六畳の神殿

私の神さまは様々な姿をしています。他者の善意、自分の良心、自然、文化、季節、社会・・それらへの祈りの記。

宗旨変え♪

2015年08月28日 | 自然関連

これまで私は、「自分は別にオオカミ愛好者ではない。日本が好きで、日本の自然が好きで、大好きな日本社会の存続のためには健全な生態系が必要で、健全な生態系のためには頂点捕食者が不可欠で、日本の場合はそれがオオカミだからオオカミの復活を訴えている」というスタンスでした。

でもこの夏、考え方というか、自己認識が改まりました(笑)

やっぱあたしはオオカミ愛好者(Wolf-Lover)です。

オオカミの復活は、そもそもオオカミのためでなくてはいけない。オオカミが人間の都合の犠牲になってはいけない。オオカミ自身も幸せにならなくちゃいけない。オオカミも、人間社会も、自然も、すべてがウィンウィンでなくては。

そして最近の研究と世界の動向をチェックしてその点に確証が持てるようになってきたので、「日本の自然だ生態系だとごちゃこちゃ理屈をこねてるけど、要はただのオオカミ好きじゃねーか」という罵声に対して、これからは堂々とニッコリ笑って「ハイ♪ ただのオオカミ好きです!」と答えようと思いました。

なぜなら L. David Mech博士が日本を視察して太鼓判を押してくれたのですもの。

「オオカミは日本で暮らすことができるだろう。世界中の研究者に尋ねてみるといい、『日本にオオカミは棲めますか?』と。オオカミに詳しい研究者なら10人が10人ともYESと答えるだろう。それで決まりだ。入れなさい」

たぶん世界で一番オオカミのために世間と戦い、オオカミの目線で世界を見て語る博士が 、Just do it. と言った。

それは《オオカミの声》だ。

好きな相手が望んでいることを実現しようと努力する。それは愛の行為にほかならない、ですよね♪


野生動物管理(ワイルドライフ・マネジメント)とは

2015年08月22日 | 自然関連

Wildlife management is really about human management. 野生動物管理とは、動物にかかわる人間の在り方をどうこうする科学である。

 

今年7月下旬、札幌で「野生動物管理学術会議」という国際学会が開催されました。

「野生」動物を「管理」するという、そもそもの語義の矛盾。(人の管理下においたらそれは厳密な意味では野生ではないでしょう?) この部分はどんな共通認識のもとに、この学術会議は成立しているのか。その前提を了解しないまま参加しても、結局は議論の焦点をつかめないまま何も得るものなく終わるのではないか。そう思って、ぎりぎりまで参加をためらっていました。日本側主催者のメンツがアレでしたし。

でも実際参加してみたら、研究者の間では(日本の一部研究者の方々はともかく) 冒頭の認識が世界の趨勢であると分かったので、それが分かっただけでも参加してよかったです。得るものもあったし、こんななら、発表だってしてもよかったかも、と思いました。

 そこで実感した、日本と諸外国との違い。

 いろいろ思うことはあるのですが、一番感じたのが、科学者の「質」の違いでした。質、というのが当たっていなければ「姿勢」の違い、というのかな。

 諸外国の科学者は、純粋に科学的な視点でものを語ろうとし、社会的な要請と科学的事実との線引きを混同したりしない。

また、自分と対立する理論に対して、安易に妥協はしない。言うことは言う。でも相手へのリスペクトは保持し、かといって卑屈になったり下手に出て阿ったりしない。相手が学生だろうと素人だろうと軽んじたりはせず、でも手加減もなし。まるでスポーツや格闘技みたいな感覚。だから話していてとてもすがすがしいし、対立してもわだかまりがない。それどころか、同じことに情熱を傾けている相手として、論敵に対して敵愾心どころか親しみさえ覚えてしまう。

ところが、日本の研究者は、何かこう、あるんですよ、裏に。

ある人がぽつりと「こういう国際会議なら、何の気兼ねもなく発表ができる。でも、自分の調査地周辺でタウンミーティングなんかした場合の発表なら、こうはいかない。ものすごく慎重に、言葉も選ばないと」って。

科学者が、科学的な事実を自由に語ることが許されない。言葉を慎重に選ばなければ語らせてももらえない。それが日本の現実なんだなぁ、と。 

だから、社会的な文脈は脇に置いて純粋に科学的な議論をしようとするこちらに対し、あからさまに冷笑的な態度をとる研究者がいる。思うようにふるまえない自分の鬱屈をこちらにぶつけるかのように、上から目線で、頭ごなしに。

 ・・・でもそれって「科学」じゃないでしょ?「政治的かけひき」「行政手法」でしょ。

日本の科学者は、自分が何をやっているのかの自覚が、あまりになさすぎると思いました。


素敵なブログを見つけました

2015年06月15日 | 自然関連

オオカミシンポジウム


・・・ってか、こんな表情、私たちの前では見せてくれなかったじゃないのマークス!
・・良い通訳さんで、よっぽど楽しかったのね

「ドイツには熊がいなくて、ドイツ人は熊をとても恐れている。日本には熊はいるけどオオカミはいなくて、日本人はオオカミを恐れている。これはつまり、我々人間側の”知らないものは怖い”という心理でしかなく、人間も生態系の一部だということを忘れつつある私たちのエゴだ」マークス・バーテン

本日のお言葉

2015年03月27日 | 自然関連

「人の失敗に学びなさい。
あなたは、すべての失敗を経験できるほど長生きできないのだから。」
エレノア・ルーズベルト

先進事例を知り、自らを省みることが、よりよい未来への近道です。
2015年4月刊行。

「ウルフ・ウォーズ 」―オオカミはこうしてイエローストーンに復活したー

http://www.hakusuisha.co.jp/detail/index.php?pro_id=08429

おすすめ! ぜひ読んで下さい、本当に面白いですよ!


ぷちオオカミブーム♪

2014年05月10日 | 自然関連
 2014年こそが「始まりの年」だったと、言われる日がくるかもしれません。・・・なーんて
 5月上旬までに、オオカミに関する本が何と6冊新たに刊行されました。(正確には、児童文学を入れると7冊ですが)

 オオカミをめぐる世間の動向に、いったい何が起こっているの?
 
 1月:築地書館「狼が語る ネバークライウルフ」
 1月:白水社「オオカミが日本を救う!」
 2月:誠文堂新光社「オオカミの謎」
 4月:白水社「オオカミ 迫害から復権へ」
 4月:ナショナルジオグラフィック「オオカミたちの隠された生活」
 5月:雷鳥社「オオカミと森の教科書」

 帰省した地元の駅前の丸善・理工書のコーナーで、この6冊が全て店頭に並んでいるのを見ました



 

獺祭

2013年01月11日 | 自然関連
ニホンカワウソ 愛媛県が本格調査

 なぜ「獺祭」って単語があるのか考えてみましょう。日本酒の名前じゃなくてねww 
 語源は、中国の誰かが、書物を広げっぱなしにして知を渉猟する姿が、カワウソが魚を食べ散らかした様子に似ているからそれをカワウソの祭、ダッサイと言ったんです。

 もしカワウソ個体群が存続していたら、川辺や海辺に獺祭の跡があるはず。(だから、絶滅寸前で個体数が極少になっても、地元の人間はカワウソの痕跡から生息していることが分かり、密猟することが可能だったんですね。)

 獺祭が見られないということは…。

 こういう、対象となる動物の生態や行動特性も考えずに「どこかに生き残っているかも」と主張する自称専門家って、どうなんですかね。

 調査は良いと思います。地域の話題づくりにもなるのでお役所から公金を支出するのも問題ないと思います。

 問題だと思うのは、こういうテーマの話題性が無くなったあと、活動が先細りしてウヤムヤに消えていくこと。最後まで結論を出してきちんと終わるべきです。あるいはツチノコ探しみたいにきっぱり「地域おこしのイベント」としてしまうとか。
 中には「再導入のためにする絶滅宣言だ」とか言ってる人もいるけど、じゃあ貴方は今回の絶滅宣言までカワウソ絶滅回避のために何か活動をしていましたか?と問いたい。

 「どこかに生き残っているかも」とか「そっとしておいて」とかいう自然への浪漫、もっというなら都合のよい感情移入や幻想がかえって自然を破壊することを、日本人はそろそろきちんと自覚するべき。理科教育や環境教育も「絶滅種」とどう向き合うかをしっかり考えられるようになるべき。
 絶滅させてしまったという自らの過去の過ちと正面から向き合えない限り、今後もわが国の絶滅危惧種は減りません。

 この「人為の否定というかたちの不作為の奨励」と「過去の自らの過ちとは向き合わない姿勢」は、オオカミの場合と全く同じ。

衝撃の映像

2012年12月05日 | 自然関連

ロシアの出来事。

まずはこちらをご覧下さい。

http://www.maniado.jp/community/neta.php?NETA_ID=7727

 

ここには、ある真実が隠されてた・・・こちらをどうぞ。

http://rocketnews24.com/2010/11/04/%e4%b8%96%e7%95%8c%e4%b8%ad%e3%81%8c%e9%a8%99%e3%81%95%e3%82%8c%e3%81%9f%ef%bc%81-%e3%83%ad%e3%82%b7%e3%82%a2%e3%81%ae%e7%a7%80%e9%80%b8%e9%81%8e%e3%81%8e%e3%82%8bcm/

うむぅ。

ロシア、あなどりがたし!


カレンダー

2012年11月24日 | 自然関連
 米国インターナショナル・ウルフ・センターで《アンバサダー》をつとめている(つまり普及教育のために飼育展示されている)オオカミたちのカレンダーをゲット!

 2013年も、オオカミたちと過ごす1年になるん

秋の入り口

2012年09月09日 | 自然関連
 9月になりました。
 今日は9日、重陽の節句。ですが連日の厳しい残暑、まだまだ秋は遠い気がします。

 今月初めの土日は、尾瀬に行ってきました。
 今年の尾瀬は、ウメバチソウの開花時期でした。

「この花が咲くと秋が始まったなと思う」と山小屋の方が仰っていました。

 イワショウブも花の盛り。


 でもどちらも可憐な花。アブラガヤの茶色とキンコウカ、オゼミズギク、ミヤマアキノキリンソウなど黄色系の中でのアクセントにはなりにくく、もちろん草紅葉はまだまだ先のことで、夏の終わりのやや地味な、でも落ち着いた感じの風景でした。


生物多様性国家戦略

2012年07月25日 | 自然関連
 環境省は現在、生物多様性国家戦略の改訂を進めていて、8月5日(必着)までパブリックコメントを募集しています。
 パブリックコメントは、一般人が国に対して直接ものを言えるほぼ唯一の機会。この機会に、ちょっと関心をもってみませんか。

生物多様性国家戦略って、そもそも何?
 私たち人間の社会は自然の恩恵なしには成立しません。その自然の健全さはたくさんの生物のつながりによって支えられていますが、人間活動の拡大によって地球上では平均すると1日に数種~十数種という凄まじいスピードで生物が絶滅しています。もし世界中の国々がそれぞれ、これまでどおりの開発行為を野放図に続けていけば、遠からず後戻りできない地点(ティッピング・ポイント)を過ぎて地球の生態系は加速度的に崩壊を始めてしまいます。人間がみずからの存続を危うくするほど地球環境を損なってしまう前に、何とかしなければならないと開かれたのがいわゆる「地球サミット」(1992年リオデジャネイロ)で、それを契機に環境に関する国際条約や会議などが開催されてきました。
このあたりの流れはWWFのサイトにコンパクトにまとめられているので関心のある方はこちらをご一読下さい。 

生物多様性条約

生物多様性条約と日本

 条約締結国として、日本も、条文に書かれている「生物多様性国家戦略」を作成しなければなりません。

 生物多様性国家戦略とは、日本という国が生物多様性という分野に関して今後どのような国づくりをし、国としてどう行動していくのかをあらわしたもの。「人と自然の関わり方を見直し将来像を示すものとして作られる指針(環境省の説明会より)」です。

 例えていうなら企業の社屋の正面玄関や社長室に額縁に入れて掲げられる「社是」のようなもの。「お手本」であり「作りました」と対外的にアピールするためのもので、書かれているから実現すると約束されたわけではないし、実現できなくても誰かが責任を問われるとかいうものでもありません。さらに、ここに書かれないからといってそれが否定されたということを意味するわけでもありません。
 では何の意味も無いかといえばそうではなく、社是が【社風(企業風土)】を作りその会社の【独自の存在価値の源】となり、従業員の行動や思考も既定して、将来的には【会社そのものの存続をも左右する】ように、国家戦略も今の時点での【国を挙げての行動指針】(こう行動しましょう、という声がけ)なので、国民のひとりひとりが「これで良いか?」と考えてみるべきものです。

 刻々と変わる国際的および国内的な情勢も反映するよう書かれているため、何だかとりとめのない感じの文書なのですが、これを読むことで、現時点で「国」が自国の自然をどう見て、将来像をどう考えようとしているかをうかがい知ることができます。

 今回の改訂の目玉は2010年に開催されたCOP10名古屋(第10回の条約締約国会議)で決められた世界の新たな目標である「愛知目標」を内容に含めること、そして、国の将来像を考えるうえでの大きな衝撃となった東日本大震災の経験をふまえての内容とすることです。これに加えて、確実に訪れる人口減少も考慮に入れた国土全体の将来像の考え方を示す必要があります。

 積み残しのオオカミ問題
 ところで日本はいま、増えすぎたシカによる自然環境の改変が進み、農林業被害だけでなく、各地で植生の変化や表土の流出による生物多様性の急激な低下が進行しています。これは日本の自然に本来備わっていた健全な頂点捕食者機能がオオカミの絶滅により失われたことに原因の一端があります。オオカミの絶滅後にその機能を補完していた狩猟者も、社会状況の変化によりその力を失ってきています。

 わが国の生物多様性を将来にわたって維持回復してゆくためにはこの「自然の中に欠かせない頂点捕食者機能」を「いったいどういう手段で存続させていくのか」を真剣に考える必要があります。

 米国でイエローストーン国立公園にオオカミを再導入により復活させたのはこの機能の回復のためであり、その結果、地域の生態系の健全さが回復した実例があります。ですから日本でも、社会構造の将来予測を勘案すれば、人の手の届きにくい奥山地域の頂点捕食者機能は再導入によりオオカミを野生復帰させて自然の遷移にゆだね、人間による狩猟やカリング(間引き)の労力は里地里山に集中させるというビジョンが、合理的かつ環境倫理上も齟齬のない将来像であると言えます。

 しかし、生物多様性国家戦略には、改定案ではもちろん、従来のものにも、絶滅したオオカミのことをどう考えるかは何も触れられていません。
 シカ激増による生物多様性の低下は人間の社会が変化したことに起因する第2の危機と位置づけられており、それは今回の改訂でも残念ながら変わることはありませんでした。

 実は今回の改訂にあたり、NGO・NPOの意見も聞こうという会が2011年秋から催されていて、私たちはシカ激増の根底には人間がオオカミを絶滅させた「第1の危機」があり、それがめぐりめぐっていま現われているのだという点も併記するべき、と提言しました。環境省の担当者もその点には心を動かされた様子に思えましたが結局それらしい文章がもりこまれることはありませんでした。
 その理由は、改定案の33ページ、第4節「わが国の生物多様性の現状」の冒頭を見るとわかります。
 国家戦略を作る際の前提となる「生物多様性評価」の検討委員会および協力した208名の専門家が評価期間と設定したのは1950年代後半から2010年まで。そのあいだに起きた変化だけをみて、物事を考え、決めているため、それ以前に絶滅していたオオカミは最初から思考の外にある、というわけです。

 でも私たちの国土の自然は、当然のことながら、1950年代に始まったものではありません。

 国家戦略の中では、わが国の基本姿勢として「100年計画」と銘打ち、「過去100年の間に破壊してきた国土の生態系を、次なる100年をかけて回復する」(55ページ第3章の第2節)「自然の質を着実に向上させることを目指す」と明記しています。
 明治期の野生鳥獣大乱獲時代からオオカミの絶滅を経て、戦争や山林乱開発などで荒廃していた時代。そこをスタート地点として環境の変化を評価し、そこから未来を描くことははたして妥当なのでしょうか。
 日本の生態学はオオカミの絶滅後に始まったものです。生態学は【目の前の現象をそのまま記述する学問】。わが国の生態学には、自然の調節機能としての頂点捕食者の存在への視点が欠けているとの自覚は、専門家たちにあるでしょうか

 シカが国を動かした
 もっとも、さすがの環境省も、自然の中から中・大型哺乳類をめぐる自然調節能力が失われている現状は認めざるを得なくなったようで、今回の改訂では、2010年版には無かった記述が入りました。58ページ、国土のグランドデザインで「奥山自然地域」に関する部分です。
 従来の書き方は、人の影響さえ遠ざけておけば自然は維持され何の問題もおこらないかのようなもので、いったい国は現実に起きているシカ問題をどれだけ深刻に受け止めているのかと機会あるごとにその点をパブリックコメント等で指摘してきました。
 今回の改訂案では《現状》にシカ問題の深刻さが記述され、《目指す方向》にも森林生態系への影響を抑制するためにシカの保護管理を進める、とあります。そして《望ましい地域のイメージ》には「ニホンジカが生態系に悪影響を与えない生息数に維持されている。」の一文が入りました。

 「奥山は、人の活動は制限するけどあとはほっておけばよい」という感覚から「維持しなければ危うい」と明言するようになった「国の認識の変化」はとても意味のあるものだと思います。捕食者オオカミを失って自然の中で悪者扱いされねばならなくなったシカや、シカの影響で地域絶滅していく動植物の命たちが、ようやく国を動かしたというわけです。

 あとは、この維持管理を将来にわたって現実的にどう担っていくべきか、担っていけるのか、という議論になります。その先の「生態系の健全な機能を維持回復させるための事業」であるオオカミ復活へとつながる、ほんのわずかな前進といえます。

 これからの課題
 生物多様性の保全と持続可能な利用に向けた今後の課題(51ページ)が5つあげられていますが、その中の「科学的知見の充実」というところには「自然科学と社会科学の総合的な分析や、対策のオプションと効果などに関する研究が十分に進んでいないため、将来の選択肢を提示できていない」と書かれています。オオカミ復活の問題はまさにこれにあてはまります。今回の改訂で、奥山で起こっている問題の深刻さをようやくみとめた国が、それではいつ「その修復にとりかかるかどうか」という選択肢を国民に提示することができるでしょうか
 シカはたった数年でその地の生物相を変化させてしまいます。事態は全国規模で拡大・進行しており、場所によっては(大台ケ原がその典型)明らかにティッピング・ポイントを過ぎてしまい回復不能な生態系も出始めています。時間の猶予はありません。

 また「いのちのつながり」の重要性をうたいながら、具体的な行動内容をよく読むと「つながり=場の形成」のみで、森林生態系の中大型哺乳類をめぐる物質循環とエネルギーフローは頂点捕食者オオカミの絶滅により途切れている、という事実についての考え方は何も示されていません。これは、「生態系サービスでつながる自然共生圏の認識」などと言って奥山で捕獲されたシカをどう人間領域に持ち出して消費・有効利用を促進するかを考えるだけでは十分な理解とはいえません。これは自然領域での腐食連鎖という重大な科学的知見が欠けていることからくるもので、そこについての研究の推進もぜひもりこむべきではないかと思います。

 この国家戦略は適宜改訂されていくものという位置づけですが、次の改訂にはさらなる進展を期待したいと思います。 


いまそこにある危機

2012年05月27日 | 自然関連
シカ食害 国の早急対策求める 尾瀬山開き 山小屋組合長が見解

 尾瀬の玄関口にある片品村の大清水湿原のミズバショウ約二万株が野生のシカに食い荒らされ、壊滅状態になった問題で、尾瀬山小屋組合の関根進組合長は二十二日、「尾瀬のシカの食害は憂慮に堪えない問題で、環境省も喫緊の課題として対策を講じてほしい」との見解を示した。

 同日の尾瀬の山開き式の会場で東京新聞の取材に答えた。

 関根組合長によると、尾瀬のシカの食害は十年以上前から問題になっていたが、ここ一、二年は深刻な状態で、尾瀬ケ原ではミズバショウだけでなく、ニッコウキスゲやリュウキンカなどの貴重な草花が食べられているという。

 「大清水湿原の奥にはシカよけのネットを設置していたが、シカがネットから離れた別の侵入ルートを見つけ、入り込んだらしい」と関根組合長。「シカを別の場所に誘導する方法を考え、シカと人間の共存を模索したい」と語った。

 山開き式であいさつした福島県檜枝岐村の星光祥村長も「ニホンジカの被害はますます深刻化している。阻止しなければならない」と訴えた。

~記事ここまで~

 シカを別の場所に誘導?どうやって?
 それが仮にできたとして、それがなぜ「シカと人間の共存」になるの?観光用に守りたい部分の植物は食べさせちゃダメで、尾瀬国立公園の人目につきにくい他の森なら壊滅しても良いとか?まさかそこまで考えてはいないでの発言でしょうけど。

 尾瀬の中でも銃とワナによる捕殺が始まります。
 なるべく人の影響を排除したいはずの特別保護地区で、なしくずし的に人の手が入ります。そうでないとどうにもならないから。

 これでいいのか。
 このままでいいのか。

 日本の自然がいま直面しているのは「自然の中の調節機能(=オオカミ)を失った状態でのシカの爆発的増加」です。これは未曾有のこと。おそらく、歴史上、経験したことの無い事態です。

 オオカミ復活に対して「オオカミが生息していた時代と現代は自然も社会も違う。失われたものは今さら元に戻せないのだからオオカミ復活には反対」と言う人がいます。しかし今、私たちが直面しているのは、これまで誰も経験したことの無い未曾有の事態であって、考えるべきは未来へ向けてどう対策をとるべきなのか、なのです。

 この未曾有の事態の深刻さをハッキリ訴えるシカ学者や植物学者があまりに少ない。

 未曾有の事態にもかかわらず、対策はといえば「昔のように、シカをせっせと利用するようになれば良い。ジビエや鹿革製品で地域おこし」とか「里山を手入れして、人々の賑わうような場所にして獣害を減らせば良い」とか言っている。
 でもそもそも、人間の方の社会体制や自然保護・動物愛護思想や、食習慣・食行動といったものの方が、絶対に昔には戻れないほど変化してしまったのではありませんか?
 オオカミを入れるより、ジビエや里山振興の方が効果に現実味があり、かつシカを減らすと期待できると本当に言えますか?

 オオカミの再導入による野生復帰で生態系にプラスの効果があることや、絶滅状態だった地域へ復活したことに伴う様々な人間社会の軋轢・葛藤とその解決方法・共存の知恵といった知見は欧米で着々と蓄積されています。

 一方、我が国の関係省庁はといえば、明確な効果が認められていないと環境省自ら認めているシカ対策を、税金を使って延々とやり続けることになっている。

 いったいいつまでこんなことを続けるつもりなのでしょう。