姫路菓子博覧会
本日、姫路菓子博に行ってきました。
菓子博にも興浜と祭りネタがありました。
ふれあいステージにおいて、11:15~11:30 興浜太鼓集団一擲(和太鼓)が出演
会場が広いのか、音が割れて聞こえました
興浜公民館で練習している時に我が家に聞こえてくる音の方がいいぞ
山本勘助が使っていた本物の兜のようです
伊達政宗の兜はミニチュアでした
どうもまつりのポスターが張ってあると気になります
このポスターは四国香川県観音寺市の太鼓台まつりのポスターです。
『太鼓台』の上にひらがなで『ちょうさ』と書いてあります。
これは、この地方では『太鼓台』の事を『ちょうさ』と呼ぶからです。
ここ、姫路市網干の魚吹八幡神社では、『太鼓台』の事を『屋台』と書き『やったい』と呼んでいます。ただその『やったい』を担ぎ手が『ちょうさ』と声をそろえて差しあげるのが特徴です。
播磨地方の海岸線の祭りには『屋台』と呼ぶ『太鼓台』は神輿のお供をして太鼓を打ち鳴らす賑やかしとしてかかせないものですが、場所により『やったい』・『やたい』・『やっさ』と呼び方がかわります。
ここ姫路市網干の魚吹八幡神社は寛永9年(1632)に京極家の社地を寄附して本社を再興され今日に至っています。姫路市網干は姫路藩であったが、寛永14年(1637)、龍野藩京極家の領有となりました。そして、万治元年(1658)、龍野藩主であった京極家は讃岐丸亀藩に移封されます。しかし、ここ網干の興浜とその他28ケ村は引き続き丸亀藩京極家の飛地になりました。丸亀藩はここ興浜に網干陣屋を設け、代官・奉行をおきこの飛び地を治めました。
さらに付け加えると、この『太鼓台』の事を四国西讃岐地方では『さぁしましょ』とも呼んでいるところがあるようです。ここ興浜より西に揖保川を渡った浜田・苅屋・釜屋・黒崎地区の富島神社でも『太鼓台』の事を『屋台』と言い、差し上げる時の掛け声は『ちょうさ』である。さらに『さぁしましょ』という掛け声が入る事もあるようです。
魚吹八幡神社と富島神社の掛け声が『ちょうさ』になったのは、同じ丸亀藩だからでしょう。もしかしたら、近い昔はここ魚吹八幡神社と富島神社に限っては『屋台』の事を『ちょうさ』と呼んでいたのかもしれませんが、正しい文献が出てこない限り『興ちゃん』の想像に過ぎません。
少しの間、ブログのフレームがイメチェンしてたのにやっぱり、もとに戻ったのね!!
別人になっているじゃないの
かっこいいけど・・・
ちょっと笑えた
姫路菓子博のお菓子の姫路城の周りの行列の中に吉之助がいたので拝借しました。
西郷隆盛・・・通称は最初が吉兵衛その次が吉之助、名乗りは隆盛。しかし名乗りを届ける時期に隆盛は江戸に居た為、吉井友実が代理で届けたのだが、隆盛は西郷の父親の名乗りで、本当は隆永だった。届けてしまったので西郷隆盛となった。僕が一番大好きな歴史の偉人です。