六畳の神殿

私の神さまは様々な姿をしています。他者の善意、自分の良心、自然、文化、季節、社会・・それらへの祈りの記。

よいお年を

2005年12月28日 | 心や命のこと
 私は、もともと朝ごはんをあまり食べません。濃い目のミルクティ砂糖なし、がメインディッシュで、それにメープルシロップかはちみつをつけたトーストを半分かじる程度。
(だから貧血なんだよ!ってツッコまれそう・・
 1分でも長く寝ていたい朝。1分でも早く出かけたい朝。これなら数分もあれば・・何なら出かける支度をしながらでも、朝食を済ませられるもんね。

 だから、ダーリンと暮らすようになって、不慣れのため一番疲れたのが実は『毎朝ちゃんとした朝ごはんを作ること』だった。

 今朝、ふと気づいた。
 自分は食べない、相手のためだけの朝食。それを作ることにすっかり慣れて、苦もなくこなしている自分。「自分の事は自分でやれば?」的な不満や疑問を、感じていない自分。

 それは私がダーリンを愛しているからだと思う。男性として、というばかりでなく、一緒に暮らす家族として、の意味で。

 それって、あたりまえかもしれないけど、何て幸せなことだろう・・と、寝起きのぼんやりした頭で考えた。

 数日前、中学時代の友人の訃報が届いた。ガンだった。
 あまりに突然の知らせで、まだ実感が湧かない。

 彼女とは多分15年以上も会ってないし、年賀状や季節のカードを送りあう程度だったので、近況は何も知らない。
 別の高校に進んで以降、彼女はどんな人生を歩んでいたんだろう。結婚はしてなかったと思うが、愛しい人はいたんだろうか。今朝の私のような「愛しい家族に、なにも期待せず朝食を作れる幸せ」は、知っていただろうか。充分味わえた人生だったろうか。
 同じ女として、それが一番気になる。

 この一年。
 事件や事故や災害で命を落とした人のニュースに触れるたび、「まさかこんなことで死ぬとは、当の本人は想像していなかっただろうな・・」と思う。そのたび、人ごとではないと思う。
 人生は予測がつかない。いつ何があるかわからない。

 その時、無念だけれどとっさに胸に抱いていける、たとえば今朝のような、ささやかで他人にとっては取るに足らない、砂粒みたいな幸せの実感が、あるのと無いのとでは、人生だいぶ違うんじゃないかなと思う。

 誰にも気づかれない、そんな幸せの玉石を、来年も一粒一粒、つみあげていこうと思う。人生すべてかけても、塚どころか盛り土にすらならないかもしれないけれど。地上を離れるとき振り返ったら、そのきらめきはきっと見えると思うから。

 来年も良い年になりますように・・


映画「男たちの大和」

2005年12月26日 | 映画
 映画「男たちの大和」を観ました。

 これから観る予定の方や、長くクドクドしい感想を知りたくない方は、どうぞ読まないで下さいね~。


   
   
   


 さて。

 私は映画を観る時、前評判も含め、なるべく情報を入れたくないタイプです。
 でもこの映画に関しては正直、「事前情報を入れておいて良かったぁ」と思いました。
 情報元は、ダーリンがあらかじめチェックしていたネットやメルマガ類。それらから推して、あまり期待せずに行ったので、まぁまぁ不快にならずに映画館を出てくることはできました。
 しかし、まだエンドロールが出ない前から「私だったらあの場面はこう撮るなぁ、あのエピソードは削ってこっちを膨らまして・・」とアレコレ考えちゃう映画って・・ ある意味、インパクトのある作品・・だったのかな? 全く取るに足らない作品だったら、脱力感と金返せ的腹立ちしか残らないものね。
 「私(←注:どシロウト)に脚本か監督させたら、もちっとはマシな作品に出来る!(←注2:原作読んだことないけど)」って感想を抱かせる、ツッコミどころ満載の《惜しいっ!》映画でした。
 
 まずは誉めておきましょう。
 見所は、やっぱクライマックスの戦闘シーン。体験記などを読んで想像したとおりの光景。実際の大和でも、きっとこうだったんだろうなぁと胸が痛みます。日本映画ではあまりないかな?と思う、欧米の戦争物みたいな迫力ある映像でした。
 よって私にはだいぶキツかったです~。スプラッタ苦手の方は、薄目で観ることおススメ。

 さて、批判ですが。
 事前情報では「相変わらずの自虐史観」みたいな評でしたが。私には、もっと始末におえない、『「戦争=天災」史観』とでも名付けたいような、敵不在・主体性皆無の設定に思えました。

 命をかけているのに・・故郷が焼かれ大切な人が次々に死んでいくのに、どの登場人物からも《敵への憎しみ》と《郷土愛》はリアリティをもって語られない。登場人物たちは、ただただ「近親者」か「自分」の「死」への嫌悪感・忌避感と、「身近な権力者(年長者)の愚かさ」への反感、そして自らの在り方への迷いをリフレインするばかり。
 《戦争とは、死とは、小さな自分がわけもわからず、避けようもなく巻き込まれてしまう悲劇》って捉え方。
 この映画の受け入れにくさは、その一点に集約されると思う。

 当時、大衆レベルまで浸透していた「鬼畜米英」という感覚・・白人の残虐性への恐怖感と植民地支配への危機感。それと「一億火の玉」的な、戦争への主体的コミットメント。それに対する肯定・否定の意思表明を、この映画は避けているみたいだ。自虐史観ならそれを「戦争遂行のための煽り」と扱ってもいいけど(良くないけど )とにかく現実に存在したその背景を充分に盛りこまないのでは、なぜ男たちが、何のために大和で特攻出撃したのか、そもそも分かんないじゃん。

 たしかに、現実にはそういう半端な思いのまま流されて死に向きあうしかなかった男たちも多かったろう。でも、当時のひとりひとりの中には、本当に、自分という個人の生と死しかなかったか? 生と死は「自分と家族・友人・近親者のみのイベント」だったか?そういう捉え方って「当時の社会に生きていた」男たちを、あまりに過小評価してないか?
 こういう描き方では、大和はとても浮かばれまい(実際、沈んでるけど

 終戦時をハッキリ覚えているくらいの年齢で、しかもせいぜい十代の前半くらいだった、いわゆる黒塗り世代。彼らは主体的に社会と関われない年頃に戦時下の暗さを肌で呼吸し、敗戦という価値観の大転換を体験した。その無力感とトラウマ、価値の世代断絶の彷徨が作らせた映画なのかもしれない。

 根底にこういう《戦争観》を抱いていたら、どこぞの国の「特定の戦争指導者だけが悪くて、無垢な皆さん大衆には罪は無かったんですよー、だからA級戦犯合祀の靖国に首相が参拝するのはとんでもないことですよー、自国の指導者たちを疑い、私たちを信じて受け入れなさーい」的な言説にまんまと乗って、友好至上・内政干渉許容主義になってしまうかもなぁ。
 ・・と思ったら、スポンサーは朝日新聞社なんですってね。あらまぁ。

 誤解をおそれずに言えば。こういう《戦争観》は平和絶対主義と死のタブー視につながり、社会からの乖離と主体性の放棄から生きる気力そのものまで萎えさせてしまうのではないかしら。ヒトの本能に組み込まれた、社会性動物ゆえの喜び中枢は刺激されないまま、ぼんやりと漂う個としての孤立のなかで溺死するような絶望感。いま、男の子のひきこもりやニートが多い背景には、こういう黒塗り世代のトラウマが影を落としている気がしてならない。

 だから、ラスト近くの仲代達矢のキメ台詞 「あんたのおかげで、わかった」 が何を指して、何をどう理解したのか、アタマ悪い私には全く分かりませんでした・・
 たぶん、ものすごく個人的な理解なんだろうけど、それに共鳴し感動するには、仲代演じる主人公の主観(特に終戦後の)が描かれなさすぎ。そしてそれは「大和」というタイトルからはだいぶ離れた内容だろうから、この映画、要は「盛り込みすぎ」ってことですかね。

 ダーリンは「鈴木京香がかわいそう」ってしきりに言っていた。ホントそのとおりで、彼女のシーンは無駄が多く、彼女の良さや演技力も全く生かされていないし、この映画のマズさを象徴するような台詞と場面のオンパレード。暗い顔で、他に誰も乗っていない観光バス(ロケバス??)で移動した次のカットで、なぜかタクシーで漁協に乗りつける。緯度と経度で乗船交渉する見慣れない美女がいたら、海の男たちの中にはふつう「まずはワケを聞かせろや」ってやさしく言ってあげる親切な人がいるもんだよねぇ。投薬や心臓マッサージが上手な理由は「私、仕事は看護婦なんです」とかでも良かったと思われ・・等など。

 各シーンも細切れで、感情がうまくつながらない。
 一番涙を誘われたのが、高畑敦子の「ぼたもち」の場面。長男の遺品をそそくさと懐に押し込み、気丈に笑顔をつくろって、次男にぼたもちを食べさせようとする。これでもう母の哀しみは充分だぁ、もうヤメテ~涙ボロボロ~ ・・なのに、次に戸外で抱き合って泣く場面を付け加えるから、涙が引っ込んでしまった。
 甲板での「死二方 用意」の場面も良かったのに、その後に船室内での殴りあいと長島一茂の意味づけ台詞の場面を挿入するって、感情の時系列的にヘンじゃないか?(あの意味づけ内容で全員が納得できるのか?は別としても)
 また、最後の厨房で、あんなにいっぱい《にぎりめし》が並んで、配置についた男たちが食べるシーンもあるのに、すごくさらっと流してて。「ここで泣きたいのになぁ・・」と残念に思っちゃった(笑) だってアータ、私が「千と千尋の神隠し」でも「壬生義士伝」でも、一番泣いた小道具は《白いにぎりめし》ですよ! 日本人の泣きのポイントとして、これはハズせないでしょう!って思うのに。あー勿体無い。

 主要な男優については・・感想はパス。で、だいたい察して下さーい。

 以上です。ここまで読んでくださった方、お付き合いありがとうございました

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メリークリスマス

2005年12月24日 | 日々のこと
 イヴです。
 ひとりでも多くの人が、ささやかで小さくても灯のように輝く幸せの瞬間(とき)を手にしてくれたらいいなと祈っています。

 ちなみに我が家はケーキは忘れました(笑)でも、お昼は手作りピザ(バジル風味アンチョビ)、夜は半日以上煮込んだおでんと、好物でまとめたので非常に満腹で(笑)幸せです。

 幸せです。
 怒声も銃声も命の危機も無く、ケンカも無く、思いの行き違いはあっても思いそのものへの疑いは無く、そしてお腹はいっぱいで、暖房が効いている。
 いろんな不満や不足や苦労や将来への不安はあっても、このひとときを幸せと呼ばなかったら罰が当たるです。ほんとに、幸せです。

 ありがとうございます、神さま。

 それから、何のかんの言っても、こうして私が愛しい人と一緒に過ごすことができるのは、両親が元気で病気をせずにいてくれるからです。どっちかが倒れたら、こうしちゃいられないもの。ありがとう、お父さん、お母さん。感謝感謝です。(当のふたりは、そういう理由で感謝されるのは本意ではないとは思いますが・・

 メリークリスマス。

 

さんちゃん

2005年12月22日 | 日々のこと
 お昼を家で食べる時は、小堺一機の「ごきげんよう」を観ることが多い。

 昨日のゲストの一人は、明石家さんまだった。
 テーマトークがひと通り終わって、話の流れが占いになりかけた時、さんまが「はぁ~ん」という気のない相づち。小堺がすかさず「さんまさんは、興味ない事に対しては本当に態度ハッキリしてますよね」とツッコミ。それを受けてさんまは「ほんま占いなんて興味ないねん」と答え、ぽつりと名言を。

 「だって、苦労の無い人生なんてないんやで」

 ・・少しでも自分に有利に、楽な方法で・・と幸せをむさぼり、つい占いに目を走らせてしまう自分の甘さや愚かさを指摘された気がして、ドキッとした。

 私は別にさんまちゃんのファンではないが、どんなジャンルでもいわゆる《一流の》人ってのは、やっぱチガウんだなー、と感心した。

 

ルールはルール

2005年12月21日 | 日々のこと
 フィギュアスケートのグランプリファイナルで、女子シングルの浅田真央が優勝しました。
 まぁ何と愛らしいというか溌溂としたういういしさに溢れているというか、お見事な競技っぷりで、観るたびにオバサン目を細めてしまうですよ。

 でも、彼女は年齢制限でトリノ五輪の出場資格がない。

 それについて、とある朝のニュース番組で、コメンテーターがこんな主旨の事を言った。
 「世界一になった選手が出ない五輪で金をとっても、他の選手たちは気持ち良くないでしょう。だから真央ちゃんが出られるよう、日本は国際社会の世論にはたらきかけるべきだ」

 一見、もっともらしく聞こえるが、あまりにも浅薄なコメント。

 年齢制限も含め、ルールはルール。どんな競技でも、それを前に涙をのむアスリートは数知れない。その事を、このコメンテーターは知らないんだろうか。
 また、今回真央ちゃんだけを特別扱いするとしたら、その方が今後の彼女の将来にとって厳しいことになるかもしれないとは考えないんだろうか。

 さらにこれは「真央ちゃんの笑顔をトリノで見たい」とか「日本人にメダルを」とかいうだけじゃなく、フィギュアスケートという競技全体に関わる問題だという認識も、このコメンテーターの中には無いんだろう。
 「氷上の美を競う」とは言っても、フィギュアは美しさだけじゃダメで、難易度の高いジャンプやスピンのできる選手が上位になり、「あーやっぱりこれは芸術じゃなくスポーツ競技なのね」と思わされることがある。たとえば私はカタリーナ・ビットみたいな風格のある女子選手の演技が好きで、かつてのオリンピックでも、ミシェル・クワンの方に金をあげたかったのに、タラ・リピンスキーが金になって、その後この子はあっさりプロに転向しちゃってなんだかなー・・みたいなことがあった。
 フィギュアスケートという競技が、身の軽い小さい子たちが跳んだりはねたりする軽業サーカスみたいになってしまうのは淋しい気がするし、多分、フィギュアスケート界もそれは望んでいない。だからこその年齢制限なんだと思う。

 競技そのものの目指す方向性とか根本的なありように関わる規定を、たかが1選手のために崩すわけにはいかない。日本スケート連盟のその判断は、正しいと思う。

 だいいち、当の真央ちゃん自身が「次のバンクーバーがある」って言っているのに。ぺらぺらと理屈をつけてゴリ押ししたがる大人たち、浅はかで恥ずかしいゾ!15歳の方がよっぽどオトナだゾ!

 まぁ~たしかに、挫折も怪我も知らない今の彼女を、五輪の銀盤で見たいという気持ちは私にもありますけどね~。バンクーバーまで、無事に美しく育ってと祈るしかないですね。

第九 2005

2005年12月18日 | 音楽
 12月も後半。
 今週末から来週にかけて、各地で歳末の風物詩「ベートーベンの交響曲 第九番」の演奏会が開かれることでしょう。

 私が参加している第九も、まもなく本番を迎えます。

 第九を歌うのは、もう4、5回目になるかな。
 何度歌っても、良い曲です。
 そして、ちょっと練習すれば誰でも歌える曲なのに、難曲です 楽しくて、挑戦しがいがあって、そしていつもカンペキに歌えないのでちょっと悔しい、だからまたつい参加してしまう・・第九は、そんな曲。

 以下は譜面をご用意のうえ、読んでネ(フツー持ってないって)表記のウムラウトは、入力の仕方がわからないので省略(いいのか・・?)

 私はメロディラインとオブリガートしか歌えない《アホのソプラノ》の典型みたいな人間です。だからメゾやアルトの人はすごいなぁといつも思っているのですが、この「第九のアルト」は特に、歌える人ってスゴイと思う。尊敬する。私もいつか第九のアルトを歌ってみたいと、ヒソカな野望をもっています。
 一番好きなのは小節番号811の wo dein で、ここをアルトに美しく歌われると鳥肌モノというか。ここが美しくキマルと、ソプラノはアホなので(笑)もうその気になっちゃって、次の sanfter の装飾音をキモチ良く歌えるわけです。
 他に好きなのは、男声なら小節番号415からの4小節。かっこいい。普段は地味な印象のバスの、魅せどころ。
 私が苦手なのは、742の Such 。いつも、つい狙いが低くなってしまって、うまく入れません。今年もやっぱり、コソっとズルして次の ihn から入ってます、ゴメンナサイ(苦笑)・・だから「解決」和音の745のBruderは大好きで、つい大声で歌ってしまう
 802や823の上昇音も《アホのソプラノ》全開できて大好きだぁぁっ
 そしてナゼか毎回必ず、866の Sternenzelt で舌を噛んでしまう私です・・
 小節番号が890を過ぎるあたりからは、もう酸欠なのか過呼吸なのか、目の前チカチカ、schoner な Gotter funken が本当に見える気がします(爆笑) でも舞台上で倒れるのはみっともないので(笑)そんなことにならないよう、がんばりすぎずに自重しつつ楽しもうと思います。

 全国の《第九仲間》の皆さん、頑張りましょう 
 それぞれに、思い出深いステキな演奏会になりますように・・。

結婚式

2005年12月15日 | 日々のこと
 いとこの結婚式・披露宴に出席しました。

 新婦である従妹は私より10歳以上も年下なので、オンナノコらしい憧れをいっぱいに詰め込んだ、ほほえましくもこそばゆい、若さにあふれた華燭の典でした。

 お式はチャペル・ウェディング。しょっちゅう行き来し、赤ちゃんの頃から彼女を知っているわたし的には「アンタいつクリスチャンに?」的ツッコミをしたい気持ちも湧かないではなかったが、今どき結婚式にそんな事を考える私の方がアタマ古いんだわねと反省し、真面目にお式に臨む。神父さん(牧師さん?)の一神教的お説教にも多少違和感は覚えるものの、そんなに堅く深く考える必要はないじゃないの、説話に込められた想いやメッセージこそが大切よ、と心からふたりの幸多き未来を祈り頭をたれる。

 指輪の交換や誓いのキスが終わり、これでおしまいかな?と思ったら、神父さんがふたりを列席者の方に向かせた。そして高らかに、こう宣言した。

 「いま、このふたりは、神に認められて夫婦となりました。神が結びつけたふたりを、人が引き離してはいけません」

 おー。
 なんだかわからないけど、すごい説得力。この一言に、感動してしまった。そうだ、その通りだよな、と思った。

 全く違う人格の、1人と1人が出会い、新しい家族をつくる。
 そのことを単なる《人の行為》と考えてもいいけれど。

 望む想いが一致する偶然、その奇跡のような嬉しさを、神のみわざと呼ぶ・・そこに生まれる感動を、素直に味わいたいと思った。

日本中が怒っている

2005年12月08日 | 文化・社会
 どんな犯罪も許せないけれど、今、とりわけ憤りを感じるのが、栃木の有希ちゃん殺害犯。新しい情報が報道されるたび、あまりの非道さに体がふるえそうになる。
 犯人よ、有希ちゃんに縁もゆかりも無い私だって、子供をもっていない私だって、お前を許せないと思うぞ。きっと日本中の人がそう思っているぞ。早く捕まって罪を償いなさい、だ。

 それから、耐震強度データ偽造関連。この展開は、もう、個別の誰が誰より悪いかとか、ドコが一番の黒幕かとかいうレベルじゃない。職業倫理、社会倫理の問題ですよ。
 ・・つか、公的資金を入れるってことは、私たちの血税にまで影響が及ぶってことでぇ・・ゆ、許せん~。地震大国で、オメーラ何を考えとるんじゃ~!

 そして、帰らぬ家族を待つ正月をまた、迎えなければならない拉致被害者家族の方たち。やり場の無い怒りが、早く、胸を暖めるぬくもりに変わりますように・・
 

名前バトン

2005年12月07日 | バトン
 「名前バトン」だそうでーす。
blueさんのページにてご指名がありましたので・・。

1.HNの由来はなんですか?
 役者の時に使っていたステージネームをそのまま使っています。文字は当て字です。自分で考えました。

2.差し支えなければ本名をお願いします。
 カンベンして下さい(笑)・・しかし、一部地域では「風野多代里」もかなり人物特定が可能なので、匿名性は低いですね~。この名前で悪い事はできまへん。

3.本名の由来はなんですか?
 やっぱ女の子なので、「美しく」の願いがメイン。あと、当時は「子」のつかない名前が新しい感じだったらしいです。

 ちなみに私の本名、フルネーム全画数はあまり良くないそうです。名付けた当時、母は「女の子はいずれ嫁に行き苗字が変わるのだから、姓と合計した全画数は悪くても、名だけの画数が良ければいいのだ」という理屈で、この名にしたとか(いいかげんな・・)
 だから私は子供の頃からずっと、将来どんな姓に変われるのかと楽しみにしており、「愛しい人の姓になって幸せになるんだ~」と、ちょっとズレた結婚願望を抱いていました。
 それなのに、今になって「姓を残すため、婿に入ってくれる人じゃなきゃ結婚は許さん!」だなんて~。いろんな意味で「そりゃないよ、かーちゃん!

4.過去に使っていたHNを教えてください。
 別のHNは使ったことがありません。

5.過去につけられたあだなを教えてください。
 中学生の時。歩き方がぱたぱたしていたので、「ペンギン」。
 
6.今までこの名前可愛いと思った名前はありますか?
 「可愛い」という感情は、人物そのものに付随するものなので、名前単独ではあまり感じないです。名前ってある程度「記号」というか「お約束」って気がするし・・「名は体を表」さない例も・・ウーン・・
 自分の子につけようとは思わないけど、なぜか理由もなく好きな名前があります。「大輔(大介)」と「ようこ(文字問わず)」。前世か何かで縁のある名前なのかも・・なーんて。
 あっ、犬の名前なら「ゴン太」!これは可愛いと思う。

7.1番大切な恋人にはなんと呼ばれたいですか?
 他の友人や両親からと同じく、本名から2文字をとった「●●さん」か「●●ちゃん」と呼んでほしい。(でもダーリンはそう呼んでくれたことがない・・ちょっと淋しい・・

8.HNと本名どちらが好きですか?
 HN。

9.また生まれ変わってもその本名でいたいですか?
 いいえ。
 私の本名は複数の読み方ができ、男の子にも同名がいました。だから、クラス替えで新しい担任の先生になると必ず、名簿を見ながら「《さん》かな?《君》かな?」とか「読み方は☆★※で良いの?」と聞かれるのが、心苦しくて嫌でした。また、作文とか絵とかの公募で、男の子向けの賞品が送られてくるのも嫌でした。
 生まれ変わったら、平凡でいいから、スッと読めて字を見ただけで男女もわかる、呼ぶ人にご迷惑をかけない名前が良いです。

10.次にバトンを回す5人。
 自主受け取り歓迎。今まで、お読みになるだけでコメントやTBしたことのない方も、これを機会に名乗り出てみませんかー?