写真に写る顔と鏡に映る顔がどうしてこうも違うのだろう。元々、顔の造作が悪いのだからどうしようもないが、写真に写る自分の顔にはげんなりする。パスポートの写真などは前科10犯の手配写真みたいで、絶対人に見せたくない。証明写真を撮るときに「少し修正して…」と言ったら、「税関で本人じゃあないと入国させてくれなかったら困るでしょ」と写真屋さん。ハイ、ごもっともです!
何年か前に上海に行った時、税関が混んでいたので、空いたところを探してウロウロしていたら、空港職員に「ジャポンあっち、ジャポンあっち!」と言われた。友人とお互い顔を見つめ合いながら、「どうして日本人だって分かったのかしら?」
周囲は彫りの深い外国人ばかり。その人たちの中で、凹凸のない平面的な顔は目立つのだろう。でも、韓国人だって中国人だって日本人と大差ないのに、なぜひと目で日本人だとわかったのか。今でも不思議だし、何だか悔しい。
ババ友と旅に出ても、いつも彼女たちの専属カメラマンに徹して、絶対に自分の写真は撮らない。時々、見知らぬ観光客が「シャッター押しましょうか?」と言ってくれるが、写真嫌いな私には、その親切も大きなお世話なのである。だから、旅の写真はたくさんあっても、風景や花の写真ばかりで、私が写っている写真は1枚もない。
若いときはまだしも、今の写真の顔は、まさに“老婆”の言葉がぴったり。わが顔が正視するに堪えないなんて、涙がチョチョ切れそう。 とくに、携帯で撮った自分の顔は見られたものでない。
ウソかまことか、昔から筑波山に住むガマは己の醜い姿にあぶら汗をタラーリタラーリと流すという。そのあぶら汗は「ガマの油」といわれ、切り傷によく効く薬として売られていたとか。昔の時代劇によく出てきたが、「さあさ、お立ち会い。御用とお急ぎでない方は、ゆっくりと聞いておいで…」というお馴染みの口上の大道芸。浪人姿の男が自分の腕を刀でスーッと切ると、一筋の血がにじむ。その傷に「ガマの油」を塗って血が止まると拍手喝采。見物人が我も我もとつられて買うという話だが、私のあぶら汗は一文にもならない。
ババ友の一人に私より5歳上の人がいる。前髪も薄くなって見た目は年相応に見えるのだが、写真だと若々しくてきれいに写るのである。もっともアップはどうだか分からないが、そんな写真写りのいい人がうらやましい。だが、彼女は体が弱く、一生、食事療法をしなくてはならない状態である。旅に出ても美味しいものをお腹一杯というわけにはいかない。あれもダメ、これもダメ、ほんの少しだけというのを見ていると気の毒である。
実物も写真写りも悪いババは、時には、もう少し美人に産んでくれていたらと親を恨みたくもなるが、健康で何でも食べられる元気な体に産んでくれた事を喜ぶべきだろうネ。老齢になれば、特に「美貌より健康」である。ということで、さあて、お昼は何をたべようかな?
記念写真に耐えられる友人知人はまだ今のところ皆さん元気で~す。
本来なら遺影を撮っておくべき年齢だが、我が家には私の写真は1枚もありません。
今ではパスポートも免許証も、顔写真の入ったものは一切ありません。なので、骨になれば私という存在は跡形なし、それでいいのです。
遺影などなくていい。醜い顔でにらみつけられてはふるえあがるでしょうから…。