長崎のむかし話/長崎県小学校教育研究会国語部会編/日本標準/1978年
「あんたがたどこサ 肥後サ 肥後どこサ 熊本サ」と、手まり歌ではじまりますが、最後はちょっと せつない。
横手五郎は諫早の生まれで、おっかさんの手ひとつで育てられた。生まれつきの力持ち。おっかさんが仕事のとき石のひきうすに帯でしばりつけても、ちのみごの五郎は、この重たいひきうすをひきずった。
おっかさんとふたり暮らしの五郎は、多良岳から薪をとってきては町へ売りにいって、暮らしをたてていた。ある日、五郎が枯れ枝をたくさんとって帰ってきたところ、おっかさんは留守。となりの人に、枯れ枝にさわらないように頼んで、また出かけた。おっかさんが帰ってきて、枯れ枝に手をかけようとしたので、となりの人はさわらんようにおしとどめたが、おっかさんは、「よか。よか。」と、ナタでたばねた縄を一気にたたき切った。ところが、五郎の怪力で固く締め付けられていた縄がいっときにぱっと四方に飛び散り、おっかさんはこれにはねられて死んでしまった。親孝行の五郎は、嘆き苦しみ、毎日墓参りし、一年間は家を離れなかった。
そのころ、加藤清正公が城をきずきはじめられた。城造りの仕事をすれば、悲しみもまぎれるかもしれないと、五郎は人夫になって働きはじめた。どんな大きな石でも軽々運ぶので、あっちこっちの大事な仕事に重宝がられていた。ところが、五郎に城の秘密のところまでやらせたので、外の者にしられては安心ならんということで、城の工事があらかた終わったころ、深井戸を掘らせ、その底で働いていた五郎を、上から大石を落として殺してしまおうとした。ところが五郎はびくともせず、下かから大石をうけとめてしまった。それでも、城の外にはでられないだろうとあきらめ、いっそのこと城の柱石になってやろうと考え、砂をたくさん落とすように叫び、生き埋めになって五郎の姿は見えなくなった。
熊本城の横手掘に名を残した長田村の五郎の話。