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映画評『ノルウェイの森』

2010年12月06日 | 映画
「他者」のいない映画--トラン・アン・ユン監督『ノルウェイの森』
越川芳明

 たとえグロテスクなシーンでさえも、美的なコーティングを施すことによって耽美的で叙情的なシーンに転化するのは、トラン・アン・ユン監督の得意とする手法だ。

 ヴェネチア国際映画祭グランプリ受賞作の『シクロ』(1995年)は、社会の底辺で生きている姉弟を視点に据えながらも、戦後ヴェトナム社会に特有の階級やジェンダーの問題を脱色することで、社会批評の精神を失った作品だった。

 社会の周縁に追いやられた「他者」の視点からのエッジの効いた社会批評がまったく見られない。
 
 最新作『ノルウェイの森』でも、冗漫といえるほどに「叙情」に流れるそのスタイルは変わらない。

 二時間以上もオリエンタリズム(一種のジャポニズム)に毒された独りよがりの「饒舌」に付き合わされるのは、たまらない。

 一見物語とは関係のない叙情的なショットがよく出てくる。

 たとえば、風に揺らぐ草原の風景、公園の中の泥水の池の中を泳ぐ鯉の姿、直子が療養のためにとどまる京都山奥の四季の風景など。そうした叙情的なショットを「喪失」というこの映画の主題に関連させて解釈することはできるだろう。

 だからといって、どうなのだろうか。

 なるほど、「僕」がアルバイトで肉体労働をしていたり、学生運動のために大学の授業が途中から討論の場に変わったりするなど、冒頭で示される「1967年」という時代性を反映するショットも出てくる。

 だが、それらも、美しい遠景にすぎない。主人公の「僕」の内面に深く刻印を残すようなものではない。
 
 精神病を病んだ直子は、『シクロ』の自転車タクシーの青年と同様、社会で周縁に置かれた「他者」である。

 そうした「他者」を配しながら、高度成長期の日本社会のひずみに関する何の啓示も見られない。

 これはこの映画がいみじくも露呈させた村上春樹の小説の本質だ。

 実は、「僕」にとって最大の喪失とは、直子の死でもなければ、キズキやハツミの死でもない。

 僕自身の「青春」である。

 「僕」は、キズキや直子の喪失を経て、大人になってゆく。

 喪失した大切な人の記憶を抱えて生きてゆくことを選ぶ。

 言い換えれば、小説や映画で描かれる「喪失」のプロセスは、「僕」が大人になるための通過儀礼(イニシエーション)なのだ。
 
 だから、直子という精神病患者は、生きた「他者」というより、「僕」の通過儀礼に欠かすことのできない、「他者」の顔をした「舞台装置」でしかない。

 直子は一人の男の大人への通過儀礼といった「寓話」にとって有効な「装置」として使われているだけなのだ。

 やがて自殺を選ぶ直子が予め「僕」に「人生が18歳と19歳を行ったり来たりしていたらいいのに」といったようなことを述べているが、それは生きてゆくことを選ぶ「僕」の人生観とは対照的なスタンスだ。

 まさに、直子が生きた人間と言うより、「装置」である所以(ゆえん)である。

 「喪失と再生」という青春小説特有のテーマを扱った村上春樹の小説『ノルウェイの森』を社会性の欠如したトラン・アン・ユン監督が選んだというのも、不思議ではない。

 だから、この映画は何も知らない若者にとっては人生を学ぶためにちょうどいい教材になり得ても、大きな喪失を経験したことがある大人の鑑賞には値しない。

(『キネマ旬報』2010年12月号、30ページ)
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