
 苅屋村若中の提灯練りの様子


 魚吹八幡神社と富島神社の提灯行列を比較した時、興ちゃんが感じた事を記す

 1.魚吹八幡神社の提灯行列は七ケ村が順番に宮入するが、富島神社の宮入方法はそれぞれの子供会が宮入したあと若中の提灯が宮入するという事。
 この事は平成に入ったくらいから大人のお旅を行うようになったためだと理解しているが、確かな事ではない。

 2.魚吹八幡神社の場合、高張り提灯から高張り提灯までが村のクイキリとして大名行列の如くその他の村のものが横切ったりするような事があれば排除されるが、富島神社の場合、道中はおろか宮の中においても誰もが好きなように歩いているという事。

 おらが村が一番、おらが祭りが一番である事には間違いはない。


姫路市 青山地区へ

2008年10月13日 | 歴史散歩

 昨日の雑学塾の歴史めぐりの影響か、今日は青山地区へ行ってきた。その一部を紹介する。

 稲岡神社が昨日秋祭りだったのか、静まりかえった様子だった。
 
 祭りが終ったので5台の屋台を片付け中なのでしょうか。

  
                            灯明する為に後部に階段がついた燈籠

 

  
製紙組合の碑
 青山の西、旧山陽道と国道2号線が交差する手前にある石碑。
明治17年に青山村の山口重太郎が大阪から紙の製法を伝えた。その後このあたりで和紙の製造が盛んになり、製紙の創始者で組合の人々の世話をして功のあった米田勝松をたたえた石碑。


  

  
青山のかけ樋(ひ)
 
本日のお気に入り場所
 稲岡山の西にある江戸時代の石造交差水路。青山小学校南の上池・下池から引いた水は上の写真では東西に流れる深い水路の為、南側の青山地区に流す事が困難な為、細い石造の水路を設置し、北の方から青山川の水を引いた。その東西の深い水路を越す石造の水路がかけ樋だ。


       

     
旧山陽道の道標
 
本日の目的地
 国道2号線夢前橋西交差点から国道29号線を北へ100mほど行った左側に道標がある。
 安政2年(1855)の造立で、高さ2.13mの市内最大級の道標。
 五角柱のめずらしい形をしている。
資料によると右は因州・伯州・作州・雲州、左は備前・九州方面、東は姫路・大坂・京・江戸とあり、さらに主要地までの距離を表示している。


  

  
道標から西に旧山陽道沿いの青山の風景


今宿の牛市・省己橋・西国街道・縄手の下を訪ねて

2008年10月12日 | 歴史散歩

 9月での網干雑学塾で、姫路地名研究会の田中先生が「地名の話-省己橋から西国街道そして縄手の下-」の話をされた。
 本日はその現地を雑学塾のメンバーで訪ねた。

 先生の話をあまりメモしていなかった為、姫路市教育委員会発行の『文化財見学シリーズ』と先生のブログ『姫路の地名色模様』から孫引きしながらの孫引きブログの始まりだ。

 最初は琴丘高校東にある大井川分水堰(おおゆかわぶんすいぜき)に行った。
写真は無し。宅地化がすすみここ2年程で以前の状態ではなくなっていた。
 明治9年から20年以上にわたった大井川水論和解の分水堰。
 この大井川の源流は山ではなく湧き水のようだ。


               
 省己橋(せいこばし)
 琴丘高校前に架かる橋。別所という小字の土地。
 琴丘高校があるところは元々県の豚や牛の種畜場だったようだ。



     

    
 縄手の下(なわてのした)踏切り
 今宿にある小字「縄手の下」が踏切名に用いられている。
 「縄」の付く地名は全国にあるようで、幹線道路沿いにつけられた特徴ある地名のようだ。
 国道2号線と並行して北側に走る西国街道と呼ばれる道が、縄手道だったようようだ。


               
 その『西国街道』の石碑
 最近できたような石碑だ。岳神社の秋祭りの太鼓の音が聞こえてきていた


                
 西国街道の石碑の東側にある旧高岡村道路元標
 旧高岡村役場のあった所。路線の起点・終点・経過地を示す標識で、大正9年(1920)兵庫県告示によって飾磨郡内の27ケ所に設置された。 


                 
 岳神社道標(たかおかじんじゃどうひょう) 
 西国街道の西今宿3丁目の公園のすぐ東にある。
 正面に「式内岳神社」 左に「北在五丁」 
 背面に「庚午閏年(明治3年)10月 姫路藩庁」 右に村民30人の名が刻まれている。
 岳神社は「延喜式」に記載されている式内社。


        
 茶屋の地蔵さん
 西今宿3丁目の公園で祭られている道祖神 

 

   
 神子岡の髭題目塔
 右側に「元祖第四百遠忌報恩徳建立之」と刻まれ、日蓮の四百遠忌にあたる延宝9年(1681)に建てられたもの。同宗では各地で盛大な報恩会が行なわれたようで、同じ月日付の題目塔が白浜町宇佐崎や坂田町にもみられる。


        

          
 タイトル写真にもある今宿の牛市
 先生が到着した時に「家がない」と言われた。その場所には新しい家が建っていた。かつて先生が訪れた家の屋根には牛市を示す牛の瓦があがっていたとの事。

 そこで興ちゃんは勇気をだしてその家のインターホンを押した。
今日のその時、平成20年10月12日11:50
家の方が出て来られ、玄関先に大切に残してある瓦を見せて頂いた。

 今宿の牛市
 戦前に神子岡のふもと、今宿の街道南側に牛市があった。戦後取引所は北側に移った。この牛市は明治のはじめのころより開かれているようだが、記録に出てくるのは明治16年。株式会社になったのが明治36年。牛は主に岡山や鳥取・九州・四国の農家から集められ市はすこぶる賑わったが、昭和32年を頂点に衰退していった。


田中先生から屋根の上にあった時の写真を頂きました。
 


   
 面白山(おもじろやま)

       
 帰り道、網干の喫茶店に立ち寄った時、垣内の檀尻の試し曳きと遭遇。


加藤家 網干サロン

2008年09月13日 | 歴史散歩

 姫路市網干区余子浜にある加藤家では、毎月第2土曜日の夜「土曜サロン」と題して会員制のサロンがある。

 毎月いろいろな方面の方々が話しをされるのだが、今月は大津区平松の吉江さんだった。

 魚吹八幡神社の資料編纂にかかわっておられる話と、網干町の時代の繁栄ぶりを話して頂いた。

 知らなかった網干の世界を本日の資料を抜粋して紹介する。

 網干商工会が1939(昭和14)年4月1日に発刊した「網干案内」という冊子から

 「網干芸妓共同事務所」が網干町新在家101番地にあり、14軒の置き屋が掲載されている。ちなみにその当時姫路には5,6軒しかなかったとの事。
1.稲田 2.今栄 3.渡辺 4.小谷 5.加賀 6.藤原 7.福本 8.梶原 9.児玉 10.児玉 11.新茶 12.酒江 13.稲田 14.熊野

 旅館・料理・仕出し・カフェー・喫茶店
1.東雲 2.福徳 3.墨井 4.大浜 5.富美世 6.花家 7.魚叉 8.春日亭 9.大多福支店

 仕出し屋
1.まる万 2.富士屋 3.ニ元屋 4.名田忠 5.山中 6.山中

 カフェー
1.お多福本店 2.稲作 3.天龍 4.菊水 5.白鳩支店 6.第二お多福

 喫茶店
1.千登世 2.三笠 3.ブラジル 4.銀星 5.あけぼの 6.大森 7.奴 8.万直し 9.更科 10.塩野 11.すし熊 12.大和屋 13.貝賀 14.白鳩本店 15.三七十本店 16.三七十支店 17.きてや 18.加納 19.網干楼 20.井上 21.平松 22.前田

 昭和21年に網干町は姫路市と合併後衰退していったというお話だった。


朝日谷 火揚げ

2008年08月15日 | 歴史散歩

 明応年間(1492~1501)の大干ばつの時、村人は一本松山に集まり、昼夜を問わず愛宕大権現に雨乞祈願をした。効あって大量の雨をいただき、そのお礼として毎年行うというが、確かなことはわからない。

 愛宕神社東の火揚げ場で役員の方々が朝から準備をされたようだ。 

 かつては20mに近い竿に篭をつけて火揚げを行った。現在は、やや簡素化されているが、火揚げの行事が毎年続いているのはここだけである。垣内は4年に1回の檀尻曳き出しがない年の夏に行う。津市場、長松、余部、揖保川を渡って中島、苅屋が以前は行っていたようだ。

 高い柱の先に藁を一杯つめたジョウゴ型の竹かごをゆわえて立て、松明を投げ上げて火をつける。このジョウゴ型の竹かごには250本の竹が使われるとの事。

 夜7時、愛宕神社において神事のあと、子供の長が特別大きな藁松明に灯明の火を点じ、火揚げ場の隅にある藁の束まで行き、その藁に点火する。

             
 愛宕神社の灯明の火を子供の長が大きな藁松明に移している

 参加している子供は6年生のようだ。

 火揚げ場のすみに置かれた藁の束に点火したあと子供達は暴れる。

 この火が点火用の火となるようだ。
 
 神事に来ていた魚吹八幡神社澤宮司と垣内村のMさんとお会いして、いろいろと教えて頂いた。  
                  
 子供が投げる小松明。 藁でできていると思っていたが、「おがら」でできているとの事。早速調べてみると、「おがら」とは麻の芯の部分のようで繊維としての強さを生かし昔から材料としているようだ。藁だと束ねても軽いので上にあがらない。この「おがら」でできた小松明を持ってみるとずしりと重い縄の部分を持って振り回す。子供が振り回し投げるには丁度いい重さだ。
 欠点は火が付きにくい事。子供会の役員さんが少し灯油を付けて子供に手渡している。

 ジョウゴ型の竹かごに入った藁と、最初に子供が点火用に使う藁は小麦藁との事。火が付きやすいのが特徴。火揚げ用に小麦を作っているとの事。

 「おがら」だが、7月15日に掲載した「魚吹八幡神社 千灯祭」の灯明の芯にも使われるようで、このあたりには無い為、栃木県から一緒に取り寄せているようだ。

 行事の伝承も難しいが、材料調達も大変のようだ。
             
 子供の投げた火が命中。今年はジョウゴに突き刺さった
 突き刺さった場合、束ねている縄が火で切れてジョウゴが下に落ちてしまう事が起こる可能性がある。そうなった場合大松明の下でまわっている子供達が危険である。
 突きささらないようにジョウゴを作る事を伝承する課題を残したようだ。

 ジョウゴに火が付くと、子供達は大松明の下をまわるようだ。    

             
 そろそろ終りというところで、大人の登場。
 大松明を倒して終了。
 ぶらっと立ち寄っただけだが、本で調べてもわからない事が発見できた。
 やはり現場に行くべきだ。実りある散歩だった。
 来年は大松明を立てるところから見学に行こう。