詩集「2N世代」

詩作品、短編、評論、エッセイ他: Blogタイトルと内容がこの数年異なってきた。タイトルを変えたほうがいいかもしれない。

五木の子守唄 : 今朝の夢

2010年11月22日 12時15分16秒 | Bruxelles talks

夢の中でか、目覚めていたのかよく分からない。五木の子守唄が浮かんできた。
そしてこの歌が死者の歌だと気づいた。
おどま盆ぎり盆ぎり 
盆から先ゃおらんと

盆が早よ来りゃ 早よ戻る
盆限りで、盆から先はいない。来年盆が早く来たら、その分また来年早くここに戻れる。明らかに死者が主語だ。
花は何の花
つんつん椿
水は天から 貰い水
花なら、その辺に咲いて落ちてくる椿、水なら、天からふる雨。それだけ貧しい何も無いということだ。そういう身分なのか?
おどまかんじんかんじん
あん人たちゃ良か衆
良か衆良か帯 良か着物(きもん)
これは分かりやすい。お金持ちはいい帯をしていい着物を着ている。「かんじんかんじん」がわからない。
早速歌詞とメロディーのペイジを探した。(こちらが元ペイジ
教えてgooで歌詞の意味を探してみる。
「かんじんかんじん」が物乞いのような貧しい身分であることはわかった。しかし
私(の子守奉公)はお盆まで、お盆まで
お盆が過ぎたら居ませんよ(実家に帰るんですよ)
お盆が早く来れば、早く(家に)帰れる
なんだかこの説明は納得できない。さらに探していると新釈なるものを発見した。私の夢と全く同じだ。
新釈:五木の子守唄 : 納得だ!

最後にYou Tube、山口淑子さんの歌で
五木の子守唄 山口淑子(李香蘭)
コ、コメントのなかに更なる新釈が。
この唄は旋律が大好きです。詩には昔の貧しさや悲しみが伝わって­きます。この唄の意味は、昔の貧しい農家などで凶作が続き食べ物が無いと­きは口減らしで子供を捨てました。男子は労働力で残し、幼い妹よ­り生命力がある姉が主にすてられたのでしょう。その捨てられた姉­が妹を思いながら死が近い日を待っている悲惨な歌ですね。
「おどま盆ぎり盆ぎり」...自分はお盆までしか生きられない・­・・ 
そしてやっと死者の主語が判明した。私である。妹のいる姉である。何故死んだら妹が悲しむことに思いをはせているかというと、私の死は確定しているからだ。口減らしの野垂れ死になのだ。
花は何の花
つんつん椿
水は天から 貰い水
道端で野垂れ死にする私に手向けられるのは、自然にポトリと道端に落ちてくる椿と、天から降る雨だけ...
盆になれば実家に帰るのではなく、自分の命が「盆限り」なのだ。

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二ヶ月ほど前。曽野綾子さんの「老いの才覚」を読んでショックを受けた部分があった。外国のある集落では、不幸な出来事があると、その村の高齢者がもたらした悪霊のせいだとされる。そこで罪として集落追放となる。追放された老人は野垂れ死にするらしい。不条理な掟であるが、何の疑問も無く実行されている。迷信を利用した「姨捨て」である。
私がショックを受けたのは、福祉に頼ろうとせず、それくらいの覚悟を持てというニュアンスで曽野綾子氏が「老いの才覚」に記述されていた事だ。
才覚とは、才のある人の覚悟、なのか。極貧ではなくなった日本人は、その分、それだけ甘いということなのだろうか。

参照:曽野綾子:「老いの才覚」
お読みになれば、私が感じたショックに関して
ある程度理解できると思います。著者はまず福祉のコンセプトを全く理解していない事。人間としての情が欠落している事。参照のBlogにあるように、最後は「自分は周りの人にタカル」と書いてあって、才も覚悟も、美意識も論理も吹き飛んでいる。



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