子どもの発達障害について切り出すと、
「最近の親はしつけもせずに、何でも病気のせいにして……」と厳しい
批判を加える方がいます。
「個性よ。個性。昔は、発達障害なんて言葉はなかったし、
きちっと叱れば子どもなんてどの子もちゃんと育ったものよ」と言い張る方もいます。
多少対人関係に苦手があっても
親の仕事を継いだり身内の職場で雇ってもらえたりした時代なら、
親は安心して子育てできたはずです。
人付き合いが極端に下手でも、それはそれで素直に親の指示に従えて
良いと考えていたかもしれません。
しかし現在の厳しい就職事情のもとで、
社会人としてひとりで自立して生きていくためには
社会性のハンディーは死活問題です。
また貧しかった時代とちがって、だらしない服装をしているというだけで、
アルバイトで雇ってもらうことすら難しいのです。
偏屈で人嫌いで身なりに構わない人も
世間にはいろんな人間がいる~と、
それなりに仕事をして社会に受け入れられて生きていけた時代……
そんな時代なら、たとえ発達障害がある子であっても
成長過程のでこぼこを、個性とあきらめて育てていけばよかったのでしょう。
叱られても叱られても悪い癖がなおせずに、
しまいに2次障害になってアルコール中毒やギャンブル中毒になっても、
男とはそういうもの……男らしさのひとつの形として
理解されていた時代なら良かったのです。
しかし現在に生まれた発達障害を持った子は、
定型発達の子でも仕事を続けていくのが難しい社会を
自分ではコントロールできない部分に振り回されながら生きていかなければ
ならないのです。
子ども時代なら、親が親身になって、
克服しなければならないことを乗り越える手立てをしるしてもらえます。
だからこそ勇気のある親たちが
力を振り絞って病院に出かけたり、診断を受け入れたり、子どものためにできることを真剣に考えているのです。
子どもの言動がわからないところだらけなのに、発達障害についてわかってきた過去の貴重な知識の集積をあてにしないで、一個人の親が思いつくしつけ法で、何ができるといえるのでしょう?
叱ったり、罰したりするうちに
親子ともども追い込まれて、
たくさんの親子が繰り返してきた悪循環の渦にのまれるだけではないでしょうか?
「最近の親はしつけもせずに、何でも病気のせいにして……」と厳しい
批判を加える方がいます。
「個性よ。個性。昔は、発達障害なんて言葉はなかったし、
きちっと叱れば子どもなんてどの子もちゃんと育ったものよ」と言い張る方もいます。
多少対人関係に苦手があっても
親の仕事を継いだり身内の職場で雇ってもらえたりした時代なら、
親は安心して子育てできたはずです。
人付き合いが極端に下手でも、それはそれで素直に親の指示に従えて
良いと考えていたかもしれません。
しかし現在の厳しい就職事情のもとで、
社会人としてひとりで自立して生きていくためには
社会性のハンディーは死活問題です。
また貧しかった時代とちがって、だらしない服装をしているというだけで、
アルバイトで雇ってもらうことすら難しいのです。
偏屈で人嫌いで身なりに構わない人も
世間にはいろんな人間がいる~と、
それなりに仕事をして社会に受け入れられて生きていけた時代……
そんな時代なら、たとえ発達障害がある子であっても
成長過程のでこぼこを、個性とあきらめて育てていけばよかったのでしょう。
叱られても叱られても悪い癖がなおせずに、
しまいに2次障害になってアルコール中毒やギャンブル中毒になっても、
男とはそういうもの……男らしさのひとつの形として
理解されていた時代なら良かったのです。
しかし現在に生まれた発達障害を持った子は、
定型発達の子でも仕事を続けていくのが難しい社会を
自分ではコントロールできない部分に振り回されながら生きていかなければ
ならないのです。
子ども時代なら、親が親身になって、
克服しなければならないことを乗り越える手立てをしるしてもらえます。
だからこそ勇気のある親たちが
力を振り絞って病院に出かけたり、診断を受け入れたり、子どものためにできることを真剣に考えているのです。
子どもの言動がわからないところだらけなのに、発達障害についてわかってきた過去の貴重な知識の集積をあてにしないで、一個人の親が思いつくしつけ法で、何ができるといえるのでしょう?
叱ったり、罰したりするうちに
親子ともども追い込まれて、
たくさんの親子が繰り返してきた悪循環の渦にのまれるだけではないでしょうか?
やはりこの大丈夫、考えすぎという言葉はとても曲者だと思います。既にわが子の障害を受け入れて、改善に向けて努力されてる方を傷つけるのはもちろんですし、障害を疑って病院に一歩踏み出そうか悩んでいる方にもその勇気を鈍らせる言葉だと思います。
とはいえ、私自身、その言葉にすがってしまってつい娘を「もうすぐしゃべり出すはず」と病院に連れて行くのが遅れてしまいました。結果、1歳半健診で引っかかっていたにもかかわらず、適切な対応ができたのは4歳になってから。
ただ昔と違って一ついいことは今はネット社会、私のような1個人でもたくさんの情報が集められます。先生のブログもその一つだと思います。ぜひ情報発信し続けてくださいね。
なりました。その後、療育教室にも通いました。
「このまま発達が遅れたままだったら、息子の
将来はどうなるのか?」という不安と「しばらく
ずれば発達は追いつくから思い過ごしであって
ほしい、思い過ごしに違いない」という葛藤の中で
祈るような気持ちで日々を過ごしてしました。
そんな中、私がとった行動は、
夫と夫の両親に
「後に笑い話となっても、笑い話になればそれほど
良いことはないのでの、軽度発達障害の子供に
有効とされることはいろいろと取り入れて
いきます。
あの時に ○○していたらよかったのに・・・と
振り返り後悔しても時間は、取り戻すことは
出来ませんから」
と宣言したことです。
私の迫力に驚いたのか、その後幸いに 夫も
夫の両親も幾分協力的になってくれました。
現在、息子は息子なりに成長しています。
なおみ先生のブログに出会えたことも
心のよりどころとなっています。
少しグチらせてもらっても良いでしょうか?
私は発達障害児の親のサークルで…同じ道を歩くかもしれない後輩ママさん達の相談を受けたりさせてもらっているのですが、たまにママさん達のこだわりの強さに疲れてしまうのです。
受容がまだのお母さんは特に普通に対する憧れが強く、私は高望みをしてる訳ではなくて…普通に過ごして欲しいだけなのに!!とお子さんの障害を無かった事にしたい様に語られる人もいます。
私はカウンセラーでも何でもないので…その子の全てを大好きになってあげてね!としか言えませんが、本心はそのママさんよりも本来の自分を親にまだ受け止めてもらえないお子さんが気の毒だなぁと感じてしまいます。
でも自分は過敏になりすぎて、我が子の些細な問題に振り回されて一喜一憂してしまっていますが…。
発達障害の子ときちんと向き合うという事は、親が自分自身と向き合う事から始まるのではないのでしょうか…?
昔は親がそれをしなくてもきっと済んでしまう時代だったのでしょうね。
(発達障害であろう)四歳半の娘を持つ、(ADDであろう)母親です。
長年、自分の違和感や悩みを語源化してくれる「文章」や「人」などを探し求めて、人生をさまよい続け、こちらに流れ着きました。
今まで、何度か「この人なら分かってくれるかも!」と感じた相手に勇気を振り絞って、”自分が背負っている違和感”や”困っている事”、そして”自分は何かがおかしいと思う・・・”という事を正直に伝えてきました。
すると決まって、「きっと気のせいだよ。」「個性と思って受け入れて。」という、つれないお返事・・・。
もちろん相手に悪気はなく、本心であって、私が傷つかないように気を使って、そう言ってくれているのは分かります。
でも、そういう経験をする度に、なぜか、すべてを否定されているような気分になって、孤独感が増していいきました。
今思うと、他人の言葉は”目くらまし”のようなものでした。
でも、だからこそ、そのおかげで「自分の感覚を信じて」「行動する」という力を養ってこれたんだろうな~、とも思います。
人生、七転び八起きですね。
自分の目の視力が悪いことに気がつかず、壁にぶつかりながら歩き続けて、自尊心もボロボロになってしまいましたが、ようやく最近、捜し求めていた「自分にあうメガネ」に近いものに出会えるようになってきました。
本気で「今まで生きてて良かったなぁ。」と思います。。。
子どもの対応を信頼して相談できる相手には、まだ巡り合わず、先生の指導をぜひ受けたいと希望しています。
今は多忙で無理なご様子なので、いつかお会いできる時がベストなタイミングなんだと思って、”その時”まで精進していきたいと思います。
・・・”その時”を焦らずゆったりと待つことができるようになった事は、幼い頃と違って”自分は少し大人になったのかな・・・?”と、ちょっぴりうれしく感じました^^
ではでは、長くなってしまいましたが、お体に気をつけてお過ごしくださいね。
これからもブログ、楽しみにしています☆
「周囲の大人たちの捉え方がおかしい」私も思いました。
だから、診断に行くのも悩んだし、診断をもらう事で子どもにレッテルを貼ってしまうんじゃないかという後ろめたさも感じました。
つらいですね。怒りで心があふれそうになりますよね。
でも、現実なんです。一番苦しんでいるのは子どもだということが。
私は幸いにも10年ほど前に、アドバイスをくれた方の経験や、豊富な知識のおかげで今があります。
子どもの気持ちや、病気がわからずに、また、親や教師が否定することで起こるであろう2次障害を理解できた瞬間、考え方を変えることが出来ました。
時間はかかるけど、子どもにとって確実な方法を選ぶことが出来ました。
昭和の時代、子どもが多かったせいか、丁寧に子どもを観察できる人が少なかったように感じます。
私の通知表はいつも批判・否定ばかりでした。他の子みたいに上手に立ち居振る舞いが出来なかったから、精神的なストレスからぜんそくを発症し、いろんな事の逃げ道にしてました。ずるい子どもです。
だから、今、この時代、様々な分野の人が、周りにいる少し変わった子どもに注目し、生きづらさを理解してあげられる世の中になったこと、私はとても嬉しく思います。
たとえ、今、便宜上、しょうがい名や病名がついたとしても、少しずつ時代が動いているのも実感します。
病気から、リスクを持った個性だと言われる方も目に見えて増えています。
大学にも子どもの発達を学ぶ学部が本当に増えています。
時代は動いています。
昔苦しんだ経験をした人には、今の世の中の方が、苦しむ子どもたちの理解者が多くなってきたこと、感じませんか。