六畳の神殿

私の神さまは様々な姿をしています。他者の善意、自分の良心、自然、文化、季節、社会・・それらへの祈りの記。

道は続く・・

2005年09月01日 | 映画
 9月です。秋刀魚の話題もちらほら出てきました。

 8月が過ぎたからと言って「平和」について考えなくなるというわけではありませんが、ちょっと集中が切れてきました。
 この話題は、折に触れて冷静に、身の丈に合ったかたちで考え、これからも少しずつ表現していきたいと思います。

 そう思った背景に、ここ数日に観た、ふたつの映画があります。

 ひとつは、チェコ映画祭でたまたま観た「セカルを消せ」 もうひとつは、楽しみにしていた「容疑者 室井慎次」でした。

 「セカルを消せ」は、レンブラントを思わせる美しい画面に、濃厚な宗教色をたっぷり含ませつつも、世界のどこにも共通する《人間の醜悪さと切なさ》を描いており、チェコ映画の質の高さを感じました。
 でも(それだからこそ)観ていて辛かった~。
 人々がその存在を抹殺したがるセカルという人物。彼がいったいどうしてそこに居るのか。どうしてそうなってしまったのか。暗い時代背景、閉鎖的な村の狭い価値観、そこで生きることを定められた絶望感と無力感。保身、裏切り、偏見、他者不信、身贔屓、事大主義、そして宗教の衣を借りた自己正当化。
 これが「人間というもの」の姿なのか。
 ・・ならば、美しい田園風景の中、野ざらしの十字架の前にただひざまずき、懺悔の頭をたれるしかないじゃないか・・そんな気分にさせられる映画でした。

 そして「室井慎次」。
 これもまた、現実だな~と思わされました。特に灰島弁護士。いるんだよねー、現実にこういう人が。そういうタイプの人を敵に回した時の、何とも言えない絶望感と戦慄を、思い出しちった。

 そういった《見たくない現実》から目を逸らすことは、ある意味、思考停止ではないのか。
 つい、そう自問してしまって、げんなりする。

 こういう現実をまざまざと見せられてなお、人間を信じる勇気を、自分はもてるかどうか?を問われている気がするわけですよ。

 ・・まぁ、私がそゆことで一人ドンヨリ してようがいまいが、日常は動いていくわけで。
 であれば、よどんでるだけ損とゆー気もしますが。

 「容疑者 室井慎次」は、「地味だ」とか「つまんない」とか酷評されてるみたいですが、私は「交渉人 真下正義」より断然評価するなぁ。

 正しさは、時に人を追い詰める。力をもつ分、その意図がないのに、人を傷つけてしまう。
 小此木啓吾もかつて、そんな事を言っていたっけ・・何に書いてあったかは忘れたけど。その一言だけがすごく印象に残っている。

 「室井さんのような人は、必要だと思うか?」
 この問いかけって、けっこう重いなぁ。

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