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紅茶の島のものがたり vol.14 冨井穣

2009年07月03日 | 金曜(2009年4月~):冨井穣さん
第14話
ウチナー紅茶作りのスタート



 人にとって“ふるさと”は特別なものだ。
 甲子園では出身県の高校を応援して盛り上がり、酒席では故郷に錦を!と管を巻き、税金はもちろんふるさと納税。寺山修司のように「帰る故郷があるならよかろ、おれにゃ故郷も親もない」と歌っても、結局それは“ふるさと”の反面教師に過ぎない。有名な言葉を借りれば、「人間はいつまでも故郷を身に付けている」のだ。
 そういえば以前に新聞記事で、都道府県別の「ふるさと納税ランキング」なるものが掲載されていた。結果はトップが北海道で二位が沖縄県、そして最下位は岡山県だった。
 北海道の人気分析は他の人に譲るとして、沖縄県出身の人々は“ウチナーンチュ”“ヤマトンチュ”と県内外の人を呼び分けるくらい、確かに地元愛が強い。例えば進学にしろ就職にしろ、高校生のほとんどが県内志向。Uターン就職率も他県に比べて圧倒的に高く、本土の学校を出て数年働いてから戻ってくる者も少なくない。またサザエさんのマスオさんよろしく、交際男性を沖縄へ引っ張ってきて婿入りさせる(彼らをウチナームクと言う)女性がとても多い。
 山城も言うなればUターン族に入るのだろうか。静岡にいる間ずっと、沖縄で茶業を成功させるにはどうすればいいかをとことん考え続けてきたのだから、その郷土愛は並々ならぬものがある。
 2001年3月、国立茶業試験場での研修期間を終えた山城は、実家の茶畑があるうるま市山城地区へ戻ってきた。本来なら少しの間ゆっくりして旧交を温めたりしたいものだが、季節はすでに新茶の摘採期。しかも数年前から父・豊の体調がすぐれなかったため、ほとんどすべての業務を自分で切り盛りしなければならなかい。そんなわけで息つく暇もなく、さっそく茶園の仕事に取りかかった。
 当初は従来通り、緑茶作りを中心に行った。静岡で学んだこと、沖縄へ帰ってから試したかったことを確認しながら、ひとつ一つ丁寧に。その中でも真っ先に取り組んだのは、水出し緑茶の製造だった。担当教官の根角の指導の下、研究したのは紅茶だけではない。沖縄は夏の暑い期間が長いので、麦茶感覚で飲める緑茶の開発も続けていたのである。
 さっそく周囲の人たちに振る舞ってみたところ、なかなか評判がいい。渋味がなく清涼感があり、水色も香りもいい。これはひょっとするとヒット商品になるかもしれない。
「でも、どうやって売ればいいんだろう?」
 山城は茶農家だ。お茶の栽培と加工についてはひと通りこなすことができても、当時はまだ流通の仕組みを理解していなかった。そこで山城は地元の商工会に入り、商売のノウハウを一から教わったのである。
「7がけのガケって何?上代ってどういう意味?それすらも分からなかった」
 と山城は振り返るが、農家ではなくても使い慣れていなければ分からない人は多いだろう。いちおう説明しておくと、7がけといえば定価に0.7を乗じた数字を仕入れ値とすることであり、上代(じょうだい)とは小売価格、いわゆる定価のことを指す。
 ちなみに、この水出し緑茶は、現在は紅茶作りに追われているため手を回すことができないが、いずれ本格的に売り出すことも考えているようだ。
 さて、山城は緑茶作りの傍らで、いよいよ紅茶の実験を始めていた。静岡でとったデータを参考にしながら、萎凋や揉念といった工程をもういちどいろいろなパターンで再現し、沖縄で最適な加工方法を見つけなければならない。
「自分一人の力ではさすがに限界がある。根角さんに相談しよう」
 山城は試作品を作るたびに、国立茶業試験場にいる根角のもとへ郵送し、感想とアドバイスを求めた。
「どうですか?前より発酵時の温度を1度上げてみました」
「香りはよくなったけど少し渋味が強い。揉み方を変えたほうがいいんじゃないか」
 そんなやり取りが何回も続いた。
 ちょうどそのころ、少量ながらも紅茶作りを行う人が全国にちらほらと現れ始め、山城のところにも紅茶を買い取りたいというバイヤーが訪れるようになった。味も品質も、まだまだ単独の茶葉として市場に出せるような状態ではなかったが、ブレンドや増量用に使うなら構わないだろうと思い、年間数十キログラム程度ずつ出荷を続けた。
 しかも、これは絶好のチャンスだ。沖縄産の紅茶として全国に打ち出せるかもしれない。
「一日も早く完成品を仕上げなければ…」
 来る日も来る日も試行錯誤が続いた。





text:冨井穣






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