本日のお言葉
「卑怯か暴力かのどちらかを選ぶ以外に道がないならば、わたしは暴力をすすめるだろうと信じている。・・(具体的な事件のコメント 略)・・。
けれどもわたしは、非暴力ははるかに暴力にまさることを、敵を赦すことは敵を罰するより雄々しいことを信じている。宥恕(ゆうじょ)は武人を飾る。しかし、赦す側に罰する力があるときにのみ、自己抑制は赦しとなる。無力な者が寛大を装ったところで、それは無意味である。鼠は、猫に八つ裂きにされるがままになっているとき、猫を赦してはいない。・・(後略)」
『ヤング・インディア』1920年8月11日号 マハトマ・ガンジー「剣の教義」より
選挙の公示が近づいて、各党のいろいろな主張が耳に届いてくる。その中には、改憲、特に憲法9条をどうするかや、自衛隊の扱いについての問題も含まれている。各党の主張をよく考慮に入れて、選びたいと思う。
それにしても、この問題を考える時、いつも「議論のベースが噛み合ってないなー」と思う。
そもそも日本人というのは、民族の誇りを持ち、国益を考えたらすぐに、近隣国に対して領土拡大と武力侵略を始める国民なのだろうか?
9条を変える事に絶対反対を唱える人たちは、自分達がそういう国民だと信じているように見える。
あるいは、かつて地方の素朴な中学で起こった悲劇に対するのと、似た感覚なのかな。・・おとなしい男子生徒が、注意されたことにカッとなって若い女性教諭を刺殺してしまった事件。その時たまたま少年がナイフを持ってさえいなかったら、こんな悲劇には発展しなかった。だからコドモからナイフを取り上げよう・・
あるいは、逆だろうか。「アイツ、おとなしそうにみえるけどナイフを持ってる危険な奴だゼ」と不良に目をつけられないように、最初からナイフは持たないでいましょう。弱虫と言われても、そういうヒトたちとはできるだけ目を合わせず関わらず、ご機嫌をとって頭のひとつも下げてやり過ごす方が、結局は利口でお得です・・ってカンジ?
9条を変えて戦争が「できる」国にすることと、戦争を「する」国になることは、即イコールではない。さらに、戦争を「しなければならない」国になることとも、相互にイコールではない。
たとえば、昔の武士には「切捨て御免」が認められていたけれども、簡単に鯉口を切るような人物は軽蔑されたし、武士自身、その事を他の何よりも恐れていた。「二本差し」は、「恥」と「矜持」の文化によって、横暴を抑制されていたのだ。そういう文化を思い出す方が・・「和をもって尊しとなす」民族の誇りを回復することの方が、逆に日本を平和国家という道の上から外さない最善策だと思うんだけどなぁ。
むしろ危険だと思うのは、日本人自身の中に、自虐史観からくる自信のなさ、自己否定感の裏返しの「こころ不信」と「他者不信」、「物質信奉」がドロドロ渦巻いている人が多いことだ。
自分がどんな風土の中で生命を受け継ぎ、先祖のどんな愛と尽力があっていまここに日々の安寧を謳歌しているかを見ようとせず、法に触れなければ何をやっても個人の自由と主張し、感謝や礼を忘れ、「教科書やマスコミがわーわー言ったって、どうせ社会は変わらない」と自分の怠慢・無気力・視野狭窄から目を背け、人の心はお金で動くといった価値観を披瀝してはばからない人に賛同を寄せる。(まぁ、有権者もそんなにバカじゃないってコトを広島6区の皆さんは今回の選挙で証明してくれると思いますが・・どうかな・・ちょっとドキドキ。つーか、自分がもし広島6区の住人だったらドウシヨウ・・だ、誰も選べない・・どうしたらいいんだあぁぁっっと悶絶の毎日になったと思います。・・スイマセン広島6区有権者の皆さん。私は所詮、他人事の野次馬です・・。閑話休題)
こういうタイプの人は、他者の痛みを自らの心に感じない(または意図して感じるのを避ける)。自国を含め、個々の文化を価値のあるものと尊重しないから破壊しても平気。その場に自分自身をコミットさせないから、攻撃されてもダメージを受けない。だから、もしこういうタイプの人が暴走を始めたら、よほどの攻撃をしないと誰も止められなくなる。その余波を喰って、周囲はひどい迷惑を被る羽目になる。
極右・極左の暴力に走る人々は、劣等感の裏返しの「力信奉」者そのものだと思うし、また、その暴力衝動の危険性を自らの内にリアルなものとして感じるからこそ、愛国教育を拒否する人々は世界情勢の分析からの冷静な議論をさえ危険視し、ヒステリックに反応し、理想論に逃げ込んで思考停止する。
家庭内暴力対策とかでもそうなんだけど、劣等感由来の力の暴走をコントロールするには、より大きな力で対抗し抑え込もうとしてはダメ。より大きい暴力を誘発するだけ。
このタイプの暴力を抑制するには、エンパワメント(力の回復)が必要だ。自尊心を回復させ、自分の成長や周囲の変化を意識させ、自分に「自身を律する能力」と「他者と関係を結ぶ能力」があることを自覚させ、責任感をもたせる。
国も、同じだと思う。
「卑怯か暴力かのどちらかを選ぶ以外に道がないならば、わたしは暴力をすすめるだろうと信じている。・・(具体的な事件のコメント 略)・・。
けれどもわたしは、非暴力ははるかに暴力にまさることを、敵を赦すことは敵を罰するより雄々しいことを信じている。宥恕(ゆうじょ)は武人を飾る。しかし、赦す側に罰する力があるときにのみ、自己抑制は赦しとなる。無力な者が寛大を装ったところで、それは無意味である。鼠は、猫に八つ裂きにされるがままになっているとき、猫を赦してはいない。・・(後略)」
『ヤング・インディア』1920年8月11日号 マハトマ・ガンジー「剣の教義」より
選挙の公示が近づいて、各党のいろいろな主張が耳に届いてくる。その中には、改憲、特に憲法9条をどうするかや、自衛隊の扱いについての問題も含まれている。各党の主張をよく考慮に入れて、選びたいと思う。
それにしても、この問題を考える時、いつも「議論のベースが噛み合ってないなー」と思う。
そもそも日本人というのは、民族の誇りを持ち、国益を考えたらすぐに、近隣国に対して領土拡大と武力侵略を始める国民なのだろうか?
9条を変える事に絶対反対を唱える人たちは、自分達がそういう国民だと信じているように見える。
あるいは、かつて地方の素朴な中学で起こった悲劇に対するのと、似た感覚なのかな。・・おとなしい男子生徒が、注意されたことにカッとなって若い女性教諭を刺殺してしまった事件。その時たまたま少年がナイフを持ってさえいなかったら、こんな悲劇には発展しなかった。だからコドモからナイフを取り上げよう・・
あるいは、逆だろうか。「アイツ、おとなしそうにみえるけどナイフを持ってる危険な奴だゼ」と不良に目をつけられないように、最初からナイフは持たないでいましょう。弱虫と言われても、そういうヒトたちとはできるだけ目を合わせず関わらず、ご機嫌をとって頭のひとつも下げてやり過ごす方が、結局は利口でお得です・・ってカンジ?
9条を変えて戦争が「できる」国にすることと、戦争を「する」国になることは、即イコールではない。さらに、戦争を「しなければならない」国になることとも、相互にイコールではない。
たとえば、昔の武士には「切捨て御免」が認められていたけれども、簡単に鯉口を切るような人物は軽蔑されたし、武士自身、その事を他の何よりも恐れていた。「二本差し」は、「恥」と「矜持」の文化によって、横暴を抑制されていたのだ。そういう文化を思い出す方が・・「和をもって尊しとなす」民族の誇りを回復することの方が、逆に日本を平和国家という道の上から外さない最善策だと思うんだけどなぁ。
むしろ危険だと思うのは、日本人自身の中に、自虐史観からくる自信のなさ、自己否定感の裏返しの「こころ不信」と「他者不信」、「物質信奉」がドロドロ渦巻いている人が多いことだ。
自分がどんな風土の中で生命を受け継ぎ、先祖のどんな愛と尽力があっていまここに日々の安寧を謳歌しているかを見ようとせず、法に触れなければ何をやっても個人の自由と主張し、感謝や礼を忘れ、「教科書やマスコミがわーわー言ったって、どうせ社会は変わらない」と自分の怠慢・無気力・視野狭窄から目を背け、人の心はお金で動くといった価値観を披瀝してはばからない人に賛同を寄せる。(まぁ、有権者もそんなにバカじゃないってコトを広島6区の皆さんは今回の選挙で証明してくれると思いますが・・どうかな・・ちょっとドキドキ。つーか、自分がもし広島6区の住人だったらドウシヨウ・・だ、誰も選べない・・どうしたらいいんだあぁぁっっと悶絶の毎日になったと思います。・・スイマセン広島6区有権者の皆さん。私は所詮、他人事の野次馬です・・。閑話休題)
こういうタイプの人は、他者の痛みを自らの心に感じない(または意図して感じるのを避ける)。自国を含め、個々の文化を価値のあるものと尊重しないから破壊しても平気。その場に自分自身をコミットさせないから、攻撃されてもダメージを受けない。だから、もしこういうタイプの人が暴走を始めたら、よほどの攻撃をしないと誰も止められなくなる。その余波を喰って、周囲はひどい迷惑を被る羽目になる。
極右・極左の暴力に走る人々は、劣等感の裏返しの「力信奉」者そのものだと思うし、また、その暴力衝動の危険性を自らの内にリアルなものとして感じるからこそ、愛国教育を拒否する人々は世界情勢の分析からの冷静な議論をさえ危険視し、ヒステリックに反応し、理想論に逃げ込んで思考停止する。
家庭内暴力対策とかでもそうなんだけど、劣等感由来の力の暴走をコントロールするには、より大きな力で対抗し抑え込もうとしてはダメ。より大きい暴力を誘発するだけ。
このタイプの暴力を抑制するには、エンパワメント(力の回復)が必要だ。自尊心を回復させ、自分の成長や周囲の変化を意識させ、自分に「自身を律する能力」と「他者と関係を結ぶ能力」があることを自覚させ、責任感をもたせる。
国も、同じだと思う。