鮎と戯れて・・・魚族に感謝

東北地方を中心とした短い夏のあまり多くない鮎釣りの記録。家族に感謝して。近くの広瀬川の環境等にも拘るも、オフは時事問題も

あの日から8年2ヶ月

2019-05-11 13:51:34 | 思いつくまま

 

       

 きょうの今までの最高気温は 19.6度 のようです。お昼前に記録しています。きのうは午前7時で 19.5度 でした。そしてきのうの最高気温は26.7度にまでなりました。

 

        

 それでもきょうはかなり暖かく、というか暑く感じるのはなぜでしょうか。暑さにも慣れてきたといっていいのかな、なんて思ったりして。

 

       

 

 

       

 今朝の朝日新聞の一面の写真です。衝撃的ですね、二重に。 カワウが稚鮎を食べていること、そしてこのような主観の写真を撮っているということに。さすがプロのカメラマンですね。脱帽です。 この頃この近辺の広瀬川ではカワウの姿を見ませんが、もしかして下流域に移動して、遡上した小さい鮎を食べていたりして・・・・。

 

 きのうは3月10日でした。当たり前ですよね。3月10日は翌11日と共に日本人なら忘れてはならない日といっていいと思います。そうです、一晩で10万人が焼き殺された東京大空襲の日です。

 東京大空襲といえば、忘れてならないのは作家の早乙女勝元さんです。毎年この日に朝日新聞の声欄に投書していました。きのうの新聞はほぼ一面を使って「語り継ぐ東京大空襲」と題して、インタビュー記事が載っていました。

 民立民営の「東京大空襲・戦災資料センター」館長を、6月で退任するとのことです。

 『死者にとっては、原爆だろうが、通常の爆弾だろうが同じです。一晩で10万人が殺された東京大空襲は、世界最悪の無差別都市攻撃です。』

 『その後の湾岸戦争もイラク戦争も、掲げる大義はどうあれ、空爆の下の庶民がどんな目に逢っているかの想像力が欠けていませんか。』

 『(空襲で被災した人に謝罪や損害賠償を求める空襲集団訴訟の)法廷で国は「民間人とは雇用関係がなかった」などと主張しました。補償の義務はない、というわけです。でも国家総動員法で民間人も戦争に巻き込み、防空法で民間人に棒か義務を課し、逃げ出せなくしていたではないですか。うちのおやじはあの夜、竹製の水鉄砲を背負っていました。バケツリレーや水鉄砲でB29の焼夷弾攻撃に立ち向かえ、と命じておいて、戦後はほったらかしです。』

こ の言葉を改めて肝に銘じておくべきです。国も軍隊も国民を守ってはくれませんでした。それは今もそうではないですか、もしかして。 

 東京オリンピックなんかにうつつを抜かしていていいのですか。東京オリンピックなんて高いお金を払って見に行く人の気がしれません。テレビ放送で十分です。そのお金のほんの少しを融通して都立の東京大空襲を記録するセンターを立てるべきではないですか。仙台でさえ「戦災復興記念館」があります。

 

 きょうは5月11日、あの日の月命日です。あの日から8年2か月が経ちました。8日の天気のいい日に名取市の閖上に行ってみました。閖上は日に日に大きく変わっている、あの日大きな犠牲を被ったまちです。

 

                    

 行くたびに変貌しています。だから時々は言っていてその日の記録をしておくことは大事ではないかなと勝手に思っています。

 

       

 なんといっても被災した佐々重のビルが解体されました。名取大橋を渡るともうそこら一面は工事中でして、ダンプカーが一杯動いていますし、工事や作業に従事している人たちの姿もとっても多いし、道路には交通整理の人の姿も目立ちます。

 

        

  

 道路は幅広く舗装されつつあります。この周辺の復興が完成した暁にはいったいどんなことになっているのか、想像ができなくなってしまいます。想像の域を超えています。

 

 

 

 その中で変わっていないところが一つだけあります。どこでしょうか? そうです、山とは言ってもとっても低い“日和山”です。山自体と山頂(というのもはばかれますが)は変わってはいません。

 

       

 

 その日和山から撮った写真を見ていただいています。

 

        

 

                     寄り添いお地蔵さん

      


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