先日、お世話になっいる女性牧師の結婚式がありました。
パーティーで祝辞がわりに述べさせていただいたことでもあるのだけど、これは新郎新婦やご両家にとって祝福のできごとであるだけでなく、教会にとっても大きな祝福のできごとだと思うのです。
というのも、私は男性として聖書を読んでいて、「ここは女性でないと本当にはわからないのだろうな」と思うことがちょくちょくあるんですね。
たとえば大艱難時代についての予言で「その日には、身重の女と幼子を持つ女とは不幸である」とあるけど、男としてはどんなに想像しても「大変だろうな」にしかならない。母親というものがこの言葉から受け止めるであろう緊迫感は、どんなにすぐれた男性牧師でも感じることはできないと思うのです。
同じように、「花婿のために着飾った花嫁のように」という比喩も、これは花嫁を経験した既婚女性、あるいは花嫁にあこがれる独身女性と、男性とでは、感じ方が絶対に違うだろうと思う。うまく言えないのだけど、女が男のためにドレスアップするのと、男が女のためにそうするのとでは、何かが決定的に違うような気がするのです。
まして「キリストの花嫁」なんて言われても男性は牧師も信徒も「こういう心持ちなんだろうな」としか想像できない、悪くすると「花嫁はこういう思いであってほしい、あるべきだ」にしかならないんじゃないかと思うのです。
だから今回、女性牧師が花嫁を経験したこと、それを男性信徒に伝えられるかは別として「花嫁とはこういう心持ちなんだ」ということを体験として知った牧師が御言葉を取り次ぎ、「キリストの花嫁」たる教会をリードしていくということは、教会にとって祝福のできごとだと思うのです。
聖書には逆に「これは男性にしか本当にはわからないよ」と思えるところもあるわけですが、男性牧師による説き明かしはいくらでも聞く機会があるし(まして私が礼拝をささげている教会にはこの女性牧師の他に二人の男性の名誉牧師なる職分と、一人の男性の協力牧師がいるという、規模からはずいぶんと贅沢な教師陣なのです)。
国を問わず教派によっては「女性牧師」に否定的なところもあります。私の出身教会の教団でも、女性牧師はかなり少ない上に、結婚すると職を続けるのが難しいようです。規定があるわけではないようですが、女性献身者は実質的に、牧師夫人になるか生涯独身かということになっいる。もったいない気がするなぁ。
パーティーで祝辞がわりに述べさせていただいたことでもあるのだけど、これは新郎新婦やご両家にとって祝福のできごとであるだけでなく、教会にとっても大きな祝福のできごとだと思うのです。
というのも、私は男性として聖書を読んでいて、「ここは女性でないと本当にはわからないのだろうな」と思うことがちょくちょくあるんですね。
たとえば大艱難時代についての予言で「その日には、身重の女と幼子を持つ女とは不幸である」とあるけど、男としてはどんなに想像しても「大変だろうな」にしかならない。母親というものがこの言葉から受け止めるであろう緊迫感は、どんなにすぐれた男性牧師でも感じることはできないと思うのです。
同じように、「花婿のために着飾った花嫁のように」という比喩も、これは花嫁を経験した既婚女性、あるいは花嫁にあこがれる独身女性と、男性とでは、感じ方が絶対に違うだろうと思う。うまく言えないのだけど、女が男のためにドレスアップするのと、男が女のためにそうするのとでは、何かが決定的に違うような気がするのです。
まして「キリストの花嫁」なんて言われても男性は牧師も信徒も「こういう心持ちなんだろうな」としか想像できない、悪くすると「花嫁はこういう思いであってほしい、あるべきだ」にしかならないんじゃないかと思うのです。
だから今回、女性牧師が花嫁を経験したこと、それを男性信徒に伝えられるかは別として「花嫁とはこういう心持ちなんだ」ということを体験として知った牧師が御言葉を取り次ぎ、「キリストの花嫁」たる教会をリードしていくということは、教会にとって祝福のできごとだと思うのです。
聖書には逆に「これは男性にしか本当にはわからないよ」と思えるところもあるわけですが、男性牧師による説き明かしはいくらでも聞く機会があるし(まして私が礼拝をささげている教会にはこの女性牧師の他に二人の男性の名誉牧師なる職分と、一人の男性の協力牧師がいるという、規模からはずいぶんと贅沢な教師陣なのです)。
国を問わず教派によっては「女性牧師」に否定的なところもあります。私の出身教会の教団でも、女性牧師はかなり少ない上に、結婚すると職を続けるのが難しいようです。規定があるわけではないようですが、女性献身者は実質的に、牧師夫人になるか生涯独身かということになっいる。もったいない気がするなぁ。