■昭和42年(1967年)10~11月
時折小雪が舞う2014年正月明けの午後、神奈川県横須賀市中心部にある米軍横須賀基地正面ゲートでは、米軍人らしい短髪の若者が、三々五々出入りしていた。横須賀を母港とする原子力空母ジョージ・ワシントンが寄港中で、市内はいつもより米軍人が多いという。ほぼ半世紀前、ベトナム戦争の最中、この基地に停泊していた空母イントレピッドから、4人の水兵が脱走する事件があった。
「えっ、脱走兵!?」。東京・お茶の水の「ベ平連(ベトナムに 平和を! 市民連合)」事務所で電話を取った吉川勇一事務局長(82)が声を上げたのは、1967年10月28日午後のこと。米水兵4人は東京に出て、 ヒッピーのたまり場だった新宿の喫茶店「風月堂」に行き着いた。彼らは、たまたま店の前を通りかかった東大生に、安く泊まれるところはないかと声をかけ た。
東大生は彼らを友人宅に連れていき、さらに聞くと「エスケープ・フロム・USネイビー」。ベ平連が米軍兵士に脱走を呼びかけているのを知っていた彼は、ベ平連事務所に連絡したのだった。
米国が共産主義の北ベトナムを空爆し、戦争に本格的に介入していた65年4月、作家小田実(まこと)、哲学者鶴見俊輔さんらが「アメリカはベトナムから出て行け」とベ平連を結成した。戦場の様子はテレビで報道され、一般市民にも反戦の思いが高まっていた。ベ平連は政党や組合とは一線を画し、市民による非暴力のデモを繰り返して反戦を訴えた。
米水兵と会い、意思を確認した吉川さんらは、4人を世話人の一人が住む池袋の公団住宅に連れて行き、16ミリフィルムに彼らの決意表明の様子を収めた。不測の事態に備え、記録を残しておくためだった。小田や鶴見、作家開高健らが同席した。
NHKディレクターを辞め、ベ平連の世話人をしていた、当時33歳の作家小中陽太郎さん(79)は、すぐかけつけ、撮影を手伝った。
「まだ19か20の童顔の若者が、この戦争は正しくない、自分は米国憲法の精神に従って行動した、と堂々と語るのには、感銘を受けた」と小中さんは思い起こす。
数日後、小中さんは長野・蓼科の作家堀田善衛(よしえ)の別荘にかくまわれていた彼らを車で迎えに行き、横浜港からソ連・ナホトカ航路の客船バイカル号に乗せた。ソ連大使館から日本の領海を出れば保護する、という了解を得ていた。
公海に出たと確認された11月13日、ベ平連は記者会見し米兵脱走を公表。会見の場でフィルムを流すと、内外の記者から驚きの声があがった。1週間後、4人はモスクワで記者会見し、事件は世界的ニュースになった。彼らはその後、スウェーデンに移った。
以後、北海道から漁船でソ連に密航するルート、偽造旅券でフランスに渡るルートが作られ、ベ平連の手で20人前後の米兵が海外に脱出した。
立教大学助教授を辞任して脱走兵援助運動に従事した翻訳家高橋武智さん(78)は「ベ平連運動は68年前後の若者の反乱の潮流の一つだった。世界中が沸き立っていた時代だった」と語る。
脱走兵援助や新宿駅構内で反戦歌を歌う「フォークゲリラ」で中心的に活動した作家吉岡忍さ ん(65)は「ベ平連はぼくにとって、路上の大学だった」と話す。デモをしながら、隣にいる一級の知性から読むべき本を聞いた。男子は髪を伸ばし、ジーン ズをはき始め、女の子はしゃれたミニスカート姿。「反戦だけでなく、カルチャーもファッションも最先端で、ある種の文化革命だった」(牧村健一郎)(牧村 健一郎)
■「殺すな」 米紙に意見広告
南北に分断されたベトナムで、北をソ連と中国が、南を米国が支援し、ベトナム戦争は泥沼化した。ベ平連は、米紙に反戦意見広告も出した。1965年ニューヨーク・タイムズには、鋭いくちばしのワシの隣に、ハトが涙を流す図を配し「爆弾でベトナムに平和をもたらすことができるか」。67年、ワシントン・ポストには、画家岡本太郎による「殺すな」という大きな字を載せた。この字をもとに、デザイナー和田誠さんが手がけた反戦バッジは、若者が競ってつけた。
ベ平連を名乗るグループは全国で390にのぼったという。73年、パリでベトナム和平協定が調印され、翌年1月、東京ベ平連は解散した。
■証言:ベ平連元事務局長 吉川勇一さん(82)
脱走兵が現れたと知ったときは、正直いってびっくりした。米軍基地の前で、脱走をすすめるビラを配ってきたが、簡単に出てくるとは思わなかった。でも何とか助けなければならない。その場その場で考えていった。理念では知っていた「市民的不服従」に直面し、実践した体験だった。
記者会見の後、手紙や電話、現金、小切手が次々に寄せられ、事務局は対応でおおわらわだった。ベトナム戦争は、戦後日本の家庭に持ち込まれた初めての戦争だった。テレビ、新聞、週刊誌がこぞって取りあげ、戦争が家庭のなかに入ってきた。多くの人は戦争や空襲を経験し、ベトナムの人々を思いやった。
脱走兵という概念をひっくり返した衝撃もあった。日本で脱走兵といえば、長く非国民、裏切り者という認識だったが、大きく変えた。その象徴が、記者会見の数日後に、新聞に載った政治漫画(近藤日出造作)だ。その漫画は、リンカーンの像の前に4人の脱走兵が並んでいる。民主主義を体現するリンカーンと脱走兵を同一視していた。
今振り返ると、ベ平連を含め当時の反戦運動は、社会運動として必ずしも成功したとはいえないが、運動を通じ、個々人が、国や国民という概念を超え、世界の市民・人間の一人だ、とみる考えが生まれた。それぞれのその後の生き方に、影響を与えたと思う。