昨日、わたしに必要なのは若返りメークだと書きました。
もちろん、冗談、そんなメークをするつもりは死んでもありません。
歳をとるのは自然なこと、あえて自然に逆らっても、どのみち負けるのです。
それに、歳をとるというのも、考えようによってはなかなか楽しい経験でもあります。
もともと中高生くらいの頃から、早くおとなになることに憧れていました。
親兄弟や親戚や他人から、子どもなんだから、子どものくせに、とか言われる。
それがたまらなくイヤだっただけなのですが、今思うとヒネたガキと思われたかもしれません。
中には、まだ青二才なのに、とか若造のくせにとか、露骨に侮蔑する人も。
そういうオトナだって、単にトシを食っただけの子どもみたいな人がずいぶんいました。
青二才の青は、未熟ということですが、二才は単に二才ということではないだろうな。
そう思って調べたら、若者をあらわす新背(にいせ)が変化して二才になったとか。
稚魚を二才という、青は前髪をそり落とした跡が青いことから、そんな説明もありました。
さて、おとなに憧れたわたし、おとなになれているのでしょうか?
自問してみると、まだまだまだ・・・が続いて、どうやら死ぬまでおとなになれない感じ。
というか、わたしの中には、明確なおとな像というものがないことに、改めて気がついたのです。
おとなとはどういう人間のことを言うのか?
それがわからないかぎり自分がおとなかどうかはわかりません。
70歳を過ぎて、おとなになっていないなんて、キモチ悪いよなあ、と自分でも思います。
でも、事実だから今さらカッコつけてもしかたがありません。
とはいえ、おとなになれないまま死んでゆくのもシャクなので、あれこれと考えてみています。
うまく言葉で言い表せないのですが、いま思いつくのは「多様性」ということ。
ふつう多様性というと、色々な人、物が存在することに対して使われます。
それを外にではなく内にあてはめ、自分の中に多様性を抱え込んでいる人がおとなではないか。
すなわち、事実は単純でなく複雑、一筋縄でいくようなものではないこと、がわかっているひと。
おとな像についても同じことが言えて、軽々しくわかるものではない。
ということは、わからないことがわかった、というソクラテスに辿り着くことがおとなの終着点?