観察 Observation

研究室メンバーによる自然についてのエッセー

一年が経った

2012-06-25 23:02:25 | 12.3

教授 高槻成紀


 一年が経った。この一年を短い言葉で表しきることはできそうにない。多くの本が出て、たくさんの論評もある。なるほどと思うことも、同意することもたくさんある。ここでは私なりにこの一年の意味を考えてみたい。
 「がんばれナラの木」は良くも悪くも単純すぎたように思う。「がんばれ」ということばは、十分がんばっておられる被災された人々に失礼であったかもしれない。これはよくない点であった。しかし、単純であっただけに、むしろ読む人の魂に訴えるものもあったのか、私が深く考えないで始めたときには思いもしない形で拡がりを見せた。これは単純であったことのよさかもしれない。
 当初私が「がんばれ」と思ったとき、二つの思い違いがあったようだ。ひとつは、この日本のことだから、半年もすれば見違えるように回復し、一年経てばもとのようにとまではいかなくても、ほぼ平常な日常が戻ってくるだろうと漠然と想像していたこと。実際にはじれったくなるほどの遅さであった。これは一体どういうことか。阪神淡路のときと何がどう違うのか。仙台に住むようになって初めてわかった、東北地方の「遅れ感」が本当に深刻なものだと感じないではいられなかった。国は関西のときと同じようには「本気」ではないのではないか。そうした不信感が芽生えた。不信感といえば、この国の指導者たちの情報に対する感覚は強く疑わざるをえない。原発からの避難地域を半径5キロだ10キロだといっているとき、欧米諸国は20キロとしていた。それに対して「大げさすぎる」といわんばかりの態度であった日本政府は事態が動かしがたいことを知ると豹変して20キロといい、あとでわかったのはフランス政府が20キロを日本政府にも勧告していたにもかかわらず、無視していたという事実である。さらに最近わかったことは、議事録がなかったという信じがたい事実である。私はこれは嘘だと思う。記録は現代のすぐれた録音機でなされていたはずだし、万一録音されていなかったとしても、その気があれば誰が何を発言したかは、参加者が本気で復元しようとすれば必ずできる。「覚えていません」というのは口裏を合わせているに違いない。その底にあるのは「発言の責任を問われたくない」という利己的な思いである。この社会はリーダーであることを何だと思っているのか。「覚えていません」とか「部下が悪いからです」というためにふんぞりかえって、高い給料をもらっているのか。失敗の責任をとるからこそ高い地位についているのであり、ことあれば命を捧げる覚悟があるのが当然であろう。メルトダウンは日本社会のリーダーの心に起きていたことがわかった一年であった。
 思い違いのもうひとつは、当初は被害の深刻さの8割は津波被害で、原発事故は2割くらいだと思っていたこと。だが事態が進むにつれて、半々かあるいはむしろ原発のほうが8割くらいではないかと感じられるようになってきた。三陸の海岸部は記録が残っているだけでも何度も津波を体験し、それでも復興してきた。三陸では「一生に一度か二度は津波がある」と伝えられているそうだ。ざくっと言えば「壊れたものは直せる」ということが体験的にある。時間はかかっても復興はできるということは実証されてきた歴史がある。
 だが、放射能に汚染されたというのはまったく体験がない。瓦礫を片付けてもそれを廃棄する場所がない。農地も山も汚染された。山から汚染された水が流れる。土壌の中も汚染された。それらを集めて置いておくことなどできるのだろうか。しかし放置すれば有害であることはまちがいない。
 これまで人間の健康という点で議論され、もちろんそれが一番肝心なことではあるが、動植物を研究して来た者の立場からすれば、すべての動植物が汚染され、遺伝的な問題がこれから先もずっと残ることにも思いを馳せるべきだと思う。私はそのことを、目にした蛾の羽化をみながら考えた(「小さな命とフクシマ」)。このことは土地倫理という文脈で考えるべき問題だと思う。人間は日本列島への新しい侵入者であり、我々の祖先よりもずっと前からこの列島の動植物が関係を持ちながら生を営んできた。原発事故は、そうした動植物とその環境を汚染したという視点でも考えなければいけないと思う。そう考えれば、津波が軽いとは言わないまでも、放射能汚染の問題はそれよりもはるかに深刻であるということを知った一年でもあった。
 国に対する不満、東京に住んでいて「がんばれ」というという図式自体への心苦しさ、放射能汚染の深刻さと子供たちへの申し訳のなさ、そういう思いが渦巻いた一年でもあった。戦後の瓦礫の町や戦争孤児のことを描いたテレビ番組を見て、胸がつぶれる思いであったが、私が生まれ育った昭和20年代、30年代は同じように貧しく、たいへんな時代であったことを大人になった今、わかるようになったが、それでも子供心に体で感じるのは、たいへんではあっても楽観的でありえた時代の明るさである。昭和40年代の後半くらいから日本は豊かになり、便利になり、平和であった。そうした生活を保障するために、とくに都会の人間が地方にエネルギー源供給を押し付け、起きたのが原発事故であった。
 50年前に比べればまちがいなく豊かでありながら、先が見えない閉塞感が被い、そうであるがゆえに将来のことを考えないで、日常の忙しさに自分をごまかそうとしている自分がいる。国を批判することはできても、社会を形成するのは私たち一人一人であり、原発事故を起こしたのは、私たち大人の責任であるという事実からは逃れようがない。ため息をつきながらも、子供たちの未来のために一人一人ができることをするしかないように思う。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿