崖っぷちロー

チラ裏的ブログ。ここは「崖っぷち」シリーズ・あん○ーそん様とは関係ありません。レイアウト変更でいろいろ崩れ中

ユリイカ「ゲーム実況、そして刺身。」について2

2009-04-29 04:05:26 | ニコニコ動画・ネットとか
ユリイカ「ゲーム実況、そして刺身。」について1のつづき

(1)テレビ実況動画とゲーム実況プレイ動画について-問題提起
 さて、この問題それ単独で取り出した場合、問題提起は以下のように改変することができるだろう。なぜ、「テレビ実況動画」よりも「ゲーム実況プレイ動画」の方が普及しているのか?と。

(2)補助線-プレイ動画とゲーム実況プレイ動画の対比
 この問題について考えるにあたっては、プレイ動画とゲーム実況プレイ動画の違いについて考えることが補助線になるように思う。つまり、ただゲームをプレイしているだけの動画と、それに伴って実況者のお喋りが入っている動画との対比である。

 もちろん、このどちらにおいても、先に金田氏が指摘したインタラクティブ性→物語生成力という構造は共通している。プレイ動画であってもゲーム実況プレイ動画であっても、視聴者は別の物語を愉しめる。
 (金田氏は「物語生成力」としているが、「別物語生成力」の方が直感的かもしれない)

 しかし、ゲーム実況プレイ動画は、プレイ動画にはない別個の「別物語生成力」を有するのである。

 実は、ゲーム(そして、それを用いたプレイ動画)にあると指摘された「別物語生成力」は無限の別物語を生成できるわけではない。ゲームとして作られている以上、その制限の範囲内で、有限の可能性の中から別物語を生成するのである。
 
 これは、映画の著作物の固定性要件についての議論を参照した方が分かりやすいかもしれない。「プレイヤーは絵柄、文字等を新たに描いたりすることは不可能で、単にプログラム(データ群)中にある絵柄等のデータの抽出順序に有限の変化を与えているにすぎない」のである。(東京地判昭59・9・28)

 もっとも、これは原告を保護するための苦しい構成ではあるし、人間の認識の限界を超える有限なんて実質的には無限ではないかとも思えるのだが……

 これに対して、ゲーム実況プレイ動画では、ゲーム外の事情が、ゲームを通すことなく直接に物語を作り上げる。実況者が「実況」として喋る音声はゲームに内在するものではなく、ゲームプレイを「動画」として作成する過程でゲームの外側から介入してくるものであり、これが全く新しい物語を生成してしまうのである。
 (ここでは異なる2つの「物語」が出てきている)

 そして、音声なんてものはゲームに固定されていないし、有限ではないのだから、実況者は無限に別物語を生成することが可能なのである。

 プレイ動画=ゲーム自体の(有限の)別物語生成力
 ゲーム実況プレイ動画=ゲーム自体の(有限の)別物語生成力 + 外部環境の無限の別物語生成力 


 直感的にも、プレイ動画よりも実況の付いたゲーム実況プレイ動画の方がよりプレイヤーの個性が発揮されている(発揮しやすい)ということは理解できるだろう。

  (ただし、実はこの議論は音声による実況には限られない。たとえ実況していなくとも、字幕などによる演出にも当てはまるのである。その意味では、実況と字幕等との違いは、無限の別物語生成力を与える手段の差異でしかない)

 
(3)テレビ実況動画とゲーム実況プレイ動画
 さて、このような構図を前提にすると、テレビ実況動画とゲーム実況プレイ動画との対比は、

 テレビ実況動画=テレビ自体に別物語生成力はないor弱い + 外部環境の無限の別物語生成力
 ゲーム実況プレイ動画=ゲーム自体の(有限の)別物語生成力 + 外部環境の無限の別物語生成力

 という感じになるだろう。

 とすると、「別の物語だから」面白いという評価基準からすれば、テレビ実況動画が持っている面白さの源泉は、外部環境=実況でしかないということになる。
  (同じ物語でも複数回楽しめうるというのは当然の前提として捨象している)

 つまり、テレビ実況動画においては「実況」がその前面に出てこざるを得ないのである。
 (もちろん、ゲーム実況プレイ動画でも「実況」が前面に出ているのものはある。それ故に「実況付」を嫌う人も少なくない。)

 しかしながら、テレビというものは極めて「実況」がしにくいものである。単純に、テレビの音声と実況者の音声が被るからという理由がある。
  (これはフルボイスのゲームの実況のしにくさと同じである)

 更に、ゲームプレイで動画のクオリティを上げるという手法が通じない以上、テレビ実況動画では必然的に「実況」のクオリティを上げなければならなくなる。
 (ここでクオリティが高いと言うには、コミュニケーションとしての実況の上手さと共に、解説としての実況の上手さが加わるのではないかと思う。)

 つまり、テレビの音声の邪魔をせず、かつ、クオリティの高い実況しなければならないという、二重の困難さをはらんでいるのである。
  (VTRにコメントする芸能人が「上手い」と感じられる確率の低さを想起して頂きたい。)

 そして、テレビ実況動画における「実況」の困難さは、そのままテレビ実況動画のクオリティの低さにつながり、その反射として、テレビ実況動画の受け入れられにくさにつながるのではないか。

(4)まとめ
 テレビ実況動画では、テレビのメディアの特性ゆえに、「実況」が重要になる。しかし、テレビの「実況」は困難である。だから、良質のテレビ実況動画は作りにくく、視聴者に受け入れられにくい。したがって、テレビ実況動画はゲーム実況プレイ動画に比して普及していない。

(5)テレビ実況動画のあり方
 とはいえ、テレビ実況動画が皆無という訳ではない。

 例として適切かどうかは微妙だが、【マリみて】考察!俺の嫁を大実況するよ!!part1などがある。
 これは、アニメのOVA(だからテレビではないかも知れないが、本質は変わらない)を実況者が見ながら、適宜再生箇所をシークしつつ、このシーンがいいだの、このキャラがかわいいだのといった感想や解説を話しているものであり、極めて異色の動画でありながら5000再生されている。

 より適切な例は、商業製品に見出すことが可能である。いわゆるコメンタリーと呼ばれるものである。これはDVDのマルチ音声機能を利用し、スタッフ等が実際の映像に対してリアルタイムに解説したものを収録であり、国内外問わず映画やドラマ等で一般的な特典であり、作品の裏話や業界の事情も聴く事ができるものである。(はてなキーワード)
 
 先のエントリで書いたような「実況」の定義からすれば、このようなコメンタリーも「実況」であり、それを動画にすれば「実況動画」となるのである。

 で、コメンタリーが一般に成功しているのは、そこで話している「人」に価値があることが多く、それが「実況」の価値につながるからでしょう。内容がただの雑談であっても、好きな俳優・声優がやっているから聞くという人も一定数いるでしょう。そこでは、実況の上手さとは異なる別の価値が生じていることになる。
 (一般人であっても、固定のファンを多く持つ者にはあてまるでしょう。)
 

 また、動画形式ではなく、テレビ実況「配信」ということになれば、その実況の難易度はかなり低くなると考えられる。
 
 実況者が視聴者と同じテレビ番組を同時に見ながら、実況者があれこれテレビについて喋れば「テレビ実況配信」であると言えるだろう。

 これは、みんなで(リアルに一緒になって)テレビを見るのと変わらないものであって、テレビの音声の阻害が許容限度内であれば、あとはコミュニケーションさえ出来ていれば「実況」の質は緩くても受け入れられやすい上に、みんなが初見の番組であればメディアの特性としての別物語形成力の弱さが問題にならなくなる。

 この形態であれば、コメンタリーにおける実況者ほどの知名度が無い者であっても、比較的視聴者に受け入れられやすいのではないかと思われる。
 (また、未放送地域でのオルタナティブとしての現実的な需要もある)

※初見のテレビの実況動画と、初見のゲームの実況プレイ動画との差異については、もっと考える必要があるかもしれない。現状では、実況の困難性しか理由がない。

ユリイカ「ゲーム実況、そして刺身。」について1

2009-04-29 01:48:24 | ニコニコ動画・ネットとか
先日されたユリイカ4月号は「RPGの冒険」を特集したものであり、ゲームに関心のある人にとって非常に面白そうなものある。それを、今日になってようやく読むことができた。図書館に入るのが遅すぎる

そこで気になったのは、金田淳子「ゲーム実況、そして刺身。 ゲーム実況プレイ動画についての覚書き」という論考。まぁ、論考と言うよりも、ゲーム実況プレイ動画に関する議論をギュッとまとめた記事と言った方がよいかもしれない。コンパクトに7頁ほどにまとめられており、大変読みやすい。

とはいえ、公のメディア(特に雑誌)でのゲーム実況プレイ動画の取り上げられ方としては、今まででは一番大きいかもしれない。また、その雑誌が「ユリイカ」であるというのも価値があるように思う。

さて、金田氏は、この限られた紙面の中で、<問題提起-回答>という形式を繰り返し、実に効果的に議論を展開している。

その中でも面白いのが、なぜ、クリア済みのゲーム実況でも見るのか?あるいは、クリア済みだからこそ好んで見るのか?という問題提起である。

これに対して、金田氏はゲームというメディアの性質に内在的理由を求めている。つまり、ゲームにはインタラクティブ性がある。だから、ゲームではプレイの度に物語が生成される(一回性)。ゆえに、自分のプレイした物語と他人がプレイする物語は異なる。「同じゲームだけど、別の物語だから」面白いとするのである。
なるほど、もっともだろう。
 (私は以前、権利者とゲームの関係から一回性について言及しています。実況プレイ動画に適したゲーム?2)

そして、この<問題提起-回答>の構造の中には、もう一つ別の問題提起が置かれている。
なぜ、「テレビ実況」ではなくて、「ゲーム実況」なのか?
というものである。

上述の文脈の中で、金田氏は、ゲームのインタラクティブ性を浮かび上がらせるために、ゲームとテレビを対比させたのである。しかし、実はこの問題提起それ自体が、非常に面白いのではないかと私には思える。
 (金田氏は「ゲーム実況」という言葉を使っているが、これはゲーム実況プレイ動画のことである。ゆえに、「テレビ実況」も「テレビ実況動画」ということになるだろう。)

つづくユリイカ「ゲーム実況、そして刺身。」について2


***5月5日追記
「しんすけ ユリイカ」で検索される方が多いようなので追記しておきます。
今回と次回のエントリで取り上げたこの金田氏の論考では、「しんすけ」を例として取り上げ、ゲーム実況プレイ動画が持っているゲームの批評性について説明しています。内容的には、アライユキコ氏が米光一成のブログ内で書いたこの記事と同趣旨です。
ゲーム実況で実感する堀井雄二の凄さ

コレに加えて、本論考では最後の2頁で金田氏おすすめのゲーム実況プレイ動画を紹介している。具体的には、はるしげ、しんすけを初めとするゆとり組について。

ゲーム実況プレイ動画における「実況」の意味

2009-04-29 00:00:32 | ニコニコ動画・ネットとか
通常、私たちはゲーム実況プレイ動画という名称について疑問を持つことはないでしょう。しかし、もう半年ほど前ですが、某掲示板において「実況プレイ動画というけど『実況』していないじゃないか」という旨の書き込みがあった。
 (そんなに前なのは、このエントリを書く機会がなかなかなかったから)

どうやら、このレスを書いた人は、野球中継などの実況と比べているようだ。
なるほど、たしかに野球中継の実況と聞いて私たちが一般にイメージするようなことをしている人は少ない。
 (全く居ない訳ではない。過去には、競馬実況を模した動画を配信している方もいらっしゃった。)

(1)スポーツの一般的な実況で行われていること
 そこで、まず、スポーツ中継等で行われている一般的な「実況」について考える必要がある。

 辞書的には「実況」とは現実のありのままの姿。実際の状況。を言うらしい。これは対象そのものを指しているだろう。今問題にしているものとはすこしズレるようだ。よりぴったりくるのは、「実況放送」の辞書的定義だろう。
 「実況放送」=実際の状況を、その場から直接ラジオやテレビで放送すること。

 そして、この辞書的意味での「実況」こそ、スポーツ番組等で主に行われている「実況」だろう。例えば野球中継にしても、実況者が話す内容というのは、現実に起こっている事態をそのまま視聴者に伝えるものである。誰々がバッターボックスに入っただの、第○級を投げただの。 
 
 ラジオにおける野球中継の実況においてもっとも明確に分かることだが、これらの「実況」というのは、音声によって特定の情報を他者に伝えること目的とするものである。
 この意味での「実況」の受け手は、その音声情報によって頭の中にその場面を思い浮かべることが可能となるし、この種の「実況」が行われているのは、そもそもそのようにして情景を思い浮かべさせるためでしょう。

 そうすると、辞書的意味における「実況」=スポーツ中継的「実況」というのは、情報伝達を目的としたものであると言えるでしょう。
 
 そして、このような意味における「実況」をしているゲーム実況プレイ動画は少ないというのは確かでしょう。その意味で、先に取り上げたレスの指摘は当たっている。

(2)ゲーム実況プレイ動画における実況
 では、一般のゲーム実況プレイ動画で行われている「実況」とはなんなのか?それを考えるには、そもそもゲーム実況プレイ動画とは何かというのを考える必要がありそうである。

 ゲーム実況プレイ動画の発展2でも少し言及したように、ゲームをしている様子を他人に見せるというのは何も珍しいことではない。子どもたちが集まってゲームをするというのは以前から日常的に行われていたものである。このようなプレイ環境にゲーム実況プレイ動画の源を求めることができるだろう。

 そして、そこではもちろんプレイヤーも見ている者もワイワイおしゃべりをするのが普通でしょう。この周りにいる友人たちと交わす会話というものは、例えば「ボス倒したぜ!」というような報告をすることこそあれ、決して「○○が敵にダメージを与えたよ」というような細かな情報を逐次伝えることを目的としたものではない。

 そこでは他愛のないおしゃべりが行われているのであり、その話題がゲーム内容についてのものである場合もあれば、学校での出来事の場合もある。はたまた今日の晩ご飯について話す場合もある。
 
 つまり、私たちはゲームをしながら他人とのコミュニケーションを楽しんでいたのであり、けっして情報伝達目的で話していたのではなかった。

 さて、このような原風景的なものにゲーム実況プレイ動画のルーツを求めるならば、そこで視聴者を念頭において行われるお喋りや発言というものも、コミュニケーション目的であるとは言えないだろうか。
 (動画それ自体のみを見れば単なるリアクションやつぶやきにすぎないと思えるものであっても、視聴者のリアクションやコメントが付けられることでコミュニケーションとして成立するだろう。)

 つまり、ゲーム実況プレイ動画における「実況」とは、コミュニケーション目的のものなのである。

(3)「実況」という名称
 さて、このように考えるとしても、では、なぜこれを「実況」と呼ぶのか。コミュニケーション目的のお喋りなら「雑談」と呼称してもいいのではないか?現に「雑談プレイ」などと自称する「ゲーム実況プレイ動画」も存在するのである。

 これを考えるに当たっても、やはりゲーム実況プレイ動画の沿革を遡る必要がある。
 ゲーム実況プレイ動画の発展で書いたように、現在のゲーム実況プレイ動画はピアキャストやVIP・何でも実況板での各配信に遡ることができるだろう。これは、誤解を恐れずにいうと、2ちゃんねる的文化に属するものとも言えるだろう。

 このように2ちゃんねるにまで遡って来たとき、同じく2ちゃんねるの文化である、テレビ番組の「実況」文化が頭の中に浮かび上がってくる。

 2ちゃんねるでは各テレビ局ごとに「実況板」が割り振られており、視聴者は放送されている番組を見ながらリアルタイムに感想などを書き込むのである。「キタ━━━━━━(゜∀゜)━━━━━━ !!!!!」などが古典的書き込みであろうか。

 そこでは、番組の内容などの情報を伝達する目的での書き込みはあまり見られない。もちろん、番組内に出てきた人物などを取り上げることもあるが(「幼女キター」など)、それは情報伝達の為と言うよりも、ネタとして消費するためである。時には、放送されている番組と全く異なる話題について話していることすらある。

 この実況板では、情報伝達目的での書き込みというのはほとんど見られず、むしろコミュニケーション目的やその他の雑多な書き込みが行われており、これらが総じて「実況」と称されているのである。
 
 これは、アニメ板におけるルールの中で表れる「実況」という単語の使い方を見ればより明確になる。アニメ板では実況が厳禁とされているが、そこで禁止される「実況」は「視聴しながら書き込む行為」と定義されている。ここではもはや書き込みの目的や内容については全く考慮されずに総称されているのである。

 これをゲーム実況プレイ動画に持ってくるならば、ゲーム画面を前にして喋る行為は、その目的や内容にかかわらず、「実況」と総称できることになる。
 (但し、なん実板では複雑なことになってしまう。

  動画等の配信者=「実況」者の行為について書き込む行為=「実況」となる。そこでは2つの異なる「実況」が存在するのである。)

 したがって、テレビを見ながら表現すること全てを「実況」と呼ぶ文化の下流で、ゲームを見ながら話すこと全てを「実況」と呼ぶ文化が出来たのではないかと考えることができる。とすると、ゲーム実況プレイ動画において行われているコミュニケーション目的での発言も、ゲームを見ながら話されるものである以上、「実況」と称されることになるのである。

(4)おわりに
 とはいえ、情報伝達目的とコミュニケーション目的は互いに排斥しあうものではない。スポーツ中継の実況者も雑談をするし、「実況者」も状況を適切に伝えようとすることは多々あるのである。
 
 さらに、「実況」として行われるものは、何もこの2種類に限られる訳ではない。

 いわゆる「解説動画」と呼ばれるものは、そのゲームの熟練者などがゲームのルールや戦略、勝ち方のコツなどをまさしく解説しているのであり、これはスポーツ中継における「解説」にあたるものである。このような解説も、ゲームを見ながらの表現であるから、「実況」と総称される中に含まれるのである。

 このように、ゲーム実況プレイ動画における「実況」は、コミュニケーション目的、情報伝達目的、解説目的などを含んだものなのである。

 さて、翻ってスポーツ中継の実況を考えると、実はこれも情報伝達目的だけではないのである。これら3者が融合しており、ただ、情報伝達目的が前面に出てきているというだけなのである。

(5)まとめ
 広義の「実況」=ゲームを見ながら表現すること全て
  ├狭義の「実況」=スポーツ中継的実況=情報伝達目的の表現
  ├コミュニケーション目的の表現 →ゲーム実況プレイ動画における「実況」の中心
  ├解説目的の表現
  └その他の表現

週刊オブイェクトについて

2009-04-23 00:39:32 | その他・趣味
言わずと知れた軍事系有名サイトの「週刊オブイェクト」ですが、最新のエントリが少々議論をよんでいます。
作家・大石英司のダブルスタンダードを実行した人達


(1)一連の流れ(適当)
3月23日の記事について、その言葉遣いに対して苦言を呈する人がいた。
ところが、JSF氏からすれば、それは予測通りのものであり、
3月21日の記事が布石になっての現象であるという。

3月21日の記事は、とある作家に対する批判記事で、その趣旨としては、
「マスコミによる政治家批判」を肯定しつつ「マスコミへの批判」を否定するのはダブルスタンダードであるとして、
とある作家の態度を批判するものであった。

そこで、JSF氏は試みとして、3月23日の記事ではマスコミを批判し、
3月25日の記事で政治家を批判する記事を書いてみて、その反応を伺ったのだという。

このような仕掛けを仕込んでおいたところ、
「マスコミへの批判」である23日の記事についてのみ、苦言を呈するコメントが付いた。
このような現象は、まさに21日の記事で批判したところの、ダブルスタンダードの表れであるという。

これを受けて、JSF氏は、
>私は、ハスミさん及びそれに同調した人達に、
>3月25日のMD記事にも3月23日のファランクス記事と同様の書き込みを行って、私の物言いを非難して欲しかったです。

と述べている。

で、この記事を受けて、コメント欄では大石氏に対する批判とか、
苦言を呈した人に対する批判が書き込まれている。

(2)私の立ち位置
誤解を受けるといけないので、私の立ち位置を明記しておくべきでしょう。

私は、「週刊オブイェクト」の記事について、ここ半年~1年くらいのものは大体見ている。
私は、JSF氏に対して良い印象を抱いており、他者からすればおそらく「擁護派」に属するだろう。
 但し、熱心に布教活動をするほどではない。
私は、「週刊オブイェクト」はより多くの人に閲覧された方が好ましいと考えている。


(3)本論
では、なぜそのような立ち位置である私がこのエントリを書いているのかというと、
私自身が、3月23日当時、記事への苦言を呈するコメントに(部分的に)同調したコメントを書こうとしていたからです。
(結局、コメント間の論争を読んでいてめんどくさくなったので書かなかったのですが。)

で、もはや後出しじゃんけんも良いところですが、
そこで書こうとしていた内容はまさにJSF氏が「あるべきだ」と考えていたものでした。
つまり、23日の記事のみならず、(25日記事も包含した)JSF氏の記事一般について、
余計な挑発的皮肉的表現は無い方が良いのではないかという主旨のコメント。

そのようなコメントを書こうとしたのは、
<余計な表現を省いて淡々と事実を指摘することに徹した記事の方が価値はより高いだろうし、
一般人にとってもより印象が良いだろう。ひいてはより多くの(一般人)読者を獲得できるだろう>との意図に基づいてです。


結果的には、JSF氏の仕込みに嵌った(ように見える)コメントしか現れなかったわけですが、
そこで指摘されている事柄自体は、決して小さなものではないでしょう。
ダブルスタンダード問題に矮小化されてしまうのはもったいないように思われます。


(4)念のために
上述のように、私は挑発的皮肉的表現は無い方が良いと書いたわけですが、
その一方で、そのような表現にある種の「小気味よさ・痛快さ」があることは否定できないだろうし、
この「小気味よさ・痛快さ」が一定の吸引力を持っていることも否定できないだろうと思います。

この2つの相反する評価が私の中にあるわけですが、
より多い読者を獲得するためにはという、お節介な観点からは……。

※通常、私はエントリ内で言及したブログ等に対してトラックバックは送りません。
 しかし、JSF氏に対しては、トラックバックを送るのが礼儀的に妥当だと思われますので、
 技術的に成功すればトラックバックを送ります。


***2009年4月23日1時50分追記
そうこうしている間にJSF氏が新しい記事を書かれた。
防御兵器であるMDを攻撃兵器扱いする反対派のロジックの問題点

奇しくも、私が以前取り上げたのと同じMD反対論に対する反論記事。
ミサイル迎撃反対運動について

当然のことだが、私のものとは比べものにならない。
で、極めて自意識過剰的に解釈するならば、この記事は私のエントリに対する批判としての機能を持つものである。

先に、私はJSF氏に対して「余計な挑発的皮肉的表現は無い方が良い」と書いた。
しかし、このMD反対論に対する批判記事としては、
むしろ私の方にそのような表現(と、くみ取れる表現)があり、
JSF氏の方が淡々と反論を述べている。
とすると、この比較において、私に対する「言動不一致(あるいは、ダブルスタンダード)」との批判が成り立ちうるだろう。

もちろん反論は可能である。
私が「余計な挑発的皮肉的表現は無い方が良い」と書いたのは、より多くの読者を得るならという趣旨からである。
ここで、私は、「週刊オブイェクト」については読者は多い方が良いと考えているのに対し、
自分のこのブログについては読者を多く得ることなど考えていない。
そのため、趣旨から考えるならば、「余計な挑発的皮肉的表現は無い方が良い」との指摘は「週刊オブイェクト」にのみ妥当するものである。

もっとも、この様に書くと、
「本当に読者を多く得ることを考えていないのであれば、そもそも大手サイトにトラックバックを送らないのでは?」
との疑問が生じるだろう。
この点については、上述のように、あくまでも礼儀的な観点からトラックバックを行ったものであると言う他はない。

さて、このような解釈を前提にすれば、
JSF氏に対するご挨拶と、このエントリの主張内容の伝達は(一応)完了したことになる。
したがって、このブログの原則形に立ち戻って、トラックバックを削除するべきであろう。

***2009年4月23日2時15分追記
と思ったが、どうやら一旦送ったトラックバックは消せないようだw

平成21年度全国学力テスト問題を見て

2009-04-22 22:52:33 | その他・趣味
21日に行われた全国学力テストの問題が今日(22日)の新聞に掲載されていた。
(平成21年度全国学力テスト 問題・正答例一覧)

この全国学力テストについては実施の是非を始め、成績の公開/非公開など、
様々な議論がなされており、なんとなく気にはなっていたものの、
私はいままで問題を見たことがなかったので、この機にちょっと見てみた。
といっても、めんどくさいので国語だけ。

印象として言えることは主に2つ。
第1に、従来の一般的な国語の出題形式ではないということ。
日本経済新聞の記事などでも指摘されているが、従来の国語のテストといえば
その中心はいわゆる(長文)読解問題だろう。
だが、学力テストの問題の中心は、それとは明らかに異なるものもある。
>①知識・技能等を実生活の様々な場面に活用する力や、
>②様々 な課題解決のための構想を立て実践し評価・改善する力などにかかわる内容を調査するもの

だからだろう。
国立教育政策研究所教育課程研究センター研究開発部学力調査課

例えば、小学生国語Aの大問7は、立場の違うもの同士の議論及び司会者の発言を呈示し、
そこでの司会者の議事進行の「良さ」を説明させる問題。

また、小学生国語Bの大問2は、統計資料をもとにした議論を呈示し、
そこで行われている議論の論者の立場を判断させ、
加えて、ある立場からの立論を考えさせる問題。

このような状況を題材にした問題というのを私はほとんど見たことがない。
おそらく、小学校段階でこのような問題に出会ったのは初めてだろう。

私は、常々義務教育において議論の仕方ないし論理(学)を教えるべきだと思っているが、
そのような教育に通じるものがあるだろう。
全国学力テストに対応した授業をすることについては批判が多いだろうが、
このような種類の問題に対応しようとうするものであれば、むしろ望ましいのではないか。


第2に、難易度としては決して難しくないということ。
問題の難易度としては、むろん、従来の読解問題と学力テストの問題を単純に比較することはできない。

しかし、学力テストの問題であっても、問題文や与えられた材料を注意深く読めば
問われている問題に対して答える事ができるのであって、
その点では従来の読解問題と共通であるとも言えるだろう。
その限りでの難易度の比較は不可能ではない。

あるいは、国語Aの大問1のような漢字の問題であれば、従来型のテストとの比較が容易であろう。

それで、全体の印象としては、(小学六年生にとって)それほど難しくないだろうという気がする。
あくまでも「感覚」だが。

なお、私が最近目にした比較材料は、私立小学校5年の長期休みの宿題(国語)と
某有名進学塾の小学校5年生の国語の演習問題。
まぁ、それらとの比較で言えば、はるかに簡単だといえるでしょう。
後者の演習問題など、むしろ中学生向けの学力テストの問題に難易度は近いかもしれない。

むろん、進学塾の演習問題は少数の優秀な児童向けのものであるから、
5年生用であるということを差し引いても、比較対象として適切ではないかもしれない。

しかし、私立小学校の宿題については、入試難易度的にも中堅よりちょっと下あたりの学校のものであるので、
5年生用であるということを差し引けば丁度よいのではないかと思う。

いずれにせよ、この程度の問題であれば、学力テスト対策がどれほど加熱しても、
「詰め込み教育」にも「学力偏重」にも到底なり得ないレベルのものだろうと思う。

上述したが、従来の国語の問題とは違う=中学入試の勉強とは違うという意味では、
かえって「詰め込み教育」対策になると言えるのではないか、とすら思えてくる。
(この意味で、そこまで難易度の高くない「センター試験」ともまた異なる性質であろう。)


***
全国学力テストについて、私から見て(も)問題点が2つある。
第1に、テストを実施する学年が小学6年及び中学3年であること。
この時期はいわゆる受験期にあたるので、単純に生徒も教師も忙しい。
私立の学校が学力テストに参加しない理由の一つになるだろう。

また、全国学力テストの結果を踏まえた学習指導をするにしても、
改善のために与えられた時間があまりにも短すぎる。
教育にフィードバックさせるのであれば、少なくとも1年は必要ではないか。
したがって、可能であれば、実施する学年は小学5年及び中学2年が望ましいのではないか。
(出題範囲との関係で問題があるならば、最悪、それぞれの学年末にやればいい。
 これは、後述するように、採点の迅速化が条件ではある。)

第2に、さんざん指摘されているように、結果がでるのが遅すぎるということ。
採点のブレをなくすために一括採点しているせいで公表が8月末になるらしい。

まぁ、一理あるとも言えるので、各校ないし各自治体に採点を任せるのは無理なのかも知れない。
しかし、中央に答案を送る前に各校で答案のコピーをとって「仮の」採点をするのであれば問題ないのではないか。
(第三者の立ち会いの下でのコピーならば、不正な操作もできないだろう。)

で、とりあえずは「仮の」採点を元にして生徒に対する指導を行えばよい。
採点の揺らぎは、統計的には問題になるのかしれないが、
生徒に対する指導に際しては無視できる誤差にすぎないと思う。


日本列島は日本人だけの所有物じゃない?2

2009-04-20 23:20:10 | その他・趣味
先日のエントリの続き。
先日、外国人の地方参政権について認めるべきとの見解を示した鳩山由紀夫氏ですが、
このニュースが少しずつ注目を集めているようです。

youtubeでは10万再生を突破し、産経ニュースにも取り上げられたようです。
民主党・鳩山 参政権 化けの皮が剥がれた?二コ動より引用転載
民主・鳩山氏「定住外国人に参政権くらい付与されるべきだ」

ですが、どうやらあの生放送で答えた内容というのは、
鳩山氏が前々から持論として持っていたもののようです。
わがリベラル友愛革命 <その1>
>何げなく私たちは、日本は日本人の所有物だと考えている気がするし、
>その暗黙の了解のもとに各種政策が遂行されているように思われてならない。
>しかし、思い上がりもはなはだしいと言うべきだろう。


これがあの「日本列島は日本人だけの所有物じゃない」につながるのでしょう。

で、この鳩山氏のページには、予想を上回る事が書いてあった。
>私などはさらに一歩進めて、
>定住外国人に国政参政権を与えることをも真剣に考えてもよいのではないかと思っている。

正直、文字媒体で公開している文章にこのような言葉があるとは思いませんでした。

むろん、この鳩山氏の見解が民主党の多数の意見という訳ではないだろう。
しかし、鳩山氏が外国人の地方参政権について肯定論を主張するとき、
その背景には外国人への国政参政権の付与が控えていると言うことは頭に焼き付けるべきであろう。

とすると、民主党政権下で外国人への地方参政権の付与が定められた場合、
次に国政参政権の付与の議論が進められることになるのでしょう。
 (もちろん、民主党内でもすんなり進まないだろうとは思いますが。)

地方参政権と国政参政権を分けて議論するべきとのスタンスに立つ場合、
学問的な議論であれば、両者の区別を貫徹していくべきなのですが、
現実的政治的な議論としては、両者は一つのものとして議論するべきなのかも知れません。


***
国政参政権を認めるとなれば、流石に憲法改正という話になるのでしょうか?

***
このニュースがヤフーにも載ったようです。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090420-00000605-san-pol

日本列島は日本人だけの所有物じゃない?

2009-04-19 00:37:16 | その他・趣味
先日、ニコニコ生放送で行われた民主党・鳩山由紀夫幹事長の討論が問題になっているようです。
民主党・鳩山由紀夫幹事長がニコニコ生討論会に登場!Part4

要は、定住外国人への地方参政権を認めるべきというもの。
考え方としてはあり得る話ですが、その理由がどうにも……

>むしろ、その定住外国人の話など は、税金を彼らは納めている訳ですよね、
>その地域に根が生えて一生懸命頑張っている人たちが たくさんいる訳です。
>その人たちに、むしろ参政権ぐらいは与える度量の広さをね、日本人として 持つべきではないかと。

税金を収めているかどうかということ、参政権を持っているということとは全くの無関係です。
日本人でも、経済的事情により税金をあまり納めることができない人もいますが、
だからといって参政権が否定されるわけではない。
他方、日本に住んでいながら外国に税金を払う場面も多々あるわけですが、
だからといって外国での参政権を得るわけではない。

また、政治家が「参政権ぐらい」と言うのもいかがなものか。
これが与党の政治家の発言であれば、各メディアで一斉に叩かれるでしょう。

それから、参政権を誰が持つかというのは、
憲法的な問題であり、かつ、国家の在り方そのもの決める問題であって、
「度量が広い/狭い」という話ではない。

>鳩:「アメリカなんかそうでしょう?もう。私は、アメリカの良さはそういう度量の広さ、
>色の白黒の 問題もありますけれどもそういった方々を全部乗り越えてね…」

なぜ、人種の問題とすり替えるのか?
日本でも、日本国籍を持つ黒人が参政権を持つのは当然です。

アメリカ国籍の黒人は本来参政権を持っていると考えるのではなく、
「度量の広い」白人から恩恵的に参政権を与えられているにすぎないのだと考えるならば、
それこそ差別的な物の見方と言わざるを得ない。

>日本列島は日本人だけの所有物じゃないんですから、
>もっと多く の方々に参加をしてもらえるような、喜んでもらえるような、
>そんな土壌にしなきゃダメですよ。

ここでいう、「日本列島は日本人だけの所有物じゃない」というのはどういう意味でしょうか?
まず、物権的な意味であれば、日本の法律は外国人が土地を取得することについて制限を加えていないので、
当然、日本国籍を有するもの以外の者も日本列島の土地を所有できる。

でも、そういう意味ではないでしょう。
じゃあ、どういう意味で発言されたのか?となると、私には到底理解できないのですが。

一つ言えることは、「国民主権」とは何かをちゃんと考える必要があるということです。
通常、主権は3つの要素に分解されるという話をしますが、
それが国民主権の話になると3番目の意味(最高決定権)との関連でしか議論されなくなる。

しかし、それは妥当ではないでしょう。
「国家」というものを媒介にして、1番目の意味(国家権力そのもの、国家が有する支配権。統治権)及び
2番目の意味(国家権力の最高独立性)と3番目とは関連付けて考えられるべきでしょう。

国民が国政の最高の決定権を有するのであって、
その国民に存立の基礎を置く国家が日本列島(等)を支配するのであり、
日本列島(等)において日本は独立しており、その他の支配を受けることはない。

むろん、経済的活動として外国人の参加は当然に必要なわけで、
外国人が住みやすい土壌にする必要はある。
しかし、それをもって直ちに参政権に結びつけるのは適切ではないでしょう。

原理原則として外国人に参政権を認めるべきかどうかという話もしないといけないし、
また、仮に参政権を認めることができるとしても(許容性)、
他の方法で日本を外国人の住みやすい土壌にすることができるのであれば、
あえて参政権を認める必要性はないということになる。


***
じゃあ、外国人に参政権を認めることはできるのかという問題です。
これは憲法的にはド論点ですし、国政レベルでは禁止、地方レベルでは許容
というのが最高裁の(一応の)考え方でしょう。

しかし、地方レベルで許容されているのというのは、
あくまでも傍論ですので、法的に意味のある判断ではない。

国民であることを前提として、その中での住民自治を考えるべきという見解も
十分に成り立つ。
この様な禁止説に対しては、従来、国政と地方政治との違いを強調する反論が多かった。

外交、国防、幣制などを担当する国政と住民の日常生活に密接な関連を有する公共的事務を担当する
地方公共団体の政治・行政とでは、国民主権の原理とのかかわりの程度に差異があることを考えると、~

といういうようなもの。(いわゆる「四人組」。高橋・野中等「憲法Ⅰ」有斐閣)

確かに、程度問題で言えば、そこに差があることは否定できないでしょう。
しかし、地方が(例えば)国防などと全くの無関係ではないという事実を看過するべきではない。
基地問題における地方自治体の発言力(や権能)を考慮するべきでしょう。
国防、あるいは安全保障という問題は、独り国家のみが関わる問題ではなく、
地方自治体も密接に関係してくる問題です。

また、道州制の議論なども先行きは不透明であり、
従来国家の領分とされてきた問題が地方に腑分けされる可能性もある。
その様な場合には、地方だから住民の日常生活がメインなのだということは言えなくなる。


このような、従来の憲法学の議論では考慮されてこなかった問題、
建前的には想定したくないような安全保障の問題を踏まえた上で、
さらなる議論が必要でしょう。


***
なお、私は、参政権を分割するべきではないと考えている。
つまり、国防についての参政権を否定するが、福祉等については認めるという議論は否定されるべきと考えています。

この点は、東浩紀さんの議論とは異なるところでしょう。
東浩紀と鈴木健飲み会


ねとすたシリアス/ゼロアカ第6関門

2009-04-18 03:22:25 | ニコニコ動画・ネットとか
遅ればせながら、「ねとすたシリアス」第1回前編を見ました。
NHKの番組「ザ☆ネットスター」の制作会社が展開している「ねとすた☆あねっくす」内の動画。

普段の本放送では語れないような部分まで深く語っていこうというもの。
メンバーは、立川談笑さん、白田秀彰さん、濱野智史さん、黒瀬陽平さん。

なんで東浩紀でないの?って思いましたが、
濱野さんと黒瀬さんが出るなら、逆に東浩紀は出ない方がいいのかもしれないw


***
動画の最初の方は濱野さんの「アーキテクチャの生態系」を読んでくださいといった感じ。
3刷まで行っているらしく、やはり好評のようですね。
この本、高いというコメントもありましたが、内容を考えると決して高くはないと思います。


中盤、「キャラクターがニコ動に放り込まれるとキャラクターが中心にならない」
というのは、いまいち分かったような分からないような。

「涼宮ハルヒ動画に『踊ってみた』タグが付くと~」って話も、
確かにキャラクターが中心では無いけれど、メタを経るんだから当たり前のような気もして……
初音ミクに関しても、確かに関係のない動きも多数あったけど、
やはり真ん中にはミクが居たのでは?という気がする。
ここは文章で読まないとダメかも知れない。

タグの話は、思想地図2号の濱野論文の入口の話。

白田先生の著作権法の話は面白い。
著作物-作家(性)-著作者-著作権者の流れが切れるのだろうということ。
タグについては、題号のようなものとして処理せざるを得ないだろうし、
「(著作権法が)機能しない」というのはその通りなんでしょう。


お金の話はかなり難しいのでしょう。
少額課金しかないような……?
コメントでは「パトロンの分担化・共同化」見たいな話もでていて。
一口馬主の延長で考えていいものやら。

「大作」問題については、そもそも「大作」とはなんぞやというところに行ってしまっていましたが。
個人で使える技術がいくら発展しても、組織体はその上にいけるわけで、
やや楽観的な印象。


***
「どれだけの人が見てくれるのか、わかりませんが」という危惧もあるようですが、
公開して1週間、ニコ動で大体2000再生くらい。
これに公式を足せば、2500再生くらいは行っているのでしょう。

この企画の目標がどの程度なのか分かりませんが、
まずまずの「成功」なのではないかと思われます。


***
蛇足みたいなものですが。
ゼロアカの第6関門の内容が分かりましたね。
途中の原稿は全部公開って大丈夫なのか?
一万部は厳しいような気がします。

「新聞の役割」とは?

2009-04-17 20:09:30 | その他・趣味
>読売新聞の編集幹部や記者が講師を務める「読売新聞特別講座」が16日、
>名古屋市昭和区の中京大学で開かれ、北村行孝・中部支社編集担当が
>「新聞の役割と新聞社」と題し、総合政策部2~4年の約40人に講義した
「新聞の役割」 中京大で解説 ――読売講座

新聞離れをなんとか食い止めようという活動なのかもしれません。
新聞側がそういう努力をすること自体はなにも特別なことではありませんし、
むしろして当然のことでしょう。
ですが、その内容(として記事になった内容)が……。
 
>北村編集担当は「好きなニュースだけを読むネットニュースは偏食になりがち。
まず、ここでいう「ネットニュース」とは何を指すのか。
ネット上のニュースには新聞社や通信社、テレビ局等が提供しているニュースもあるが、
それすらも否定するというのか。

確かに、独自の取材に基づいたネット上のニュースの信頼性はいまだ高いものではない。
しかし、それのみを取り上げて新聞というメディアと比較することは適切ではないだろう。

信頼性の高いニュースや低いニュースが混在しているという状況、
Googleなどがニュースをまとめるサービスを提供していること、
ネット上での検証活動が行われていることなど、
様々な要素を総合的に考えなければ「ネットニュース」について考えていることにはならないだろう。


で、内容。新聞であっても、偏食する人は偏食する。
反対に、ネットニュースであっても、
例えばGoogleニュースのように多くのニュースをまとめているサイトを隅々まで見る人なら、
ネットニュースでも偏食になるとは言えない。

もちろん、現段階では新聞に載るニュースの全てが電子化されているわけではないので、
新聞よりもネットの方がニュースの量は少ないのかも知れない。
しかし、電子化されないニュースというのは相対的に些末なニュースといえるだろう。
些末なニュースを読む人は新聞購読者の中でもそんなに多くはないだろう。

また、重要なニュースを電子化していないというのであれば、
それは電子化の取捨選択段階の問題なので、それを改善すれば良いだけの話。

>バランスもよく、情報の真偽など品質管理も厳しい新聞は、社会の『標準食』。
バランスについても同じ。
GoogleやCNNなどのニュースサイトにはいろんなカテゴリーがあることを踏まえての発言だろうか。

加えて、今の新聞離れの原因の一つが信頼性の低下だということは無視しているのか?
ネットは各社のニュースを比較検討する手段としてとても優れているのであって、
新聞の「品質管理」のずさんさをさんざん暴いてきている(と思われている)。

まあ、あえてこの方の言葉を借りるなら、
<品質管理の厳しい新聞同士を比べるのだから、ネット上ではより高品質になりうる>
と言ったところか。

ネットニュースと新聞とを比較するならば、このようなネットの特性を無視するのは妥当ではない。

>スクラップすれば『保存食』にもなる」と情報を食事にたとえて説明した。
まず、ネットニュースでもそれを保存管理することは出来る。
その効率が悪いというなら効率化すればいいのであって、単なる技術的問題にすぎない。

また、保存量や検索性ということでは紙媒体は絶対に電子媒体には勝てない。
勝てるとすれば閲覧性の高さ、見やすさだろう。(ゆえに私は紙媒体が好きだ)


>最後に、「新聞を読んでいるといろんな相手と話をするのに役立つ。
>内容がわからなくとも社会常識の取得や就職試験にぜひ活用してほしい」と締めくくった。

これは確かにその通りでしょう。
新聞を読んでいるとコミュニケーションの役に立つ。

が、これはニュースの信頼性がどうこうという話ではない。
コミュニケーションのための「ネタ」の一つになるという話にすぎない。
アニメオタクがアニメを「ネタ」にコミュニケーションをするのと本質的には同じ。

ただ、重要なのは、年配の方は未だに「新聞」を読むのが普通だということ。
相手にあった「ネタ」を選ぶ必要がある以上、それはアニメよりも新聞の方がより適切だろう。
そういう意味でも、就職試験に役立つ。

また、確かに「社会常識」の取得にも役に立つ。
もちろん、就職などに必要な「社会常識」を共有し、発信する側に居るのが新聞だからという話。



八王子サバイバルゲーム場問題

2009-04-15 01:16:36 | その他・趣味
数日前から問題になっているのが、八王子市の某所にサバイバルゲーム場を開設していいのかという問題。

サバイバルゲーム場「怖い」 計画説明会で住民猛反発
>八王子市中山地区のサバイバルゲーム場設置計画に住民らが反対している問題で、
>地元住民らでつくる青少年対策中山地区委員会(篠原由紀子会長)は11日、
>地元の市立中山中学校体育館で経営会社側を呼んで住民説明会を開いた。

某掲示板では設置反対派と肯定派(と中立)が議論を交わしている。

が、議論自体については、反対派がかなり不利。
騒音とか安全性、環境破壊とかいった現実的な問題点については、
基本的にクリアーすることが可能らしく、論理的な反対理由はなかなか出てこない。

法的な問題についても、現状では障害はなさそうとのこと。
(業者側の不手際も色々ありそうだが、未だ「反対」を基礎付ける程ではない)

なので、反対派が依って立つのは「感情」ということになる。
「気持ち悪い」とか「怖い」といったようなもの。
これは事実に基づかない偏見なので、反対理由にはならない。

(もちろん、感情論でも具体的事実に基づいたものであれば一定の説得力はあるだろう。
 当該業者が以前にずさんな運営をしており、周辺住民と深刻なトラブルを起こしている場合など。
 まぁ、これなら同時に安全管理の体制に問題ありと言えそうですが……。)

もっとも、「感情論といえども無視できない」という意見もある。
確かに、感情論で物事が決まってしまうことが多々あるというのが現実だ。
しかし、この種の感情論を是認するということは、偏見を肯定することに他ならない。
偏見というのは差別を生む基礎の一つなんで、究極的には差別を肯定することになってしまう。


とはいえ、なんとなくだが、結局このサバイバルゲーム場を開設はできないだろう。
しかしまぁ、現代社会に生きる身としては、
<理性の敗北>のようなものを感じざるを得ない。

***
但し、「地価が下がるのではないか」という指摘については、
その程度や、他の事例での対応例などをちゃんと検討する必要がありそうではある。


***2009年4月22日追記
ここ数日、この問題に関連して検索される方が増えているので、
何か新しい動きでもあったのだろうかと思ったのですが。
軽くニュースを検索しても、いまいち新しい動きは掴めませんでした。

j-castニュースが4月21日に関連記事を配信していますが、新しい動きは特にない模様。
ただ、スーパーモーニングだかでこの問題が報道されたらしいので、
それに関連しているのかも知れない。
この記事では、各出演者のコメントが見られます。
住民と「戦争」状態? 「文教地区」にサバイバルゲーム場

特に価値のあるコメントはないのですが、強いて言うなら大沢孝征先生が、
>「住民の承認がないと好ましくないという行政指導にはなるでしょうが、
>法律にふれなければ何でもいいというわけじゃない」

と言っていること。
弁護士の目から見ても、行政指導ぐらいしか考えにくいということでしょう。

また、ZAKZAKが4月14日付けの記事でサバイバルゲーム愛好者の意見を紹介しています。
Sゲーム“主戦場”生き残りへ…愛好家が援護射撃

なお、私としては、千葉県の方でサバゲー場に対する行政の指導が行われていることが気になる。
サバイバルゲーム場“反則” 無許可で建物
>千葉県内の二つの有料ゲーム場が、市街化調整区域内に無許可で建築物を設置し、
>同県が都市計画法に違反するとして撤去を指導している



***2009年5月14日追記
今更ですが、このサバイバルゲーム場の計画は撤回されたらしい。
サバイバルゲーム事業会社「トリガートーク」(八王子市)は28日、
八王子市役所で会見し、計画の全面撤回を明らかにした。

八王子サバイバルゲーム場 計画全面撤回

撤回理由は、
(1)予定地山林に保育園児の通る散歩道がある
(2)住民の反対が予想以上だった

などらしい。

(1)は、私人の土地を無権利者が勝手に通っているだけだろうし、
反対理由として適切ではないだろう。
まぁ、実質的には(2)のせいでしょう。
その反対理由が正当であるかどうかはともかく、反対の圧力に負けたというところでしょう。