モスクワのクレムリンを訪れロシアのプーチン大統領(右)と会談する国連の潘基文事務総長=2014年3月20日、ロイター
オバマ米政権発足直後の2009年3月、ジュネーブで会談したクリントン米国務長官(当時)とラブロフ 露外相が笑いながら赤いボタンを押す光景が世界に流れた。米露関係の「リセットボタン」だった。前年にグルジアに軍事侵攻したロシアとの関係は「新冷戦」 と呼ばれるほど冷え込んでいたが、オバマ政権は「リセット(立て直し)」外交で関係改善を模索した。
5年後の現在、ロシアによるクリミア半島編入で米露は再び深刻な対立に陥った。米欧とロシアによる制裁の応酬が繰り広げられ、主要8カ国(G8)首脳会議(サミット)からのロシア追放も取りざたされるなど、グルジア紛争時よりも対立は先鋭化している。
ロシアのプーチン大統領がクリミア編入方針を表明した18日夜。米国防総省でヘーゲル国防長官、ケリー 国務長官、ライス大統領補佐官(国家安全保障担当)が訪米中の北大西洋条約機構(NATO)のラスムセン事務総長を囲んで夕食会を開いた。国防総省関係者 によると、議題はロシアのウクライナに対する軍事介入に集中した。
「ロシアがもたらす長期的な戦略的影響に焦点を当てる必要がある」。ラスムセン氏は翌19日、ワシント ンでの講演でこう指摘し、ロシアの軍事介入で「目覚まし時計が鳴った」と述べた。欧州諸国の防衛予算の国内総生産比は冷戦時から3割以上減った。米国は増 額を求めてきたが、欧州債務危機で各国が渋っている。ラスムセン氏は「共同防衛への貢献」を要求した。
今年末のアフガニスタンからの撤退で10年以上続いた大規模戦闘を終えるNATOには不要論もささやかれ、財政難の中、偵察力の共有化など効率化に取り組んできた。それが今、息を吹き返しつつある。
クリミア編入を機に、欧州の外交官の間では「米国が欧州に戻ってきた」との受け止め方が広がっている。 オバマ米大統領は26日に初めて欧州連合(EU)本部を訪問。ブリュッセルでの演説では2000人を前に、欧米の結束を強調するとみられる。オバマ大統領 はラスムセン氏との会談も予定している。
これに対し、ロシアはこれまでの国際協力の枠組みを外交カードに使おうとしている。ロシア連邦麻薬統制 局の当局者は21日、「米政府の横暴は協力を壊すことになる」とタス通信に述べた。欧米とロシアはアフガンを不安定化させる麻薬栽培の取り締まりで協力し てきた。それが制裁で中止されかねないという。
さらに、ロシアはイランの核開発を巡る6カ国協議の停滞や、新戦略兵器削減条約(新START)の査察 団受け入れ中止などを示唆し、米欧を揺さぶる。北朝鮮を巡る6カ国協議をはじめ、シリアを巡るジュネーブ和平協議などロシアなしでは動かない会合も多い。 ロシアがこうした外交カードを実際に利用する事態になれば、ロシアと米欧が築き上げてきた国際的な枠組みの危機を意味する。
20日にモスクワでプーチン大統領と会談した国連の潘基文(バンキムン)事務総長は、ロシアと米欧の対立がシリアなど他地域の問題に影響を及ぼすことへの懸念を示した。
◇日本、領土にらみ苦慮
クリミア編入問題はアジアにも暗い影を落とす。
「新冷戦ということになれば北朝鮮問題にも悪影響が出かねない」。韓国外務省幹部は声をひそめる。
韓国は表向き、クリミア編入に反対するが、内心は複雑だ。朴槿恵(パククネ)大統領は昨年11月、訪韓 したプーチン大統領との会談で、ロシアと北朝鮮を結ぶ鉄道・港湾開発事業への韓国企業の参加で合意した。朴大統領は、さらに南北の鉄道を連結させ、韓国と 欧州を結ぶことを提唱する。対露関係悪化は、構想の根幹を崩しかねない。米国が、ロシアを制止する効果的手段を持たないことへの衝撃も大きい。
一方、冷戦時代の米ソ2強構図と異なるのが大国化する中国の存在で、米露の対立を中国がどう受け止めて いるかが注目されている。北京の外交筋は、領土問題で強硬姿勢を貫き愛国心に訴えるプーチン大統領と習近平国家主席の共通点を指摘。「シリアに続いてクリ ミアでもロシアが勝ったことで、米国は口だけとの印象が強まれば、中露はますます強く出たり、米国に揺さぶりをかけたりする可能性が高い」とみる。
ロシアは縮小する欧州経済を尻目に「脱欧入亜」の傾向を強めている。特にエネルギー部門では、15年から中国向け天然ガス輸出を始めることで基本合意しており、今年5月とみられるプーチン大統領の訪中の際に最終合意を目指す。
新華社通信のニュースサイトは、米欧のロシア制裁で中国が軍事産業でも利益を得る可能性があると指摘。 中国がロシアの孤立化の危機を和らげるという見立てだ。国際情報紙・環球時報は「米国が戦略の軸足を欧州に移し、西太平洋の軍事配置を減らせば、中国に戦 略的チャンスが生まれる」と分析する。
安倍晋三首相は20日の記者会見で「力を背景とする現状変更の試みは決して看過できない」とロシアを批 判したが、北方領土交渉への影響に関する質問には答えなかった。首相は就任後、プーチン大統領と会談を重ね、信頼関係をてこに交渉を加速させようとしてき ただけに、政府関係者は「ウクライナ問題は長引くのではないか。日本の対露外交に影響がないとは言えない」と肩を落とす。
ただ、北方領土を意識したロシアへの配慮は、沖縄県・尖閣諸島の領有権を主張する中国に海洋進出の口実 を与えかねない。自民党の閣僚経験者の一人は「首相の対応は中途半端。ロシアに手加減しても、北方領土交渉がうまくいくはずはない。逆に足元を見られるだ けだ」と批判する。
首相は21日、今月訪露した谷内(やち)正太郎国家安全保障局長や外務省幹部らを首相公邸に集め、オラ ンダ・ハーグでのG7非公式首脳会議の対応を協議した。政府はロシアへの追加制裁を検討しているが、米国と欧州連合(EU)の温度差など「変数を見ながら 対応」(外務省幹部)せざるを得ないのが実情だ。
最も順調に進んできた対露外交が壁にぶつかり、安倍政権は外交方針の練り直しを迫られている。
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この連載は、斎藤義彦(ブリュッセル)、及川正也(ワシントン)、田中洋之(モスクワ)、真野森作(同)、坂井隆之(ロンドン)、澤田克己(ソウル)、石原聖(北京)、朝日弘行(政治部)が担当しました。