詩集「2N世代」

詩作品、短編、評論、エッセイ他: Blogタイトルと内容がこの数年異なってきた。タイトルを変えたほうがいいかもしれない。

天皇訴追を跳ね除けた資料作成 (4)

2013年12月06日 10時43分48秒 | 政治・経済資料

B.Fellers Memo to MacArthur Oct 2 1945.pdf:
B.Fellers Hirohitos Struggle to Surrender Foreign Service July 1947:
ご自分で翻訳されることをお勧めする。これを何度も読んだが、各自が自分で読解しなければ意味がないと思う。光のあて方、紹介の仕方、に戸惑うばかりだ。長い文章だが、ほんの少しだけピックアップする。クリックして拡大していただきたい。

天皇陛下が最初に敗戦を意識されたのは1945年2月、この日からロシアを仲介とする交渉の試みが始まる。

昭和天皇が激怒される場面である。内容が内容なので訳す気にはなれない。

大本営会議の面々を信用できないと、天皇陛下が密かに、鈴木貫太郎に心の内を吐露されている。

降伏するを知らない御前会議の出席者たちを前に昭和天皇は、、「祖国を裏切ったもの」として暗殺されるかもしれないと用心せざるを得なかった、と。

3月の東京、横浜の空襲のあと、鈴木貫太郎の頑張りもあって、御前会議の面々も平和を求めてロシアに仲介を依頼することのアプローチに渋々仮の同意を表明した。
(終戦に関してはロシアへの仲介依頼以外の発議・発案はない。)

on his own initiative,とあるように対ソ交渉は昭和天皇の主導のもとに、天皇自らのご意志で進められた。御前会議における戦争続行派の軍部を抑えて、暗殺の危機さえ感じながら、対ソ交渉にリーダーシップを発揮される。世に言う天皇陛下のご聖断、ご決断である。

連合軍と連合軍の出してきた条件を信じる。それをありのまま受け入れたい、と。

有名な「阿南よ。もうよい。心配するな。私には確証がある。」などはなく、阿南が叫びながら膝歩きして天皇陛下にとりすがる姿には驚かされる。それに対し陛下はdisdainful movementを示されるのみ。

この部分だけ突出して、Fellersの意見注入が見え見え。敗戦を受け入れ、終戦となれば、もはや武器・武力とは無縁になる。そうすれば永遠の平和を享受できる国になるだろう、とは! 敗戦→終戦→平和、と言葉を変えて、この時点では新(平和)憲法もないのに「敗戦」をすでに「平和」という語とすり替えている。
敗戦の決断は二つの原爆だと言われてきたが、終戦交渉がこのように平和を愛する天皇陛下の対ソ交渉に全依存していたとなれば、「とことんまですがりついてきたソビエトに、土壇場で裏切られ満州侵略されて、もはやそこまでと思った」=「ソ連参戦が日本のポツダム宣言受諾を決定した」という
長谷川毅氏の新説に、軍配が上がって当然となるだろう。日本の歴史認識は行事差し違えの連続である。
ご聖断の「断」は有無を言わさぬソ連による怒涛の日本人虐殺、日本人レイプ、国土侵略によってもたらされたということがわかる。
3ペイジにCarte Blancheという言葉が見える。ソ連に終戦の仲介を依頼するために近衛がモスクワに出向くときに天皇陛下が近衛に持たそうとした降伏条件である。そうなっていれば。共産ソ連や共産中国に与して、国家消滅まで英米と交戦し続けた可能性も、否定できない。近衛派遣の電報を4日間も無視して、しかも無視したままでポツダム会議にStalinもMolotovも旅立った。今から思えばそれは不幸中の幸いだったと言えるのかもしれない。

参照としてTel Quel Japonから過去記事を4本挙げておく。
World War 2 Manchuria Battle 追記多数
対ソ終戦交渉という井戸堀り
放置した二つの謎 その後:
前々から納得できなかった対ソ終戦交渉:

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対ソ敗戦交渉とは何であったか。岡部伸
1945年6月22日 の呼応:ご聖断
鈴木貫太郎の6月22日:ご聖断
対ソ連携という幻想:
(Western Communications Intelligence)
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参照:戦争終結をめぐる日本の戦略:
 
対ソ工作を中心として 庄司 潤一郎
参照:東京裁判 アメリカの最大の目的 
参照:The Atomic Bombs and the Soviet Invasion: What Drove Japan’s Decision to Surrender? :Tsuyoshi HASEGAWA
参照:敗戦後の「国体」危機と宮中の対応