六畳の神殿

私の神さまは様々な姿をしています。他者の善意、自分の良心、自然、文化、季節、社会・・それらへの祈りの記。

陛下に、靖国へ・・?

2006年01月31日 | 文化・社会
 麻生さんが、天皇陛下にこそ靖国神社へご参拝いただきたいと発言。英霊はみな、天皇陛下万歳と言ったのであって、総理大臣万歳と言った人は皆無だからとか何とか。

 んー。・・何かビミョーな感じ。
 麻生さんの発言の意図が分からない。なんで、この時期にそんなこと言うの?

 首相の靖国参拝の是非は《中韓の外交カード》であって、それを日本のどの政治家がどう捉えどう扱うか、有権者はしっかりみきわめとかなきゃならない。誰がどの国にシッポをふり、結果としてどの国の国益を優先させているか、金のために心を売り渡してはいないか、等など、「あぶりだし」には良い材料のひとつといえるだろう。

 でも、そういうあれこれの渦中に、陛下を引っ張り出すのはどうかなぁ。

 ただでさえ皇室典範改正法案の今国会への提出とかでざわついている時なのに。雅子妃のことでも、おそらく心晴れない日々が続いているだろう時なのに。

 昨年夏に実現した、バンザイクリフでの静かな慰霊のお姿を思い浮かべるだに、こういうざわついた時に靖国へというのは、どうだろうと思っちゃうですよ。
 雑音無しに、たとえばもう当然首相も公人としてお作法に則り参拝するような、そういう環境が整った上でなら、陛下に直々にご参拝いただくのは良いと思うけど。

映画「いぬのえいが」

2006年01月30日 | 映画
 レンタルで、ビデオ借りて観ました。

 いやぁ~・・泣けますね。感想は、以上(笑)

 だぁってぇ、この作品を犬嫌いの人が観るとはあんま思えないしぃ、犬好きなら&犬好きを身近に知っている人なら「うんうん、あるある」と思うエピソード(笑いと泣きのツボ)満載だしぃ・・

 犬好きで、まだ観てない方、一度はご覧下さい。おススメです。必ず泣けます

 ちなみに私は「バウリンガル」開発のエピソードが一番好き! 駆け去ってゆくトイプードル君、君は彼に何を伝えたのだぁぁ!?

アフリカ的解決

2006年01月29日 | 日々のこと
 事務所で暴れ(本人は否定してるが)警察を呼ばれてしまったボビー。でも、本日の記者会見では一転して、乱闘(?)相手のムルアカが「アフリカではよくあること」と繰り返し、義兄弟??宣言までする仲良しぶりをアピール。そしてなぜかボビーは、涙。

 遠い異国の日本へ稼ぎに来て、いろいろ納得のいかないこと、辛いこと、バカバカしいことを沢山経験してきたろう。悔しい思いもどれだけしたろう。
 けれど今回の騒動で、双方とも日本で仕事がしにくくなってはお互い不利だ。
 「日本語の理解が不充分だったということにして、今回の騒ぎを収拾しよう」ということで手を打ったんだろう。ムルアカはオトナだし、政治家秘書だけあってそのあたりの頭の回転や人心掌握術はボビーより心得ているはず。
 ボビーの、あれは悔し涙だな、きっと。

 がんばれボビー。いいぞムルアカ。
 日本で働く善良な外国人の皆さんが、より心地よく過ごせるように、がんばれ、がんばれ。
 日本人も、負けずにがんばれ。皆にとって居心地の良い国にするために。

幸せについて

2006年01月24日 | 心や命のこと
 「よいお年を」 に寄せられたsayaさんのコメントに対し、もっと丁寧にお答えする必要があるのではないかと、ずっと心に引っかかっていました。
 「公開した記事をどう受け取るかは読み手の自由なんだから、そのままでいいじゃないか」とも思ったのですが、こんなに何日も引きずるということは、私にとってもこの話題は何か大切なことなんだろうな、と思い直して、今日は、後日談も含めて、もう一度お話ししたいと思います。少し長くなりますが、ご興味のある方だけお付き合いください。

 まず、あのエントリーで私が言いたかった主旨ですが、「私は幸せ、なのに彼女は独身のまま死んじゃって可哀想」ということではありませんでした。

 若くして世を去ることは、本当に痛ましいことです。本田美奈子なんかもそうですが、どんなにか、もっと生きたかったろう、どんなにか、大切な人々、とりわけ自分を慈しんでくれた親を残して先に逝かねばならぬことを嘆いたろう・・さらに言えば、おそらくは「なぜ私だけが」という苦しみも、「もう楽にしてくれ」と叫ぶような苦しみも、あったことだろうと思わずにはいられません。

 そんなことはない、亡くなった人は精一杯自分の生を全うして満足していたんだと、認めてあげたい気持ちは分かります。でも本当のところ、その方がどんな思いを抱いて世を去ったかなんて、実は当人にしか分からないことじゃないでしょうか。「認めてあげなきゃ、故人が可哀想すぎる」というのは、もしかしたら生者の奢った同情かもしれません。

 人の幸せは、その当人にしかわからない。人生の充足は、他者には測れない。

 残された者にとってできることは、もう訊く事のできない当人の想いを想像すること、そこからうかがい知れる故人の希望をただ受け入れることだけです。
 その手がかりは、時間の中で積み重ねてきた関係や、思い出や、ゆかりの品々や言葉にちりばめられています。そこに「故人の満足」を見い出すことができれば、残された者にとっては本当に救いです。それらを拾い集め、多少の願望や愛慕も込めて、「良い人生だったね」とはなむけの言葉を、もう届かない耳にささやく。残された者が去りゆく人に対してできる、それが唯一の、そして最大の作業です。

 でも、あのエントリーを書いた時点で私には、友人に手向けるはなむけの言葉が何も無かった。突然の知らせで、友人の想いを推しはかりsayaさんのように「短いけれど充実していたね」と言ってあげる材料が、手近に何もみつからなかったのです。何年も季節の便りをやりとりしながら、近況は何も知らなかった。

 それって、友人として失格ではないか。

 私はあの時点で、友人を二重に・・肉体としてだけでなく、友人という関係までも喪ったのかもしれないと、衝撃を受けていたのです。

 でも、いまさら時間は巻き戻せない。せめて、せめて、何か幸せのかけらをはなむけに贈れないだろうか・・。そう考えるのは、遺された者の情として当然ではないでしょうか?棺に花を入れるように、故人の好物を遺影の前に供えるように。何か、何か無いかしら。

 そして、「家族に対する献身という幸せ」ならば。中学時代の彼女の性格から察するに、その「幸せ」ならきっと見い出すことはできたんじゃないだろうか。確信に近い願望を込めて、あのエントリーを書きました。

 私は家族から「家族に対する献身という女の幸せ」を充分に教わらずに育ちました。家族からの献身に対しては常に、感謝や成功(「いいお子さんですねー」と世間様から親がうらやましがられること含む)といった《見返り》を求められ、将来の恩返しを期待されて育ち、おかげで「期待には応えなければならない」という脅迫的な感情がこの歳になっても未だに抜けません。
 だから、あのエントリーにも書いたとおり、ダーリンに出会う前までは「自分のことは自分ですれば」的な女だったわけで、それが「自立した大人どうしの関係だ」と賞賛されていた世代でもあり、「見返りのない献身は、損」と脳裏に刷り込まれておりました。
 そうでない幸せを、ダーリンと暮らすことでようやく学ぶことができた。
 でもそれって、ふつうの家族に育った女性にとってはきっとあたりまえの事。ことさら学ぶような事でも、「幸せだぁ」と嬉しがる事でもないのかもしれません。ゆえに、そのあたりの「自分の境遇の説明」が足りなければ、『「私のように幸せだったかしら」と誇っている』と読まれても仕方ないかなとは思います。

 あのエントリーは友人の人生を評するのが目的ではなく、私自身の人生についての考え方・・生きるうえでの《心構え》というか。常に予測できない人生において、他者が私の人生をどう評しようとも、常に死を対置しつつ心に真実を離さないように生きよう、という決意表明みたいなつもりでした。
 そうすれば、たとえ明日突然に死が訪れても、大切な人たちに「私は満足だった」という言葉を残すことだけはできる。その言葉を全員が私の期待通りに受け取ってはくれないかもしれないが(特に両親なんかはかなり期待薄ではあるが)ともかく「多代里は不幸せだった、可哀想な人生だった」と嘆き苦しませ続けることだけは無いだろうと。そのためにせっせとブログにノロケ話を書いている、という側面があります。

 でも、そういうオノレの自己満足的決意表明など、読むだけ不快だから書くな、と言われてはねぇ・・。
 公開日記とかブログっちゅーのは路上ライブみたいなもので、気が向いた人だけ立ち止まって聞いてくれれば良いし、そうでない人は素通りしていくもん、と思っていましたが、そういうモノではないのかしら。どうも私は「引っ込め、へたくそ!」と野次られることが多いような気がする・・気のせいでしょうか。
 多分、何か野次りたくなるような表現というか、芳香を放っているのだろうなぁと自分でも思います。ひっかかるっちゅーかね。路上でやるには不適切な選曲っちゅーかね。確かに私もいろんなブログやサイトを覗いて回ると、ちょっかい出したくなる文面て有るものなぁ・・。
 ・・まぁ、「へたくそー」と野次られても気にせず歌い続けていれば、いつか誰かの心に届く、それが路上ライブの醍醐味であるわけですが・・その話は、また後日。

 後日といえば、その後の話。私は友人のお別れの会に参列しました。

 会場に着くと、少し時間が早かったせいもあり、他に参列予定の地元の友人たちはまだ誰も来ていませんでした。従って、周りは全く見知らぬ顔ばかり。気後れしまくりで受付に向かいました。友人のご遺族の顔も知らないので、まずはどなたがご親族か尋ねて、参列者の中からさがしだしてご挨拶をして、私が彼女とどんな関係だったかを説明することから始めなきゃ・・などと思いながら、受付に居る方にお悔やみの言葉を述べ、香典を渡し、芳名帳に住所と名前を書きました。
 すると、文字を見てその方が目を丸くしたのです。
 「**(←私の本名)さんって・・あの**ちゃん?A子(亡き友人)が良く言っていた、あの**ちゃん?」
 そしてすぐに喪主である友人のご両親に「**ちゃんが来てくれましたよ」と知らせて下さり、友人にお顔のそっくりな年老いたご夫婦が出てきて、温かく迎えて下さいました。
 「ああ、A子がよく話していましたよ。あなたが、**ちゃんですか。そうですか、そうですか・・」

 その瞬間、私とご遺族の真ん中の空間に、確かに彼女が、居た。肉体はもう無かったけれど、すぐそばに佇んで、笑った気配を感じた。

 私と、この見知らぬ老夫婦を対面させているのは、彼女をおいて他にない。この方達は、もし彼女がいなければ、私がこうして言葉を交わすことはおそらく一生無かっただろう相手だ。
 私たち個々に固有の時間と空間を《今ここ》という場で結びつけたのは、今はもうこの世に居ない人の、力。

 人というものは、個人で、個別の肉体としてだけ生きているんじゃない。本当にそう感じた。人と人、第三者と第三者の関わりの中からも、リアルに立ち上がってくる存在なんだ。
 そういう意味では、彼女は死んでいない。私の思い出の中という主観だけでなく、他者との関わりという何も無い空間の真ん中に、彼女は存在し続ける、彼女を想い語り合う人間がいる限り。

 友人失格などと、独りで衝撃を受けていた自分は、何と浅はかだったろう。彼女は、私との友情をこんなに大切に思い、ご家族とも分け合ってくれていたのに。

 「A子は、**ちゃんには病気のことを知らせてなかったんですね。じゃあ、元気だった頃のA子の姿しか想像できないでしょう」とご両親は言った。長い闘病の日々の様子や、思い出のあれこれを、問わず語りに教えて下さり、私がはなむけにしたいととっさに願った、「家族への献身という幸せ」の玉石が、間違いなく彼女の胸に抱かれていたと知ることができ、本当に安堵しました。

 そして、ご両親は最後にこう言われた。
「A子のことを忘れないで下さいね。覚えていてくださいね」

 それを聞いて、ふと、分かった気がした。
 彼女はきっと、私には、元気な頃の姿だけを覚えていて欲しかったのかもしれない。病院にお見舞いに行った友人も言っていたけれど、病み衰えた姿を見せたくないという気持ちは、同じ女として良く分かる。長い闘病の合間の便りにも私に全く知らせてくれなかったのは、友情の度合い云々の話ではなく、そういう友人としての役割を私に期待していたのかもしれない、と。
 その気持ち、分かるよ。ひとりくらい、そういう友人がいてもいいよね・・

 元気で、将来はきっと肝っ玉母ちゃんになりそうな、でもどこかハニカミにゆれる、向日葵よりは黄色のガーベラみたいな少女だった、彼女。

 それが故人の希望ならば、それを受け入れるのが、私にできる友人として唯一の、最後の、精一杯のことだ。

 忘れません、とご両親に約束して、会場を後にした。

 忘れないよ。いつまでも。


本当は泣きたいのに

2006年01月13日 | 心や命のこと
 この部屋の契約更新通知が来た。私と暮らすためにダーリンが引っ越して、もう丸2年が経過したことになる。

 先日、二人で新年の挨拶に行ったら、ダーリンは関係者から面と向かってこう言われた。
 「十九ハタチの若者じゃあるまいし、その歳で1年も2年も同棲だなんてふざけてる。お前にはガッカリだ」
 そして、ほとんど面識の無い私に対しても、その人は言った。
 「きちんとせずに一緒に暮らすなんて、常識無いと思えて感じ悪いね。貴女、彼とは遊びですか」

 もっともな言い分だ、と思った。

 当然のことだけれどダーリンは、私の愛しいひとであるずっと以前から、ダーリンにつながる親戚縁者にとっての《大事な男子》の一人(しかも、わりに出世株の方らしい)。
 一族にはご高齢の方もいるらしく、ダーリンの吉報は今か今かと待たれている。
 そういう方たちにとって、私という存在は、どう見えるだろう。私個人だけでなく、私につながる人たちを含めて。

 私は、両親がいくら機能不全の狸親だからと言って、彼らを《無かったこと》にすることは出来ない。彼らが、他者の心を知ろうとせず、嘘をつきまくって、自己保身に汲々として、ズルベタに子を頼り、求め、すがってくるばかりだとしても、その手を完全にふりほどくなんて出来ない。いずれ介護が必要になったら、子の義務として、私は実家に戻る事になるだろう。

 ダーリンと別れて。

 だからせめて今このひとときの幸せを、こころゆくまで味わおうと思う。ずうっと、後々までも、心の中で反芻してはふふっと微笑むことができるような、悔いの残らない時間にするための努力を、毎日全力で続ける。

 でも、それはあくまで《私の側の都合》だ。
 そんなかたちは、ダーリン家にとっては迷惑にちがいない。年頭の、その人の言葉でハッキリ思い知った。
 私は甘えている。ダーリンにも、ダーリンにつながる方たちにも。
 私のせいで・・私につながる人々のせいで、ダーリンが誤解され、評価が下がる、そんなことは私の本意ではない。
 「だからさ、別れるという選択肢もアリだよ」と、私はダーリンに言った。ダーリンの判断に従います、と。

 どうしてそーゆー《自分にとって不利なこと》を口に出して言っちゃうかなーと、心の中で自分で自分にツッコミ入れながら。

 バカな女だ、私は。
  

謹賀新年

2006年01月06日 | 日々のこと
 明けましておめでとうございます。
 ここへお立ち寄り頂いている全ての皆さまにとって、今年がより良き一年となりますようお祈り申し上げます。

 お正月休みは、帰省先と東京、合わせて5つの神社と1つのお寺にお参りし、あとはテレビと読書三昧で過ごしました。

 1つのお寺とは、高尾山薬王院。
 京王線の宣伝チラシに「深山幽谷の趣きをもつ高尾山。その入り口まで電車で行ける。駅前に自然が広がってるなんて《どこでもドア》みたいだ」という一文があって、「うんうん、そうそう!」と嬉しくなり、新年早々いそいそとトレッキングシューズを出してしまいました。ケーブルカーやリフトで楽々参拝も可能なんですけど、年の初めだしやっぱ登らなきゃね、みたいな。

 初春の冷涼な空気の中、一号路を登る。15分もすると体が温まってきて、汗が滲んでくる。やっぱり東京は気候が温暖だなぁと思う。30分くらいで登りきり、あとは平坦な参道を、茶店などを覗きながらそぞろ歩く。三が日だけあって、わりに人が多いが、混雑というほどでもなく、程よい賑わい。何となくお目出度い気配に満ちていて、嬉しくなる。

 本当は参拝だけして帰るつもりだったのに、「ここまで来たんだから・・」と頂上まで登ってしまい、「せっかくトレッキングシューズを履いてきたんだから」と下りは琵琶滝経由の6号路で下りた。ちょっとした《初遠足》になりました。

 こういう気軽さが、高尾山の良いところ。

 しかも、6号路では沢山の鳥たちの声に行き会えた。誰だったかなぁ・・エナガちゃんは確実に居て、あとはヒタキの仲間?他にももう1種類はいたと思う。定番のカラ類ちゃんも居たみたいだし。賑やかで楽しい。またちょくちょく来よう。
 
 こんなに都会に近くて豊かな自然が残っているのは、信仰の山だったから。
 そこにトンネルを通そうっていう。いかんですねぇ。何とかならないのかしら。