西山よしおからのメッセージ

愛知県津島市、市議会議員としてこの地域の将来を考え、皆さんの意見を取り入れ、還元できる方法を提言できる場にいたします。 

旅行会の締め切り

2011-10-21 11:56:18 | Weblog

私の後援会組織「良友会・旅行会」、の募集を締め切りました。

募集定員130名に対し、定員オーバーの140数名にて終了。お断りした方や団体さんもあって、丁重にお詫びいたしました。

このブログをお借りして、重ねて謝意とお断りしましたお詫びを申し上げます。

また次回、こう云った機会がありましたら、これに凝りませず是非ご参加ください。せっかくの親睦の意味で始めたこと、気を悪くされた方が見えましたら何にもなりません。深く反省します。

今回、ご参加されます方には1分間の時間を頂戴しまして、「東北の津波被害で被災され命を落とされた方」に対して黙とうをささげたいと存じます。悪しからず。


受刑者は何を語る

2011-10-20 19:42:35 | Weblog

本日、日帰りにて保護司の視察研修、「滋賀刑務所」(大津市)。

この施設は26歳以上の比較的刑期の軽い(初犯を含め、10年以下)受刑者たち。

施設も老朽化(半世紀近く)、受刑者も高齢化(中には紙おむつの世話になる者も)しているそうな。

黙々と作業を続けるこの方たちの背中が寂しくもあり、小さく見えたのは私だけではない筈。

「受刑者の想い」は何を語る、いずれにしても、これからは厳しい社会の現実が待っているのです。

 


言葉では言えないこと

2011-10-19 11:24:53 | Weblog

被災者の言葉の重み、真実の嘆きに圧倒された。今日届いた「岩手県山田町の保育園園長先生からの手紙」。

いかに、私がきれいごと、いい加減うつろな言葉で濁してきたか。もうそれは言葉では言い表すことが出来ない。

人間が自然を相手に支配できると信じた「愚かさ」。どこが安全で、何が正しいのか、そんなものは「どこにもない」ことを知った。

ただ、正しいとわかっていることは、これからの世界を担う子どもたちに「先のことを考えたら、本や教科書を読んで分かるようなことはやらずに、なんにも捉われない柔軟な思考回路を持って生きていくこと」、これが「究極の教育」かも知れない。

昨夜も地元中学校、町内別懇談会に出席して先生方と話をしてきました。


道化師(クラウン)

2011-10-18 12:38:20 | Weblog

決して主役ではない。サーカスの中での脇役「道化師」。

脇役として、相手のタイミングを見計らい、一体感をつくり、その場を盛り上げる。「笑いを生む力、相手を持ち上げる」、こう云った対応が出来る能力はアーティストの域に達している。時には病院やホームに出かけ、彼らを笑いの世界に巻き込み、主役となる子どもが子どもらしい行動によって、自信を取り戻す。その専門性とスキルの高さによって、相手の様子が変わっていく。(大棟耕介、クラウン協会理事長)

手品師(マジシャン)も同じ。こう云ったプロに私は憧れる。


ガレキ火災

2011-10-17 23:48:43 | Weblog

今、被災地岩手県山田町が「ガレキ火災」、大変なことに。

テレビでその様子が伝わりました。未だガレキが撤去されずに残され、心配しておりましたが。

内部のメタンガスが自然発火してその処理にめどが立たず、1週間燃え続けているとのこと。

すぐに友人から電話、「我々の訪れたまちが、エライことになっているらしいぞ。車で出かけるにも先が見えない状態、洗濯もままならない。火災はいつまで、どこまで燃える。」

最初、被災地に訪れ、現場を見て「こんな田舎行政?の弱い処・まちをイジメ、嫌な部分を負わせる卑劣ともいえるやり方ってあるか!」、憤慨し、「火災」が起きたらどうするのか、心配でもありました。もう、こうなったら「人災」と言わせる前に、解消する手立てを見つけるしかありません。

決して「これ以上、恐怖におびえる状況」・「弱い処にしわ寄せが来る状況」にしてはなりません。

また、「想定外」と云うのですか?


雨の中の「尾張中央道、清掃奉仕」

2011-10-16 16:06:37 | Weblog

昨日、大雨注意報の中で、「尾張中央道クリーン大作戦」、清掃奉仕活動。

悪天候の中で、稲沢市長や警察署長の激励を受け、発会。その後、皆の願いも叶い、雨の勢いも緩め。

北は一宮の今伊勢方面から南は弥富・伊勢湾岸道路の入り口まで約35キロ区間、隙間なく清掃活動。

少年ボーイスカウト約40名のご協力も仰ぎ、なんとか無事に終える事が出来ました。

人海戦術も積み重なると大きな力になることは、実証済み。今すぐ被災地にも必要な戦力です。

おつかれさまでした。


「天地の中に」、座右の銘

2011-10-15 15:03:25 | Weblog

私の座右の銘、「天地(あめつち)の中に、我あり、独りあり」(真言密教の曼陀羅の世界、仏教語?)。

般若心経の「色即是空、空即是色」に似て。

この世界・自然界に私と云う存在は「独り」、アリのような存在かもしれません。「独り」の存在はちっぽけなモノですが、それなりに皆、必死に生きているのです。生物としてこの世にいる限り、お互いを尊重し、切磋琢磨しながら進歩していくことが最大の目的であります。

「今、地域が抱えている問題に、果敢に挑戦していくのが私の使命」、「そして地域の発展の為に皆さんと一緒に政策を論じ合えたら、最高」、と勝手に本人は偉そうに、そう思っているのです。

一口に「教育」と云っても、ゆりかご(幼児教育)~(学校教育)~(社会教育)~から墓場(生涯学習)まで、それぞれ課題もあり、相応の対策を求められているのが現状です。すべて、人権教育(自由で平等な社会の実現)であり、これは社会保障や福祉の問題とも並行して捉えていかなければならないと考えております。いずれにしても「絵に描いた餅」では、前には進みません。

今週後半は、一方的にナガナガと私の主張を羅列しました。お詫びいたしますとともに、「ここがおかしいゾ!」と云う個所がございましたら、是非教えてください。

おしまい。


生徒を「やる気」にさせるには

2011-10-14 07:38:04 | Weblog

先生の側・立場から。先生も人間、気分のいい時・悪い時もあります。「生徒をやる気させるには、先ず、先生をやる気にさせる事」。

今さら、「教育の本質」をよく分かってみえる方に、差し出がましく述べては、失礼でもありますが、「人間的教育(子どもの命を育むこと)」に関しては、ナオザリにされているのではと思うケースがたびたび見られるのは残念であります。先生が先頭に立って子どもの人権を守り(人権尊重)、「イジメ」から子どもを救う、子どもと触れ合い・子どもをやる気にさせ、子どもの成長に夢を抱く、生き生きとした「人づくり」に心血を注ぐ先生の存在がどれほどいるかによって、学校の良し悪しが決まると考える訳です。

今回被災地のボランティアに出かけ、「地域の活力はどうやって活かされているのか」、自分なりに考えて参りました。

なんといっても、この災難からは逃れるわけにはいかず、何事も自分たちで解決しなければ前に進まず、それゆえ地域の団結力次第で甦ることも可能なんです。今の子どもたちにも、こうした地域づくりの体験を是非学習してもらいたい。家族はもちろん隣人を知り、地域を愛する心が芽生え、感謝の気持ちを抱く、これは大人になって素晴らしい体験として役に立つ。人間・人格形成にはこの「ふれあい」が実践力と共に豊かな心を育む絶好の機会ととらえる訳です。

もう既に、冬の「餅つき大会」に向けて、もち代を募り(チャリティー)、次につなげています。

「子ども時代は勉強せずに遊んでばかりで、よく親に叱られた。」と云う人がほとんど。今の学校教育に必要なこと、「学ぶ」ということは基礎的なこと(日本語もまともに喋ることが出来ない子に英語の学習にばかり力を入れる親が多い)、「遊ぶ」と云う事の中にも学ぶことはある。

「あれもダメ、これもダメ」の減点主義ではなく、子どもの健全な成長を願う親、先生であってほしいと願うばかりです。

今の「教育」について、私なりの支離滅裂な発言、お許しください。他にも言い足りないこともありますが、基本的なモノ「人づくり」が「教育」であり、今後の日本の成長を占うのは「教育」であることだけは間違いないと考えます。

続く。


不登校・いじめの問題、パートⅡ

2011-10-13 13:17:34 | Weblog

不登校・いじめの問題Ⅱ、その時代背景。

(2)、親・先生・地域の連携・協調が大事な訳

Ⅰの項では、不登校・いじめの原因は、「その子の対人関係の未熟さや親・教師との人間的つながりの希薄さにある」。

ゆえに、「教育の目的・学校教育は人づくりにある」と指摘させていただきました。

次に、その時代背景について考えると「現代の子どもたちが何を求め、何によってどう病んでいるのか」、を理解しないと解決するには程遠いモノになってしまう訳であります。

高度成長期の社会が残したモノ、利便性は向上しモノは豊かにそして情報があふれています。反面、物質文明のあおりを受け、親の過保護・干渉、享楽的社会風潮が自己中心的な傾向を強め、欲求不満だけが増大し、反抗心とストレス解消のため、子どもたちは大人(外部)が知らない「閉鎖的社会」の中で、「イジメ」問題を引き起こしているのです。

要は、高度に発展した現代社会の中で、我々大人が残した負の遺産、歪んでしまった後遺症であります。これらは、家庭・学校・社会が果たすべき役割を自覚し、後手後手に回ってしまった対策を今こそ真剣に論議されるべきであると考えます。

子どもを責める前に、大人がこれまで何をしてきたか、モノ・カネ中心の価値観では己の利害得失のみ、社会全体のモラルなどは二の次、親の責任逃れに終始してきたのです。教育に関しての親の願いは「イイ学校に入って、イイ仕事を見つけ、カネを稼ぐ」こと。

モノの豊かさのみを追求し、信頼、人への思いやり、親切心など顧みることなく、自分の存在や価値観の選択すらいい加減なものになっている。

今の「イジメ」問題は結局、親をはじめとする大人・社会の問題として反省すべきであり、そのためにも「学校の役割とは何か」・「地域の関わり方」、こう云った教育環境の改善・整備を真剣に論議すべきであります。

「イジメ」は、人権侵害の問題、決して許されるのもではありません。

そのために子ども本人・親・学校間の信頼関係、学校全体での取り組み、対話を重ねる事、地域との連携も必要、風通しのイイ教育環境が望まれます。

私も過去を振り返れば、劣等感も人一倍、恥ずかしい想いもしたし、偉そうに背伸びもしたし、反抗的になったり拒絶もしてきました。今となってはそれもいい思い出でしょうか。

「人と人がどう関わって行くか」と云う基本的な問題とするなら、やはり、「子どものことは子どもから聞くのが正解」でしょうか。

続く。

 

 

 

 


不登校やいじめの問題

2011-10-12 16:13:34 | Weblog

10月4日の「地元中学校の町内別懇談会」においての課題について、お問い合わせがありましたので、私の個人的な見解(独断的?)に基づき問題提起をいたします。

先ず、不登校・いじめ等の原因、キッカケについて、

この問題は人間同士(人と人と)がどう向き合っていくか、どう関わっていくか、という基本的な問題であります。

子どももいつまでも「子ども」のままではありません。成長するにつれて感情も豊かになり、反対に精神的に不安定な時期に入ります。(感受性が強くなる)これを「脱皮」と捉え、遅い早い・小さい大きいは有りますが、必ず来る。来なければ「大人になれない」まま、いつまでも親の寄生虫のように生きている人間になってしまうのでしょうか。(ピーターパン症候群)

家庭内の不和、もめごとを学校へ持ち込み、先生にも否定的に見られるともうそこには居場所すらないのであります。

そのうち、大量な知識の詰め込み、画一的な学習、授業が分からず、勉強することが苦痛。(偏差値教育の弊害)

詰め込み教育の弊害が伸び盛りの子どもたちの心の中にストレスとなって溜まり、家も学校も面白くなくなる。

ますます子どもたちは追い込まれ、親や教師に対する批判となり、それと共に子どもたちとの距離もますます遠くなる。

「落ちこぼれ」をつくるキッカケになり、これが人権侵害の問題「イジメ」を生む事になります。

おとな社会は、「イジメ」は当事者だけの問題で片付けるのが、一番簡単で楽な方法である訳です。

本来、「家も学校もたのしい」ところでなければならず、教育の目的も「人づくり」にあると考えるのは私だけでしょうか。

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 昨日早朝、地元中学・校門前にて「薬物乱用防止」活動の一環としてチラシ配り。

校長・教頭はじめ、サッカー部の顧問・先生、そして部員の生徒にもお手伝いいただきました。

皆、元気に礼儀正しく、頼もしく見えました。この生徒たちにとっては「学校」と云うところがとても楽しい、先生との対話も十分浸透しており、安心しました。サッカー部員には女子生徒(日本代表クラス?)も二人見えるとか、楽しみですネ。

この子どもひとりひとりの能力をいかに引き出し、伸ばしていくか、これこそが今後の「豊かな地域そして日本」になるかどうかの「瀬戸際」、教育の原点ではないでしょうか。偉そうなことを列記しましたが、、「親子・先生と教え子といえども、人間関係はどこまで信頼関係を築けるか(信頼関係が無ければおしまい)」、「日頃の対話がいかに大切か」、私はこれが言いたかったのであります。

その背景には、私には理解できない、もっと奥深いモノがあると思いますが、皆がその当事者になって解決法を探るのが一番の近道かもしれません。

続く。