六畳の神殿

私の神さまは様々な姿をしています。他者の善意、自分の良心、自然、文化、季節、社会・・それらへの祈りの記。

今晩の予定

2005年09月30日 | 日々のこと
 この夏、ダーリンの会社が引越しをした。
 移転に伴って、古くなったり不要になった物は処分し、まだ使えるものは社員で分けたり買い取ったりした、らしい。
 ダーリンも、そういう物を何点か引き受けて持ち帰ってきたが、その中に、《おでん鍋》があった。
 《おでん鍋》・・そう、あの、コンビニのレジの脇で湯気を立てている、四角い、保温機能のついたやつである。
  なぜ、会社におでん鍋が・・?

 まぁ、会社主催のイベントとかで使ったんでしょうけど(それとも社内でおでんパーティーの習慣でもあったのか?) ダーリンはとても嬉しそうに、いそいそと持ち帰ってきたものだった。
 その時はさすがに真夏だったので、私は目が点になりつつも「寒い季節になったらのお楽しみね・・」とか微笑んで動揺を隠し、ダーリンも特に異論なく、四角い鍋を四角い箱に収納してくれたのだった。

 しかし、先週あたりから、何となく夜風に冷たさが感じられるようになってきたら、ダーリンがつぶやいた。
 「そろそろ、おでん、どう?」

 もう、ですかい?

 ・・ってゆーか、おでんが食べたいってだけじゃなく、持ち帰った鍋の使い心地を早く試したいってのもあるんだろうなぁ。
  よっしゃ。
 材料を揃えましょう。つみれ、ちくわ、さつまあげ、だいこん、たまご・・
 あ、でもさぁ。平日でもいいけど、せっかくだから、週末にビール飲みながらノンビリつつく方がいいんじゃない?
 「・・うーん、そうだね」
 じゃあ、おでんは、金曜日の夜にしようよ。
 「オッケー」

 そして、今朝。
 「今夜は、おでん、だね?」と念を押して、仕事に出かけたダーリン・・
 記憶にある限り、ダーリンから夜のメニューのリクエストを聞いたことがない私は、またまた目が点・・もしかして彼は、今週ずっと、今夜のおでんを楽しみに頑張ってたのかしらん・・


 そして、新聞のテレビ欄でさっき知りました。毎週楽しみに、欠かさず見ていた番組 えぐら開運堂 が、今夜で最終回、らしい・・
 心のよりどころが、またひとつ無くなっちゃう~・・さ、淋しい・・

 でもなっ、いつまでも誰かに心を預けているのは良くないもんなっ、と思い直す。淋しいけど、スピリチュアルな指針を番組を通して沢山見せてもらったんだから、それを手本に、自分の頭で考え、自分の足で歩かなくちゃいけないんだなっ。
 ・・と、いうわけで、今夜は気持ちを明るく楽しくして、最終回をしっかり見ようと思います。

本日の鑑賞

2005年09月29日 | 日々のこと
 今日は久々に平日休みだったので、朝から東京都美術館で開催中の「ルーブル美術館所蔵 古代エジプト展」 に行ってきました。

 私は好奇心旺盛のミーハーなので、古代遺物とかも大好き。エジプトものはわりによく見に行きます(でも面白がるだけで勉強しないので、ちっとも詳しくなりません・・)。

 ま、それはともかく。今回の感想はと言うと。
 何と言うか・・いまいち《通ごのみ》というか? ハッキリ言って展示物が全体に《地味》な印象。よく聞く有名なファラオの名前とかもあんまり出てこないし、展示されている遺物も、王家モノより、神官とか役人とか庶民とかのものが多くとりあげられていて、細工も粗い物が多かったりして、《お宝》度は、イマイチ。
 では面白くなかったかというと、それは逆で。普段は「へぇ~、ほぉ~、見事なお宝じゃの~」とか言いながらざーっと見とばしてしまったりする(人混みが嫌いだから)んだけど、今回は、展示物に添えてある全ての解説文を、丁寧に全部読んでしまいました。
 すごく分かり易かったし、ルーブルがそれだけ系統立てて研究している成果かなーとか、企画展示に携わった東京都美術館の学芸員の力か?とか、思いましたです。
 とても楽しめました。

 そんで、さっきお風呂に入りながらつらつら思い返していて、はた☆と思い当たった。
 今日の展示が「天下のルーブル」の所蔵品にもかかわらず、なぜ、地味で《お宝》度が低かったのか。
 何のこたーない。有名で《お宝》度の高いものはみんな、大英博物館に行っちゃったんだ。きっと、そうでしょ?

 当時のエジプト権益をめぐる国際的な力関係が、現代の所蔵品に如実に表れているってことなんだぁ。
 それはそれで、興味深いことだなぁ。   

恋の話

2005年09月28日 | 日々のこと
 どーでもいいコトなんですが 最近、ちょっとした悩みがあります。

 この夏あたりから注目されてきたスポーツ選手がいるんですが、彼の名前が、昔好きだった人と同姓同名なんですよ。字は違うんだけど。

 ・・つけっぱなしのテレビから、その人の名前が聞こえてくる。
 ふっと、手が止まる。
 甘酸っぱい思い出が、微笑みといっしょに湧いてきて、思わず喋りたくなる。
 ・・でも、こういう思い出話、ダーリンはどう感じるだろう? それが分からなくて、毎回「ウムッ」と口チャック・・(ああ、恋について軽ぅくおしゃべりしたいなぁ・・)

 昔の淡い恋の話を、男性は女性から、聞きたいものなんだろうか、それとも知りたくないものなんだろうか。

 私なんかは、過去のダーリンの恋の話、聞いてみたいんですけどね~
 たとえばまだ青い頃の、みっともない失恋話とか。(←アクマ?) そりゃあもう、私にとっては宝物みたいなエピソード!! ・・と思うんですが。かつて、それとなーくさぐりを入れてみた時も「そういう話は内緒!」で片付けられてしまったし。
 ちぇっ、ケチ。おしえてくれたって、いいじゃーん 

 まぁ、男というものは、女と違って過去の恋についてはとってもデリケートで、思い出を大切にするとか聞くし、ムリクリ根掘り葉掘り聞くような事でもないから、どーでもいいんすけどね。

 良ければご意見をコメント欄にお寄せ下さい・・(ついでに1クリック☆も・・笑)

秋の庭

2005年09月26日 | 日々のこと
 裏庭のムラサキシキブの実が、見事に色づいてきました。日々草は夏の盛りの頃と変わらずに花を揃えているけれど、窓に絡ませた朝顔はそろそろ実の方が目立ってきています。
 電車の窓ごしにいつも見ている、黒く重く立ち枯れた向日葵の稔りは、いつになったら誰が摘むのかな。
 お寺の境内の紅白の萩は、満開になって風におだやかにゆられていました。
 ホームセンターで売られている花の苗は、菊とコスモスがメインになってきている・・でも何で春よりも苗がお高いの?《季節の、旬のもの》が安いのは、食料品の場合だけ?
 春は花で楽しませてくれた桜並木が、近頃は、黄色と茶色とうすみどりの落ち葉で、歩道に即席のポップアートを描いて見せてくれている。

 秋 たけなわです。

道の上 5

2005年09月22日 | 文化・社会
 「道の上 4」からのつづきです。

 《核》は、人類の「あやまち」。
 それは麻薬みたいなもの。一度手にしたら、もうそれを手放しては周囲の状況を考えられなくなる。いま《核》の一番の効能として挙げられている戦争の抑止効果だって、本当は《過渡期のあやまった手段》として、早く「負の文化遺産」扱いされるべきなんだと思う。

 あさひ素材さんの過去の記事「核なんて古い」のコメント欄で、さんちゃごさんが『「核を保有しても無駄なだけ」…そう知らせるのが、結果的に核を廃絶する最も近道に思えるのですが…。』と書いておられたが、私も全くその通りだと思っている。

 だからこそ私は、8月6日の自分のエントリーで、あえてあんな書き方をした。「原爆投下が戦争を早く終わらせた」というような、どんなかたちであれ核兵器の効能を評価するような意見には、今後も断固「NO」と言い続けたい。
 ・・少なくとも戦後すぐの頃とか、投下した側からの(自分の行為のむごたらしさから目を背けるための)言い訳としてなら、そういう表現も説得力を持っただろう。しかし60年という時間を経た今でも・・その後明らかになってきた様々な現実を知っても、なお、その主張を続けていられるというのは、どういうことなんだろう・・ 1、原爆や先の大戦に対する知識不足 2、反日思想や白人優位主義を鵜呑みにしている 3、核兵器を究極の武器として肯定している 4、自虐史観などのために過去の日本人及び自国の原爆犠牲者に対する共感が薄い 5、人類全体に対する共感が薄い 6、世界に対して無関心あるいは他罰的な感情を抱いている ・・のいずれかではないのかと思ってしまう。
 (でも、そういう「自分とは異なる見解」をもつ人に対する自らの感情を、ブログという公開の場で、ストレートに表現したのは「礼を失する行為」でしたから、その言葉遣いについてはコメント欄でお詫びしました。)

 「原爆投下が終戦を早めた」
 こんにち、この《歴史のif》を口にして良いのは、本当は多分、被爆者自身だけだ。「あんなにもむごい犠牲が、何の意味も持たなかったというのでは辛すぎる。あの煉獄の苦しみをもって、その後の何日かの戦闘で死ぬはずだった何万人もの日米双方の人々の命を救ったのだと思えば、せめてもの救いだ。理不尽な運命への悲嘆も、少しはやわらぐ」と言われるなら、その思いに対して私は返す言葉がない。ただ黙ってこうべを垂れるのみだ。(でも、被爆者の方々ご自身がそういう事を言っているのは、あまり訊いたことがない。)

 しかし、いくら「あやまちだ」といっても、《核》は存在するし、今回の6カ国協議でも分かるとおり、核を抜きに世界情勢は語れない。また、《核》の問題を俎上に載せない国防の議論もまた、現実的とは言えない。
 私以上に(?)《核》に対してアレルギー反応を示す人々が、将来の日本の核保有を拒否するあまり(・・だけじゃないかもしれないけど)憲法改正論議まで最初から否定するのは、どうかと思う。むしろ(あさひ素材さんも提案なさっていた)ミサイル防衛などの拡充を進め、自衛隊の位置づけを明確にし、核兵器が「本当に必需で持った方がお得な」兵器なのかどうかを考えるためにも、改憲はまず必要だろう。
 核は、軍事だけでなく(国際・国内的な感情面を含め)総合的に考えた場合、他ならぬこの日本が保有するのは、意外にお得ではないかもしれない。

 だいいち「日本が今後自前の《核》を持つのか持たないのか」「そのうえで誰と仲良くするのか」みたいな事に頭を悩ませているうちに、世界は違う流れの先へ先へと、進んでいるかもしれないのだ。今は《国家》とか《どっちがわ勢力》とかいうより、テロリストの手に既存の核兵器が渡らないようにすることの方が、最優先の国際課題かもしれない。今の北朝鮮の《核恫喝》は(もちろんひどく厄介な問題ではあるけれども)一昔前の古い形で、なんとなく、時間はかかっても「おとしどころ」がみつかりそうな気がするが(気のせいかもしれないが・・汗)、万が一、自爆テロとか追剥ぎ的襲撃をするテロリストに核が流れてしまったら・・と想像すると、おそろしさで気が遠くなりそうだ。
 日本は、自分が持つか持たないかを決める前に、まずは別の課題に取り組んで、その間、核だけはアメリカさんお願い・・って現状追認も、とりあえずアリかもしれないなぁ・・なんて思う私は、へタレ野郎かなぁ・・。

          

 平和の道の上をゆく両輪の片方、《非暴力》は、誤解されていると思う。

 ヒトは社会性の動物だから、共感能力がある。非暴力は、それを用いた《戦闘手段》。理解と洞察を促すことで、相手を積極的に武装解除してしまう《説得力》のことを指す。
 非暴力は、暴力よりも高度なテクニックと犠牲と忍耐を要する、タイヘンな手段。先日、「他国が攻めてきたら?」というアンケートで、「武器以外の方法で戦う」と答えた日本人が多かったそうだけれど、ちゃんと犠牲と忍耐を覚悟したうえでの回答なんだろうか。

 しかも、相手が、人権を抑圧され、異なる方向性に教育(教育を剥奪することを含め)された人々の場合、共感を用いた《非暴力》は、力を持つことは困難かもしれない。ガンジーが非暴力でインドの独立を勝ち取ることができたのは、敵が、文化教養の高いイギリスや欧米列強だったから、という要因も大きいのではないだろうか。

 たとえば先の大戦で、原爆投下の候補地から京都が外されたのは、そこに集中している文化財の価値をアメリカ人が評価した(日本人の評価をアメリカ人が配慮した?)ためであることは有名。
 日本が、自前の核兵器を持たないで核攻撃を避ける方法のひとつに、この《日本 総・京都化》が挙げられると思う(だから日本の伝統文化や神話・芸術作品などを取り上げるのに力を入れている扶桑社の「新しい歴史教科書」は、すぐれて《平和主義》的教科書と言える)。

 日本が・・いや、世界中のどこでもが、世界の人々にとって「なつかしく、珍しく、かけがえのない文化財」となれば、核兵器は自然に、廃絶の方向に向かうだろう(・・だから「世界市民」を標榜する人たちには、国境も地域の差異も解消して全てを均質化することが理想的な未来像なのかどうかを、もう一度考えて欲しいと思う)。

 そして、タリバンによって破壊されたバーミヤンの石像・・世界中に配信されたあの映像を、世界中の人が胸に刻む必要があるだろう。非暴力の手段である《共感》が、あの日、特定の人々の独善により踏みにじられ、崩れ落ちた。地球上から「想い」や「文化」のもつ抑止力が失われた深刻さを、我々はもっと認識すべきだと思う。

 日本は、文化に対して鷹揚というかノンビリというか、理解や支援や危機意識が、まだまだ遅れている。ご近所の国の著作権侵害や海賊版には寛容だし、企業はちょっと経営が傾くとまず最初に文化活動から手を引くし、「自国の文化を知らなくても世界に通用する」とか言っちゃう若者は野放しになってるし・・その無自覚こそが、平和に忍び寄る危険であり、悪意につけ入るスキを与えている行為だという自覚を、日本人はもっと持つべきなんじゃないかな。

文化は武器です。☆

取扱説明書は読みましょう。

2005年09月20日 | 日々のこと
 ここ2日ほど、PCの調子がヘンで、いろいろな事が滞ってしまいました。
 理由は、新しいソフトをインストールしようとした事。

 パッケージにも簡単って書いてあるし、たしかに手順はひどく簡単そうだ。図解入りの取扱説明書も見やすいし、2台用のソフトだったから先にダーリンのPCにインストールすると、ごく短時間で完了。
 これなら楽々じゃん、と私も真似してインストールしたら・・

 な、なんでこうなるワケ~
 慌てて取扱説明書を見直したら、ちゃんと、わざわざ一項目を別に割り当てて
 こういうことは、しないでちょーだい。
 と書いてあった・・まさにソレを、私は、してしまっていた・・・

 私のような者のためにこそ、取扱説明書はあるのに・・読まなきゃタダの紙の束やん・・。
 反省して、よぉく説明書を読んで、アンインストール・・嗚呼、何て時間の無駄・・

 いやいや、ひとつおベンキョウになったから、よしとしよう。

今週の、トリビアの種

2005年09月16日 | 日々のこと
 「トリビアの泉」。 毎週観ているわけじゃないんですけどね。結構好きな番組です

 特に今週のは、当日に新聞のテレビ欄をチェックし、朝っぱらから「これは観なければっ・・!」と思って夜を迎えたですよ(笑)

 題して「大検証 犬にドッキリ・飼い主が突然倒れたら・・」

 主人が危機に陥った時、助けを呼びに行くような賢い犬は、セントバーナードのような血統書付きのイメージが強い。では、雑種犬ならどうなのか?・・という疑問にもとづき、実際に飼い主が倒れてみせて、犬が人を呼びにいくかどうかやってみる、という内容。

 結果は・・もうご覧になった方も多いと思うので略しますが、やっぱ訓練ナシで「人を呼びに行く」という洞察行動ができる犬は滅多にいないんだなぁってこと。

 逆に言えば、訓練というのはそれだけ犬を《賢く有能に》し、そうなれば飼う人も嬉しいし、人から誉められて犬もハッピーになることなんだなぁと、再認識。

 さらに、スタジオの解説者は、わざと視聴者の失笑を誘うような台詞を犬の動作にあてはめていたけれど、実際に犬を飼ったことのある人なら気づいただろう。半数くらいの犬たちはちゃんと、倒れた飼い主を元気づけようとしたり助けようとしたりしていた。
 課題である「助けを呼びに行く」という発想は、犬たちの頭の中には無い。だから、初めての危機場面で彼らは、単純でおバカなアタマを必死にふり絞って《犬の知恵で考えうる限りの最善策》をとろうと頑張った。

 とりわけ印象に残ったのが、小さな黒い犬のケース。倒れた主人を起こそうと必死になったあげく、主人の上にちょこんと乗っかって、腹ばいに座り込んでしまった。
 スタジオは「よっこらしょ。一緒にひと休み」とか解説を入れてたけど、あの動作は、そうじゃない。
 彼(彼女?)は、倒れて動かない主人を《体をはって守った》つもりなのだ。

 ああ、犬ってケナゲで可愛いなぁ~
 また犬を飼いたくなってしまった。

 ついでに・・あり得ないだろうなーと思いつつも「飼い犬に救ってもらう」状況に憧れ、実験に参加して、空想どおりにコトが運ばなくって「正直、がっかりしましたね・・」とか淋しげに苦笑している飼い主さんたちの《親バカ》ぶりも、微笑ましくて良かったです

あと10日で

2005年09月16日 | 日々のこと
 あと10日ほどで、終わっちゃうなぁ、愛知万博。

 興味はあったけど、開催前からいろいろと気に入らない話が多くて、積極的に「行こう!」という気分になれないままに夏が終わってしまった。

 愛知県内に在住のオールドフレンド(御歳76歳!)にもお誘い頂いてたのになぁ。彼とデートし損なった点だけは、ちょっと残念な気がするなぁ。

道の上 4

2005年09月11日 | 文化・社会
 ずっとひっかかっている。「核兵器」のこと。

 《暴力》と《非暴力》の両輪で未来へ向かって走る《日本国》という名の車を、うまく御して《平和》という道の上から外さないようにするにはどうしたらいいのか。

 そのために、有権者の一人として、自分なりの考えはまとめておきたい。そういう視点で現状を見、国防について考えていくと、必ず核武装のことに行き当たってしまう。

 アレルギーと笑われても良い。私は、核兵器と通常兵器を、同列の延長線上に並べて考えることが、とてもできない。
 原爆資料館の、黒い人影の残った石。どんな凄惨な絵図よりも、私はアレを見た時の衝撃が忘れられない。
 一瞬にして何万人も殺傷するだけでなく、被害者である被爆者が更に差別と偏見にもさらされ、直接・間接(胎内)被曝の方はもちろん、戦後に被爆者がもうけたお子さんたちでさえ、60年もたった現在でも何か悪影響があるのではないかとおびえ続けなければならない・・放射能は高濃度で残留・拡散し、環境を汚染する・・そんな兵器が未だに、人類といういとしい生物に対して、使われる可能性があることを是認できない。

 今年の8月15日の新聞に、櫻井よし子さんと小野田寛郎さんの対談が載っていた。たしかその中で、櫻井さんが、原爆の碑の言葉 『安らかに眠ってください あやまちはくりかえしませぬから』 についてこういう趣旨のことを語っていた。

 「あやまちという言葉は良くないのではないか。日本人自身が、自分たちは原爆を落とされて当然なあやまちをおかした民族だという思いを、いつまでも引きずることになる」

 私は櫻井さんの大々ファンだが、この考え方には賛同できないと思った。

 日本語の文章は、主語や主体を省略して曖昧なままでも成立するから、ややこしいことになるのだが、ここでいう「あやまち」は、日本民族の事だけを指しているのだろうか?
 私はそうは受け取れない。当時の、この碑の言葉を刻んだ人も、そういう趣旨ではなかったのではないか。

 くり返しになるが、私は、原爆投下は人類とその歴史に対するアメリカの「あやまち」であり、核兵器そのものが、国籍を問わない科学者という人種(?)の「あやまち」であり、科学の暴走を抑制できない科学者以外の人々の「あやまち」であると思っている。
 また、日本人であろうがアメリカ人であろうが他の民族であろうが関係ない、外交の手段として、戦争という《暴力》を、他の手段より優先して選び、頼ってしまった、それが、そもそもの「あやまち」。
 碑の言葉は、そのことを指しているのだと思う。

 (つづきは、1クリック☆ して次回をお楽しみに・・)

道の上 3

2005年09月10日 | 文化・社会
 本日のお言葉。

  「正しいと思われる選択が必ずしも成功につながるわけではないわね。
ズレたら修正する。目を離さずにいる。たえずゴールを向いて調整する ――
成功への意志こそが大切なのだわ。くだらない今の感情などよりも― ね」 


 槇村さとる 「Do Da Dancin'!」8巻113ページ より

 この台詞の中の語句、「成功」→「平和」、「ゴール」→「未来」と読みかえると、私のキモチにしっくりくるですよ。

 (次回につづく・・)

近況です

2005年09月09日 | 日々のこと
 今夜のメニューは、舞茸ごはん。おかずは秋刀魚の塩焼き。だだ茶豆。デザートは幸水梨と巨峰。
 苦手な夏の気配がそろそろ退いて、美味しい季節が始まります  嬉しい~ 夏バテでまた痩せてしまったので、これからは馬みたく肥えるゾ~

 最近、気になっている、民主党のテレビCM。岡田さんが最後に一言、「日本を、あきらめない」と言ってキメるのだが、それを聞くたび、イントネーション(「な」に強勢がくる)が気になる。標準語は「め」に強勢が来ると思うのだが・・岡田さんは、どこの地方の出身なんだろう?
 ちなみに、私は期日前投票を済ませてしまったので、ここ数日の選挙戦は、ほとんど他人事です。

 昨夜も今夜も、柔道をTV観戦してます。ガンバレ、日本!  ・・・と言うと、今の時期は、ヤッシーを応援したことになっちゃうのかな?(笑) 

道は続く・・

2005年09月01日 | 映画
 9月です。秋刀魚の話題もちらほら出てきました。

 8月が過ぎたからと言って「平和」について考えなくなるというわけではありませんが、ちょっと集中が切れてきました。
 この話題は、折に触れて冷静に、身の丈に合ったかたちで考え、これからも少しずつ表現していきたいと思います。

 そう思った背景に、ここ数日に観た、ふたつの映画があります。

 ひとつは、チェコ映画祭でたまたま観た「セカルを消せ」 もうひとつは、楽しみにしていた「容疑者 室井慎次」でした。

 「セカルを消せ」は、レンブラントを思わせる美しい画面に、濃厚な宗教色をたっぷり含ませつつも、世界のどこにも共通する《人間の醜悪さと切なさ》を描いており、チェコ映画の質の高さを感じました。
 でも(それだからこそ)観ていて辛かった~。
 人々がその存在を抹殺したがるセカルという人物。彼がいったいどうしてそこに居るのか。どうしてそうなってしまったのか。暗い時代背景、閉鎖的な村の狭い価値観、そこで生きることを定められた絶望感と無力感。保身、裏切り、偏見、他者不信、身贔屓、事大主義、そして宗教の衣を借りた自己正当化。
 これが「人間というもの」の姿なのか。
 ・・ならば、美しい田園風景の中、野ざらしの十字架の前にただひざまずき、懺悔の頭をたれるしかないじゃないか・・そんな気分にさせられる映画でした。

 そして「室井慎次」。
 これもまた、現実だな~と思わされました。特に灰島弁護士。いるんだよねー、現実にこういう人が。そういうタイプの人を敵に回した時の、何とも言えない絶望感と戦慄を、思い出しちった。

 そういった《見たくない現実》から目を逸らすことは、ある意味、思考停止ではないのか。
 つい、そう自問してしまって、げんなりする。

 こういう現実をまざまざと見せられてなお、人間を信じる勇気を、自分はもてるかどうか?を問われている気がするわけですよ。

 ・・まぁ、私がそゆことで一人ドンヨリ してようがいまいが、日常は動いていくわけで。
 であれば、よどんでるだけ損とゆー気もしますが。

 「容疑者 室井慎次」は、「地味だ」とか「つまんない」とか酷評されてるみたいですが、私は「交渉人 真下正義」より断然評価するなぁ。

 正しさは、時に人を追い詰める。力をもつ分、その意図がないのに、人を傷つけてしまう。
 小此木啓吾もかつて、そんな事を言っていたっけ・・何に書いてあったかは忘れたけど。その一言だけがすごく印象に残っている。

 「室井さんのような人は、必要だと思うか?」
 この問いかけって、けっこう重いなぁ。