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世界と日本のボーダー文化

The Border Culture of the World and Japan

映画評 ヴィセンテ・アモリン監督『汚(けが)れた心』

2012年06月27日 | 映画

「勝ち組」を生み出す社会の歪み

『汚(けが)れた心』 監督/ヴィセンテ・アモリン

越川芳明

 第二次大戦直後のブラジルに暮らす日系人のあいだの「抗争」を扱った映画だ。

 ブラジルへの日本人の移住は、周知のように、一九〇八(明治四十一)年にさかのぼる。笠戸丸に八百人近くが乗り込んで、神戸からサンパウロ州のサントス港へと向かった。大半は貧しい契約農民であり、コーヒー園の労働で得るはずの資金をもとに、故郷に錦を飾ることを夢見ていた。永住のためでなく、数年のあいだ出稼ぎすることが目的だった。だが、労働環境や賃金は予想をはるかに下まわるものであり、帰国できずに現地にとどまらざるを得なかった。

 さらに、バルガス大統領の政権下で、日本人学校や日本人の集会は禁止され、日本語の新聞も発行を禁じられた。それゆえ、日系人のあいだの意思疎通が妨げられた。やがて太平洋戦争の勃発により、ブラジルは日本と国交を断絶。日本政府の関係者はブラジルを離れてしまった。

 冒頭に、見逃せないシーンがある。日系人のコロニアで写真館を営むタカハシは、富士山の天幕をバックに写真を撮ってあげようとしている少女に、どうしてポルトガル語を話さないの、と訊かれる。

 タカハシは毅然として、「日本人だから、ポルトガル語を話さないのだ」と、答える。

 それは、ブラジルに渡った日本人の多くが、母国語で暮らすことができる環境にいたということを示唆している。

 それだけでなく、日本人としての矜持を表わすタカハシの言葉の陰には、ブラジルを後進国と見下してきた日本人移住者たちの取り違えた優越感もかいま見えるし、また、日本政府によって置き去りにされたことからくる不安や焦燥感も感じられる。

 戦後しばらく、ブラジルの日系人社会はひどい混乱に陥った。ラジオなどで日本の敗戦を知った、少数のいわゆる「負け組」と、日本の戦勝を信じる大勢の「勝ち組」に分かれた。

 「勝ち組」は、「臣道聯盟(ルビ:しんどうれんめい)」という国粋主義的な武闘派を中心にして「負け組」に対して暴行や殺人を働き、三万人以上が容疑者として逮捕された。

 タカハシも「勝ち組」の一人として逮捕される。同じく日系人であるアオキが、通訳として尋問に立会い、警察とタカハシのあいだを取り持とうとする。だが、タカハシにとって、アオキは裏切り者にしか映らない。

 タカハシは「日本の勝利を信じられない奴は、日本人じゃない。お前は心が汚れている」と、アオキを非難する。

 タカハシにとってアオキが憎いのは、敵の言葉を話すからである。そうしたタカハシの心の中には、日々の労働に追われ外国語を習う機会を与えられなかった者の、「知識人」階級に対する恨みがあるのかもしれない。

 「國賊」の二文字が何度かスクリーンに現れる。軍や国策に非協力的な者に対する襲撃を予告するかのように、「負け組」の人の家の壁や、子どものノートに、落書きにしては不気味すぎる丁寧な字体で書かれている。それをもっと分かりやすい言葉でいえば、タカハシが通訳アオキを痛罵するために言い放った「非国民め!」だろう。

 本作でこうした国粋的な精神を強く体現しているのは、奥田瑛二演じる元日本陸軍大佐のワタナベだ。ワタナベは、禁じられている日本人による集会を主宰するが、ブラジルの軍事警察に踏み込まれ、リーダーのガルシア伍長によって、軍服の勲章をはずされる。ガルシア伍長は、その場に掲揚されていた日章旗をおろし、それで軍靴の汚れを落とす。そうした屈辱的な行為を受けたワタナベは、タカハシをはじめとする青年たちをけしかけ、ガルシア伍長に制裁をくわえようと保安官事務所におもむくが果たせず、矛先を「負け組」に向ける。

 問題は、普段は穏健そうなタカハシのような人物が、なぜ殺人行為にまで走ったのかということだ。

 祖国の敗戦を言いつのった者を「非国民」として殺害するには、敗戦を自分自身の敗北として受けとり、それをかたくなに拒絶する心性がなければならない。言い換えれば、それを認めてしまえば、自分の人生が台なしになってしまうような切迫感がなければならないはずだ。

「勝ち組」による襲撃事件の背後には、日系人たちのあいだの貧富の差があったと言われる。ひょっとしたら、異国で社会の周縁に追いやられていたという意味で、彼らは、本当のところ「負け組」だったのかもしれない。

 ヨーロッパのいくつかの国では、「負け組」的な貧困層のネオナチ化が進んでいるという。彼らと同じように周縁に追いやられている移民への迫害が後を絶たない。

 また中国や韓国の国力が増すにつれ、日本では若年層の国粋主義的な発言がネットなどで増殖するようになった。

 自国の「勝ち」を信じ続けたい人々がどうして生まれるのか。社会の歪(ひず)みを考えるうえで、この映画はきわめて今日的なのかもしれない。

(『すばる』2012年7月号、398-399頁)

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