凡峰の徒然日記

 日々の出来事や普段考えていることなどを自由に書き記していきます。(山や旅の話題が多いけれど…)

インドの旅

2019年12月28日 | その他の海外旅行
平成19(2007)年9月、友人とインドを旅行しました。デリー、アーグラ、ジャイプルの3都市を5日間で回りました。
ご存じアーグラの「タージ・マハル」。世界一美しいお墓と言われています。ムガール帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンとその妃のお墓です。宮殿ではありません。

アーグラ城から望む「タージ・マハル」、ヤムナー河(ガンジス河の支流)の河辺に建てられたのですね。

牛が街なかを闊歩しています。神聖な生き物です。

インドと言えば「コブラ使いのおじさん」ですね。

デリーにある「フマユーン廟」、こちらも皇帝のお墓です。

こちらも定番の「リキシャ」

もう10年以上前になります。なかなかインパクトのある旅でした。



誰か故郷を想わざる その2 〔県都山形市との連携〕

2019年12月25日 | 考えていること
 中核市となった山形市は周辺市町との連携推進に取り組んでいます。いわゆる「連携中枢都市圏構想」です。コンパクト化とネットワーク化を図ることにより、人口減少社会に立ち向かい、圏域人口を保ちながら地域の社会経済を持続させて行こうという考え方です。国の制度ですので国の財政的支援もあります。
 これには村山地域の6市(山形市、天童市、上山市、寒河江市、東根市、村山市)6町(山辺町、中山町、河北町、西川町、大江町、朝日町)が参加を表明しています。しかし、どうしたことか尾花沢市は入っていません。要件的に入れなくなさそうですが…
 遡ること戦国時代、我が野辺沢光延公は山形の最上義光の家臣として仕え、尾花沢の地を守り産業振興に尽くしました。
 今日、県都山形市との連携を強化することは、加速度的な人口減少を辿る尾花沢市にとって一条の光明を見出すことになるかも知れません。東京2020への対応の遅れを取り戻す契機になるかも知れません。先ずは観光分野。本県を代表する観光地で世界レベルにある蔵王と銀山(これも最上氏、野辺沢氏の遺産)、山寺と尾花沢は芭蕉の縁もあります。県都山形市とのタッグは、海外市場を見据えて、中国、台湾のみならず、米国、豪州そして欧州への戦略的な情報発信と持続的なツーリスト受入れ基盤の強化に繋がります。銀山の宿泊能力は限られていますが、蔵王の宿泊能力は格段に大きいので相互補完が可能です。
 いずれにしても、観光は産業としての裾野が広く地域への経済効果も期待できますので、その道筋をどう構築していくか、行政の能力、手腕が鍵になります。また、農業や食の分野でも、果樹、野菜、花きの山形と畜産、西瓜、蕎麦の尾花沢は一定のすみ分けができ、首都圏、関西圏のみならず海外市場を据えた展開ができそうです。
 先ずは、行政機関の人的交流からはじめてはどうでしょうか。しかし、山形市から一方的な庇護を受ける関係であってはなりません。連携によるスケールメリットを生かし、双方が経済的に恩恵を享受できる win-win の関係を築いていかなければ長続きはしません。



空母いぶき

2019年12月14日 | 考えていること

今年5月に公開された邦画、ようやくDVDが販売されました。
「東亜連邦」というフィリピン東方の仮想国が、我が国南方の島を占拠し、救出に向かった海上自衛隊の艦隊に攻撃を仕掛けてくるというもの。
ネット上の評価は賛否両論、否の方が圧倒的に多い。設定にはかなりムリがありますが、CGを駆使したイージス艦のミサイル防衛や主砲射撃、F35戦闘機とミグ戦闘機との空中戦闘シーンなどは見応えがあります。
現実問題として、我が国の離島防衛には戦闘機を搭載可能な空母型護衛艦が必要なのだろうなと思います。
来週末に公開される「スターウォーズⅨ」も楽しみです。

「誰か故郷を想わざる」 とは

2019年12月12日 | 考えていること
 これは、昭和15年(1940年)発売の戦時歌謡曲で、西條八十作詞、古賀政男作曲、霧島昇が歌った曲です。
 ふるさとを離れ、友と遊んだ野山や嫁ぐ姉を見送った寂しさなど回想する思いを流麗なメロディに乗せています。「故郷を想わない人は誰もいない」という意味の反語で、戦時中は慰問用レコードとして全ての戦地に送られたそうです。
 さて、私のふるさと尾花沢はここ最近、活力を無くしているように思います。少し離れて生活していると特にそう感じます。人口減少は避けられないにしても、山形市や上山市、東根市や村山市はそれに抗い、オリンピック・パラリンピックを活用してグローバル化に適応し、持続可能な社会を築いていこうという強い気概を感じます。
 これから折を見て、このタイトルを用いて私のふるさと尾花沢への想いを書き記していこうと考えています。


誰か故郷を想わざる

2019年12月10日 | 考えていること
 ここ5~6年、平日は山形、週末は尾花沢(または山)の生活パターンになっています。特に冬場(特に1、2月)は、週末の尾花沢がmustになっています。これは、除雪と親父の看護という長男としての責務があることにほかならないのですが、特に前者はサボると家が雪で埋まってしまうので大変です。
 地域でも一人暮らしの高齢者が年々増えています。私のような輩がいるところはまだマシですが、親類縁者が市内や県内にいない高齢者はどうしているのでしょうか。高齢者にとって除雪は重労働かつ危険な作業です。最近は、除雪作業の大変さを嫌って雪の少ない天童や東根へ転居する現役世代も増えています。
 近い将来、故郷に戻ることを公言している私にとって「雪」は克服すべき大きなテーマです。「共助、公助を基軸とした盤石な除雪体制の構築」 経費はかかりますが人口減少対策に取り組むうえでも喫緊の行政課題だと考えます。


初めての中国

2019年12月07日 | その他の海外旅行

 1992年(平成4年)12月、初めて中国の地を訪れました。この年、山形で国体が開催されましたが、私は企画調整部で国際関係の仕事を担当していました。
 翌年、山形県は中国黒龍江省と友好盟約を締結する予定になっており、その説明と了解を得るために北京の中日友好協会会長を訪問した訳です。
副知事の随行という役割でしたが、いわゆる外交の一端でしたので会長との会見時にはとても緊張した記憶があります。
 写真は翌日、故宮(紫禁城)の前で撮ったものです。当時の北京は空港から市内に至る幹線道路に未舗装の部分があり、馬車が走り、人民服に人民帽、自転車も多く見られました。
 あれから27年、隔世の感がありますね。

アメリカ横断路線バスの旅

2019年12月05日 | その他の海外旅行

 2度目の海外旅行は米国へ。クレムリンに行ったらホワイトハウスにも行かないと… という訳で、1987年(昭和62年)10月、「アメリカ横断路線バスの旅」に出立しました。今から32年前、24歳の時です。
 当時はまだインターネットがなく、情報は全て紙、「地球の歩き方」がバイブルでした。ビザを取るために赤坂の米国大使館にも行きました。もちろん宿はアポなしです。
 スケジュールはざっとこんな感じ。
 【ロサンゼルス(1泊) → ラスベガス → デンバー(1泊) → オマハ(1泊) → シカゴ(1泊)→ ニューヨーク(1泊) → フィラデルフィア → ワシントンDC(3泊)】
 一番の思い出はやはり、グレイハウンドバスの車中でしょうか。特に、ラスベガス~デンバー、デンバー~オマハ、シカゴ~ニューヨーク間は夜行バスでの移動となりました。車窓に広がる西部の砂漠や中部の大平原、地平線から昇る太陽、魔天楼のシルエットなど、何も考えずに車中で過ごす時間は代えがたい至福の時間だったように思います。
 退職したら?またチャレンジしたいと思います。
 なお、「ドイツ鉄道の旅」、「エジプトの旅」のようにブログで当時の写真などを掲載していきたいと思いますが、32年も前のことなので、気が向いたら、ということになるかもしれません。


東西冷戦終結から30年

2019年12月04日 | その他の海外旅行

 東西冷戦終結から30年経ちましたが、最近「新冷戦」という言葉を耳にするようになりました。
 さて、私のブログを辿っていくと以下のような投稿がありました。

『初めての海外旅行』 〔2011年12月17日〕
 小職が初めて海外に行ったのは、1986年3月、22歳の時。渡航先は今は無き「ソビエト連邦」。
何故ソ連なのか? う~ん、怖いもの見たさ? いや多分人と違う国に行きたかったのかな。料金も安かったし… 貧乏学生だったからね。当時の学生の卒業旅行は、ヨーロッパとかアメリカが主流だったからね。モスクワ、キエフ(現ウクライナの首都)、レニングラード(現サンクトペテルブルク)の三大都市を一週間のツアーで回ってきたのだけれど、インパクト大でしたね。
モスクワの地に降り立ってシェレメチェボ空港から市内まで、幹線道路の両脇に例の赤い旗の国旗が間断なく立っていたのは流石に不気味で怖かったですね。ここは地球なのか? ウルトラセブン第43話で見た「第四惑星」に来てしまったのではないかと。それから、ツアーで一緒になった東京外語大でロシア語を専攻している学生と夜のクレムリン周辺を散策していたら、いきなり警察官に職質されて… 言っていることはさっぱり分からなかったけれど。
しかし、良い思い出もいっぱいありました。ソ連のパリと言われたキエフの街の美しさ。エルミタージュの華麗さ。レニングラードからモスクワ行きの寝台特急「赤い矢」号も実に快適でした。そして何より現地ガイドさんがとっても美人。ゴルバチョフ時代ということもあって市民には開放的な雰囲気もありました。

帰国して一ヶ月後に、チェルノブイリ原発の悲劇があり、数年後にはソビエト連邦自体が崩壊してしまうとは想像だにできませんでしたが…
2000年8月に仕事でウラジオストクへ行く機会を得ましたが、ヨーロッパロシアにはまた行きたいですね。街の様子や人々の生活も当時とは大分変わったと思います。
最後に、本文とは全く関係ない話ですが、エリツィン時代のロシア連邦国歌が個人的には大好きでした。グリンカの歌劇で使われた「愛国者の歌」。知っている人はあまりいないかな。

 あれから33年余の歳月が経ち、ここ数年は百名山登山に傾倒していますが、落ち着いたらまたモスクワやキエフを訪れたいなと思っています。