六畳の神殿

私の神さまは様々な姿をしています。他者の善意、自分の良心、自然、文化、季節、社会・・それらへの祈りの記。

道の上 5

2005年09月22日 | 文化・社会
 「道の上 4」からのつづきです。

 《核》は、人類の「あやまち」。
 それは麻薬みたいなもの。一度手にしたら、もうそれを手放しては周囲の状況を考えられなくなる。いま《核》の一番の効能として挙げられている戦争の抑止効果だって、本当は《過渡期のあやまった手段》として、早く「負の文化遺産」扱いされるべきなんだと思う。

 あさひ素材さんの過去の記事「核なんて古い」のコメント欄で、さんちゃごさんが『「核を保有しても無駄なだけ」…そう知らせるのが、結果的に核を廃絶する最も近道に思えるのですが…。』と書いておられたが、私も全くその通りだと思っている。

 だからこそ私は、8月6日の自分のエントリーで、あえてあんな書き方をした。「原爆投下が戦争を早く終わらせた」というような、どんなかたちであれ核兵器の効能を評価するような意見には、今後も断固「NO」と言い続けたい。
 ・・少なくとも戦後すぐの頃とか、投下した側からの(自分の行為のむごたらしさから目を背けるための)言い訳としてなら、そういう表現も説得力を持っただろう。しかし60年という時間を経た今でも・・その後明らかになってきた様々な現実を知っても、なお、その主張を続けていられるというのは、どういうことなんだろう・・ 1、原爆や先の大戦に対する知識不足 2、反日思想や白人優位主義を鵜呑みにしている 3、核兵器を究極の武器として肯定している 4、自虐史観などのために過去の日本人及び自国の原爆犠牲者に対する共感が薄い 5、人類全体に対する共感が薄い 6、世界に対して無関心あるいは他罰的な感情を抱いている ・・のいずれかではないのかと思ってしまう。
 (でも、そういう「自分とは異なる見解」をもつ人に対する自らの感情を、ブログという公開の場で、ストレートに表現したのは「礼を失する行為」でしたから、その言葉遣いについてはコメント欄でお詫びしました。)

 「原爆投下が終戦を早めた」
 こんにち、この《歴史のif》を口にして良いのは、本当は多分、被爆者自身だけだ。「あんなにもむごい犠牲が、何の意味も持たなかったというのでは辛すぎる。あの煉獄の苦しみをもって、その後の何日かの戦闘で死ぬはずだった何万人もの日米双方の人々の命を救ったのだと思えば、せめてもの救いだ。理不尽な運命への悲嘆も、少しはやわらぐ」と言われるなら、その思いに対して私は返す言葉がない。ただ黙ってこうべを垂れるのみだ。(でも、被爆者の方々ご自身がそういう事を言っているのは、あまり訊いたことがない。)

 しかし、いくら「あやまちだ」といっても、《核》は存在するし、今回の6カ国協議でも分かるとおり、核を抜きに世界情勢は語れない。また、《核》の問題を俎上に載せない国防の議論もまた、現実的とは言えない。
 私以上に(?)《核》に対してアレルギー反応を示す人々が、将来の日本の核保有を拒否するあまり(・・だけじゃないかもしれないけど)憲法改正論議まで最初から否定するのは、どうかと思う。むしろ(あさひ素材さんも提案なさっていた)ミサイル防衛などの拡充を進め、自衛隊の位置づけを明確にし、核兵器が「本当に必需で持った方がお得な」兵器なのかどうかを考えるためにも、改憲はまず必要だろう。
 核は、軍事だけでなく(国際・国内的な感情面を含め)総合的に考えた場合、他ならぬこの日本が保有するのは、意外にお得ではないかもしれない。

 だいいち「日本が今後自前の《核》を持つのか持たないのか」「そのうえで誰と仲良くするのか」みたいな事に頭を悩ませているうちに、世界は違う流れの先へ先へと、進んでいるかもしれないのだ。今は《国家》とか《どっちがわ勢力》とかいうより、テロリストの手に既存の核兵器が渡らないようにすることの方が、最優先の国際課題かもしれない。今の北朝鮮の《核恫喝》は(もちろんひどく厄介な問題ではあるけれども)一昔前の古い形で、なんとなく、時間はかかっても「おとしどころ」がみつかりそうな気がするが(気のせいかもしれないが・・汗)、万が一、自爆テロとか追剥ぎ的襲撃をするテロリストに核が流れてしまったら・・と想像すると、おそろしさで気が遠くなりそうだ。
 日本は、自分が持つか持たないかを決める前に、まずは別の課題に取り組んで、その間、核だけはアメリカさんお願い・・って現状追認も、とりあえずアリかもしれないなぁ・・なんて思う私は、へタレ野郎かなぁ・・。

          

 平和の道の上をゆく両輪の片方、《非暴力》は、誤解されていると思う。

 ヒトは社会性の動物だから、共感能力がある。非暴力は、それを用いた《戦闘手段》。理解と洞察を促すことで、相手を積極的に武装解除してしまう《説得力》のことを指す。
 非暴力は、暴力よりも高度なテクニックと犠牲と忍耐を要する、タイヘンな手段。先日、「他国が攻めてきたら?」というアンケートで、「武器以外の方法で戦う」と答えた日本人が多かったそうだけれど、ちゃんと犠牲と忍耐を覚悟したうえでの回答なんだろうか。

 しかも、相手が、人権を抑圧され、異なる方向性に教育(教育を剥奪することを含め)された人々の場合、共感を用いた《非暴力》は、力を持つことは困難かもしれない。ガンジーが非暴力でインドの独立を勝ち取ることができたのは、敵が、文化教養の高いイギリスや欧米列強だったから、という要因も大きいのではないだろうか。

 たとえば先の大戦で、原爆投下の候補地から京都が外されたのは、そこに集中している文化財の価値をアメリカ人が評価した(日本人の評価をアメリカ人が配慮した?)ためであることは有名。
 日本が、自前の核兵器を持たないで核攻撃を避ける方法のひとつに、この《日本 総・京都化》が挙げられると思う(だから日本の伝統文化や神話・芸術作品などを取り上げるのに力を入れている扶桑社の「新しい歴史教科書」は、すぐれて《平和主義》的教科書と言える)。

 日本が・・いや、世界中のどこでもが、世界の人々にとって「なつかしく、珍しく、かけがえのない文化財」となれば、核兵器は自然に、廃絶の方向に向かうだろう(・・だから「世界市民」を標榜する人たちには、国境も地域の差異も解消して全てを均質化することが理想的な未来像なのかどうかを、もう一度考えて欲しいと思う)。

 そして、タリバンによって破壊されたバーミヤンの石像・・世界中に配信されたあの映像を、世界中の人が胸に刻む必要があるだろう。非暴力の手段である《共感》が、あの日、特定の人々の独善により踏みにじられ、崩れ落ちた。地球上から「想い」や「文化」のもつ抑止力が失われた深刻さを、我々はもっと認識すべきだと思う。

 日本は、文化に対して鷹揚というかノンビリというか、理解や支援や危機意識が、まだまだ遅れている。ご近所の国の著作権侵害や海賊版には寛容だし、企業はちょっと経営が傾くとまず最初に文化活動から手を引くし、「自国の文化を知らなくても世界に通用する」とか言っちゃう若者は野放しになってるし・・その無自覚こそが、平和に忍び寄る危険であり、悪意につけ入るスキを与えている行為だという自覚を、日本人はもっと持つべきなんじゃないかな。

文化は武器です。☆