六畳の神殿

私の神さまは様々な姿をしています。他者の善意、自分の良心、自然、文化、季節、社会・・それらへの祈りの記。

道の上 4

2005年09月11日 | 文化・社会
 ずっとひっかかっている。「核兵器」のこと。

 《暴力》と《非暴力》の両輪で未来へ向かって走る《日本国》という名の車を、うまく御して《平和》という道の上から外さないようにするにはどうしたらいいのか。

 そのために、有権者の一人として、自分なりの考えはまとめておきたい。そういう視点で現状を見、国防について考えていくと、必ず核武装のことに行き当たってしまう。

 アレルギーと笑われても良い。私は、核兵器と通常兵器を、同列の延長線上に並べて考えることが、とてもできない。
 原爆資料館の、黒い人影の残った石。どんな凄惨な絵図よりも、私はアレを見た時の衝撃が忘れられない。
 一瞬にして何万人も殺傷するだけでなく、被害者である被爆者が更に差別と偏見にもさらされ、直接・間接(胎内)被曝の方はもちろん、戦後に被爆者がもうけたお子さんたちでさえ、60年もたった現在でも何か悪影響があるのではないかとおびえ続けなければならない・・放射能は高濃度で残留・拡散し、環境を汚染する・・そんな兵器が未だに、人類といういとしい生物に対して、使われる可能性があることを是認できない。

 今年の8月15日の新聞に、櫻井よし子さんと小野田寛郎さんの対談が載っていた。たしかその中で、櫻井さんが、原爆の碑の言葉 『安らかに眠ってください あやまちはくりかえしませぬから』 についてこういう趣旨のことを語っていた。

 「あやまちという言葉は良くないのではないか。日本人自身が、自分たちは原爆を落とされて当然なあやまちをおかした民族だという思いを、いつまでも引きずることになる」

 私は櫻井さんの大々ファンだが、この考え方には賛同できないと思った。

 日本語の文章は、主語や主体を省略して曖昧なままでも成立するから、ややこしいことになるのだが、ここでいう「あやまち」は、日本民族の事だけを指しているのだろうか?
 私はそうは受け取れない。当時の、この碑の言葉を刻んだ人も、そういう趣旨ではなかったのではないか。

 くり返しになるが、私は、原爆投下は人類とその歴史に対するアメリカの「あやまち」であり、核兵器そのものが、国籍を問わない科学者という人種(?)の「あやまち」であり、科学の暴走を抑制できない科学者以外の人々の「あやまち」であると思っている。
 また、日本人であろうがアメリカ人であろうが他の民族であろうが関係ない、外交の手段として、戦争という《暴力》を、他の手段より優先して選び、頼ってしまった、それが、そもそもの「あやまち」。
 碑の言葉は、そのことを指しているのだと思う。

 (つづきは、1クリック☆ して次回をお楽しみに・・)

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2 コメント

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2005-09-12 15:35:12
今の世の中、核抜きには考えられないですね・・・

http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20050912k0000e030055000c.html

”明白な”とはいえ、もし、イラクのときのように、判断を誤ったら・・・
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危機感 (風野)
2005-09-16 13:15:41
「先に」手を出すのって絶対得策じゃないと思うのに、そう書かざるを得ない状況になりつつあるのかしら・・(((;゜Д゜)))ガクガクブルブル
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