鮎と戯れて・・・魚族に感謝

東北地方を中心とした短い夏のあまり多くない鮎釣りの記録。家族に感謝して。近くの広瀬川の環境等にも拘るも、オフは時事問題も

青葉カワセミ会員の皆様へ

2006-07-11 21:39:40 | お知らせ

 今日入った情報です。

 江合川は冷水病が発生している。  

 白石川は、漁協内部の問題があって(組合幹部の使い込み?)、今年の放流量はないか、あってもほんの少しだったとか。放流用の鮎を購入する資源がなくなったとか。

 釣具店に問い合わせると、「下流部には天然ものがいるから、下流で竿を出したらどうか」といわれるとかいうことです。  

 

 いい情報としては、秋田県の皆瀬川は釣れているということです。

コメント (1)
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戦争が起きませんように!

2006-07-11 21:19:09 | 思いつくまま

 おとといの深夜から昨日の早朝にかけて、仙台市もアメリカ空軍のB29による空襲を受けました。市街地の大半が焼け野原になってしまいましたが、空襲による死者は1300人近く。

 昨日10日は仙台市主催の戦没者慰霊祭が厳かに執り行われました。

  昔、いつも過去のことばかり書いていますが、20年くらい昔、親父が元気だった頃、仙台空襲のときの家族の状況を聞いたことがあります。細部は忘れてしまいましたが。

 戦争中は、街の中心近くに住んでいたこともあり、焼夷弾で付近は焼き払われました。

 私は、当然戦後生まれで、その時は家族の一員ではありませんでした。

 当時は父母と父の姉、そして二人の娘(私の姉)の5人家族でした。

 空襲のとき、何故か母は一人で逃げたようです。怖かったのでしょう。その後も、父はその件では母を怒っていました。そういえば折に触れて、思い出したように言っていたような気がします、この時期に。

  それで父は二人の小さな娘を抱えて逃げなければならなくなり、南の方に逃げ、最終的には広瀬川に避難したそうですが、途中、子どもが水を欲しがった?ためか、近くの裁判所に入って水を飲ませたと言っていました。

  今にも焼け死にそうだったとか言うことはなかったようです。  以上です。

 もっといろいろあったような気がしますが、思い出せません。

  子どもの頃は、戦争中の遺跡とでもいうべきなのでしょうか、防空壕が広瀬川の崖に一杯掘られていました。中に入れる防空壕には、入って遊んだりした記憶があります。怖かったけど、何かしらひきつけられるものがありました。

 防空壕には、また、浮浪者が住んでいる防空壕もありました。興味本位で中をのぞいたり、からかったりしたこともありました。

  戦争中の遺品?としては、機関砲の薬莢が1個ありました。丁度大きさは線香立てにそっくりでした。実際にずーと線香立てとして使っていました。真鍮製か、重くてがっしりしていました。今でもあります。何故家にあるのかはわかりません。

  戦後、引越しをして現在地、広瀬川に近いところに住むようになったのですが、私にも記憶があるのですが、自宅向かいの空き地を畑にしていたとき、土の中からなと「ごぼう剣」が出てきたことがあります。白兵戦のときに歩兵銃に装着する剣です。切るよりは刺す剣。これはその後どこかに行ってしまいました。

 ここは昔から、江戸時代から伊達藩の練兵場でしたし、第2師団の司令部の近くでしたので、兵隊は一杯いて、敗戦のごたごたで兵器なんかも打ち捨てられたりしたものもあったことでしょう。

 

 そして平成時代になりましたが、鮎釣りをしていて、何と、言っていいものかどうか迷いますが、鉄砲を見つけたこともあります。

 大きさ、長さからいって歩兵用の三八式歩兵銃と思われます。もちろんすっかりさび付いていて、銃床等の木製部分はありませんし、撃鉄等も動きません。重いです。

 敗戦のドサクサで河原に、川の中に捨て去ったのでしょうか?  

 しかも、1丁ではありません、数年かかって、1丁ずつ見つかって、計3丁もみつかりました。

 うち2丁は三八式歩兵銃と思いますが、もう1丁はちょっと銃身が短い鉄砲です。騎兵用の銃なのでしょうか?

  仙台空襲の話しから、脱線してしまいました。

 何はともあれ、空襲でなくなった方には心からご冥福をお祈り申し上げます。 合掌。


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