摂氏911

自然な生き方をめざす女性が、日々のできごと、感じたことなどをつづります。

老子の言葉へのシンクロ

2008-11-30 15:02:46 | エッセー
今朝の北陸中日新聞「けさのことば」に、
老子の言葉を見つけました。

「あともどりするのが『道』の動き方である」
(『老子の思想』張鍾元、上野浩道訳)

「これは、どこにあったっけ?」と思って、
手もとの『老子・列子』(奥平卓、大村益夫訳)を
久しぶりに開いてみました。
上の言葉がどこに書いてあったかを確認するより、
あらためて深く共感する言葉が多いのに驚きました。
いくつか現在の社会状況に照らし合わせて、
特に響いた文章を抜粋します。


「才能などというものを重視さえしなければ、競争はなくなり、
人民は安らかに生きられる。
道徳などというものを強制しさえしなければ、心を偽る必要がなくなり、
人民は自然の情愛に立ち返る。
商工業などというものを廃しさえすれば、欲望をそそるものがなくなり、
人民は盗みをしなくなる。
才能、道徳、商工業の三者は、いずれも作為であって自然に反する。
すべて取るに足らない。
治世の根本は、人民の本性を回復するにある。
すなわち、無心にさせ、私欲をなくさせることである」

「一国の政治は、農夫を手本として行うべきである。
農夫は、作物の自然を全うさせる。つまり、自然の理に従うのである。
自然の理に従うことは、徳を内に深く体することにほかならない。
徳を深く体すれば、いっさいの不可能は消滅する。
不可能が消滅すれば、無窮の境地に到達する」

「国は小さく、人口は少ない。たとい人並みすぐれた人材がいようとも、
腕をふるう余地すらない。
住民はすべて生命を大切にして、遠くへ足を伸ばさない。
舟にも車にも乗る必要がないし、武器も使い道がない。
文字を書いたり読んだりするこざかしさを忘れて、
ひたすら現在のままの衣食住に満足し、生活を楽しんでいる。
手の届きそうな隣の国とも、絶えて往来しない。
これが、わたしの理想郷である」


ちょうど夕べ、あるMLで世界各地の子ども達へ本を寄付している
社会起業家の話を読んでから、教育の功罪について
寝床でうつらうつら考えていました。
教育に「罪」なんてあるの?と思われるくらい、
教育は絶対的な善と神聖視されている気がしますが、
私は老子とかなり似た見方をもっています。

それは、以前テレビのドキュメンタリーで
ヒマラヤのシェルパたちが子どもを大学に行かせたいから、
登山ガイドよりグルカ兵というイギリス軍の傭兵の職を希望する人が
多くなった、というような内容の話を見たことがきっかけでした。
ヒマラヤの素朴な生活に大学の教育は本当に必要なのか、
そんな必要性が疑問なものに対して、
それだけの犠牲を払う必要はあるのか、
とても疑問に思ったのです。

親のすねをかじりまくって、高いレベルの教育を受けさせてもらった者が
こんなことを言うのはどうかとも思うけど、
高いお金を払って行かせた大学で得られる知識・技術は
今地球や人々を追い詰める社会を作り、維持するために
使われているように思います。
もちろん、そうではない方向を目指した知識・技術もありますが、
そもそも老子が言うように無為自然な生き方をしていれば、
そんな知識や技術もいらないのではないのでしょうか。
老子の言う「現在のままの衣食住に満足し、生活を楽しんでいる」状態は、
ガンジーの言うチャルカ(糸車)に代表されるような非工業化の
生活でもあると思います。


ガンジーの思想とのつながりを感じたり、
最近自分は作為が嫌いということに気づいたりしたのも、
今日久しぶりに老子の言葉をひもとくことに連なった
シンクロのような気がしました。
あらためてじっくり読んでみたいと思います。