詩集「2N世代」

詩作品、短編、評論、エッセイ他: Blogタイトルと内容がこの数年異なってきた。タイトルを変えたほうがいいかもしれない。

五木の子守唄 : 今朝の夢

2010年11月22日 12時15分16秒 | Bruxelles talks

夢の中でか、目覚めていたのかよく分からない。五木の子守唄が浮かんできた。
そしてこの歌が死者の歌だと気づいた。
おどま盆ぎり盆ぎり 
盆から先ゃおらんと

盆が早よ来りゃ 早よ戻る
盆限りで、盆から先はいない。来年盆が早く来たら、その分また来年早くここに戻れる。明らかに死者が主語だ。
花は何の花
つんつん椿
水は天から 貰い水
花なら、その辺に咲いて落ちてくる椿、水なら、天からふる雨。それだけ貧しい何も無いということだ。そういう身分なのか?
おどまかんじんかんじん
あん人たちゃ良か衆
良か衆良か帯 良か着物(きもん)
これは分かりやすい。お金持ちはいい帯をしていい着物を着ている。「かんじんかんじん」がわからない。
早速歌詞とメロディーのペイジを探した。(こちらが元ペイジ
教えてgooで歌詞の意味を探してみる。
「かんじんかんじん」が物乞いのような貧しい身分であることはわかった。しかし
私(の子守奉公)はお盆まで、お盆まで
お盆が過ぎたら居ませんよ(実家に帰るんですよ)
お盆が早く来れば、早く(家に)帰れる
なんだかこの説明は納得できない。さらに探していると新釈なるものを発見した。私の夢と全く同じだ。
新釈:五木の子守唄 : 納得だ!

最後にYou Tube、山口淑子さんの歌で
五木の子守唄 山口淑子(李香蘭)
コ、コメントのなかに更なる新釈が。
この唄は旋律が大好きです。詩には昔の貧しさや悲しみが伝わって­きます。この唄の意味は、昔の貧しい農家などで凶作が続き食べ物が無いと­きは口減らしで子供を捨てました。男子は労働力で残し、幼い妹よ­り生命力がある姉が主にすてられたのでしょう。その捨てられた姉­が妹を思いながら死が近い日を待っている悲惨な歌ですね。
「おどま盆ぎり盆ぎり」...自分はお盆までしか生きられない・­・・ 
そしてやっと死者の主語が判明した。私である。妹のいる姉である。何故死んだら妹が悲しむことに思いをはせているかというと、私の死は確定しているからだ。口減らしの野垂れ死になのだ。
花は何の花
つんつん椿
水は天から 貰い水
道端で野垂れ死にする私に手向けられるのは、自然にポトリと道端に落ちてくる椿と、天から降る雨だけ...
盆になれば実家に帰るのではなく、自分の命が「盆限り」なのだ。

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二ヶ月ほど前。曽野綾子さんの「老いの才覚」を読んでショックを受けた部分があった。外国のある集落では、不幸な出来事があると、その村の高齢者がもたらした悪霊のせいだとされる。そこで罪として集落追放となる。追放された老人は野垂れ死にするらしい。不条理な掟であるが、何の疑問も無く実行されている。迷信を利用した「姨捨て」である。
私がショックを受けたのは、福祉に頼ろうとせず、それくらいの覚悟を持てというニュアンスで曽野綾子氏が「老いの才覚」に記述されていた事だ。
才覚とは、才のある人の覚悟、なのか。極貧ではなくなった日本人は、その分、それだけ甘いということなのだろうか。

参照:曽野綾子:「老いの才覚」
お読みになれば、私が感じたショックに関して
ある程度理解できると思います。著者はまず福祉のコンセプトを全く理解していない事。人間としての情が欠落している事。参照のBlogにあるように、最後は「自分は周りの人にタカル」と書いてあって、才も覚悟も、美意識も論理も吹き飛んでいる。


2-暴力 Yvette Guilbert Quand on vous aime comme ca !

2010年11月20日 11時55分14秒 | シャンソン歌詞の男目線

Henri de Toulouse-Lautrec.
Yvette Guilbert Taking a Curtain Call. 1894.  
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シャンソン界において大Brassensに尖ったペン先を向けるということは想像を絶する蛮勇というものだったので、前回はいささか力んでしまいました。
 今回の歌は歌い方がコミカルで「男の暴力を受けて愛されていると喜ぶ女」の滑稽さを男がお酒でも飲みながら笑い飛ばそうというもので、解説の必要がないくらいに、男目線全面展開です。しかも歌っている歌手が女性で、女性に男目線を突っ込むわけにもいかないのです。但し作詞はCharles Paul de Kock、勿論男性です。この人は作家で、調べてみたらParis 19区にRue Paul de Kockという名前を冠した通りがあるくらいの有名作家だということが分かりました。シャンソンの作詞家としてはほとんど無名でした。ということはこの詩を選んで曲をつけた作曲家・創唱者である女性歌手Yvette Guilbert自身に「何を考えてるのよ」と、ペン先を向けることになってしまいます。
 このYvette Guilbert、シャンソン史に於いてはBrassensに勝るとも劣らない大歌手で男性シャンソン歌手の元祖がAristide Bruantならば、女性シャンソン歌手の元祖はYvette Guilbertだと言えるくらいの、シャンソン史には必要不可欠な重要歌手なのです。彼女には「Le fiacre」、「Madame Arthur」など今日でも歌われる大ヒット曲があって、彼女自身に関する資料は多いのですが、この曲「こんな風に愛されるなんて」に関しては、歌詞以外の資料はありません。自分で作詞したものではないにせよ何故、女性歌手がこんな歌を歌わなければならないのか、という謎を解かなければなりません。
 Yvette Guilbertは、ロートレックの筆になる彼女の姿で知られていて、それはまるで毛を毟り取られた、衰弱したカラスを連想させる酷いものでYvette Guilbertがロートレックに描かれた自分を非常に嫌がったのも充分に頷けます。
 Guilbertは1867年生まれで、博打好きの父親が妻子を捨てて家出したので極端に貧しい少女時代を過ごした、云々等と言う、経歴は長くなるので省略するとして(参照:「シャンソンのアーティストたち」 薮内久著)、貧相な身体つき、ステイジ上の客あしらいなどの点で、男性の観客を魅了するものを何一つ持っていなかった、ということは事実だと認めざるを得ません。
 そこで男性客に受けるためのマーケティングをしたのです。どんな詩にどんな風な曲をつけて、どんな風にどんな格好で歌えば(男を喜ばせることができるか)と。色気で媚びるのではなく①男目線の歌を②コミカルに歌うことによって、男の心理に取り入ったのです。その代表がこの曲です。①だけでも②だけでも駄目で、この①+②の着眼こそがGuilbertの飛びぬけた頭のよさであり、またそれは結果として彼女に海外にまで及ぶ大成功をもたらしました。大人気歌手になったGuilbertに接近し家族ぐるみで付き合うことに喜びと名誉を見出した著名人の中に、作家のエミール・ゾラ、作家のエドモンド・ド・ゴンクール、そして精神分析医のフロイト一家がいました。
 それでは以下にシャンソンの歌詞と拙訳を掲載します。
・・・・・・・・・・・・・・・
1. C'que j'suis heureuse, ma chère, j'en perds la tête
Ah ! Ce n'est pas d' l'amour pour plaisanter,
Du beau Raoul, j'ai su faire la conquête,
Je suis aimée et je peux m'en vanter.
Cet amant-là m'a déjà fait connaître
Le désespoir, les pleurs et cætera,
Il voulait même me jeter par la f'nêtre

{Refrain:}
Ah ! Quel plaisir quand on vous aime comme ça !
Quand on vous aime,
Quand on vous aime,
Quand on vous aime comme ça !

2. La première fois qu'il m'offrit sa tendresse,
Il me fit peur tant il roulait des yeux.
Et d'puis c' temps-là, quand y m'fait une caresse,
J'en porte la marque et j'ai les bras tout bleus.
A son désir, souvent je me dérobe
Car pour m'aimer je sais que cet être-là
Va m' déchirer mon jupon et ma robe.

{au Refrain}

3. Quand y m' soulève, pas moyen que j' m'échappe
Y m' serre si fort ah aaah j' perds la respiration !
Quand sur la joue, y m' colle une petite tape,
Tout de suite, tout de suite, ça m' fait comme une fluxion !
S'y m' presse la main, j' suis sûre qu'y va m' la tordre.
S'y m' touche le doigt, j' suis sûre qu'il l'écrasera.
IY ne peut pas m'embrasser sans me mordre.

{au Refrain}

4. Quand iyveut bien m'emmener à la promenade,
Selon des ch'mins couverts et poussiéreux,
S'y passe quelqu'un, Raoul devient maussade,
Il faut, tout de suite, tout d'esuite, tout de suite,
 que j' baisse les yeux
Si je m' retourne, alors, il faut voir comme
Raoul me pince en me disant tout bas :
"J' te casse la gueule si tu r'gardes un autre homme !"

{au Refrain}
・・・・・・・・・・・・・・・
1. 私とっても幸せ
のぼせちゃってる感じよ
戯れの愛なんかじゃない
あの美男のラウルを射止めたのよ
愛されているのよ、自慢できるでしょう
あの人は私にあじあわせたわ
絶望や涙やその他もろもろ
彼ったら私を窓から放り出したがってたわ
ああ、なんて喜びなんでしょう
こういう愛され方をする女って
こういう愛され方をする女って

2. 初めて彼に優しくされた時
私は怖かったわ、目をギラつかせてたんですもの
そのとき以来
優しくされたいと思うと結局痛い目にあうの
そしてね、腕中痣だらけなのよ
彼の欲望から逃げようとするのよ時々
だって私を愛してくれる時は
あいつったらスカートやブラウスを
引きちぎるのよ、もうわかってるの
ああ、なんて喜びなんでしょう
こういう愛され方をする女って
こういう愛され方をする女って

3. 彼が私を抱き上げようとすると
もう逃げられない
強く強く抱きしめるから、嗚呼
私、息さえできない
彼が私のほっぺをトントンすると
すぐに充血するのよ
彼が私の手を押さえると
いつもね、彼が手を捩じ上げることになるの
彼が私の指に触るとね
いつもね、ポキポキって潰れると思うの
彼が私にキスするとね
キスというより、噛み付いてくるの
ああ、なんて喜びなんでしょう
こういう愛され方をする女って
こういう愛され方をする女って

4. 彼が私を連れ出して
外を歩くときなんかは
誰もいない、人の知らない、ほこりだらけの道よ
誰か、男が通ろうとでもしようものなら
すぐに私は、すぐに、すぐによ
すぐに目を伏せなくちゃいけないのよ
もしね、私がその男を振り返ってみたら
ラウルはね
「ほかの男に目をやったら
お前の面をボコボコにするぞ!」って
小声でいいながら、私をつかまえて
動けなくするの
そういう目にあわなくっちゃいけないのよ
ああ、なんて喜びなんでしょう
こういう愛され方をする女って
こういう愛され方をする女って!

・・・・・・・(Bruxelles訳)・・・・・・・

 Guilbertの歌は、彼女が60歳台後半になって、滑り込みでレコード化に間に合いました。とは言えこの歌のまともな本人の動画はありません。この際なりきりYvette Guilbertさん達に「こんな風に愛されるなんて」を歌っていただきましょう。解釈も様々で、歌唱もGuilbertには程遠いですが、せめて雰囲気なりとも以下でご確認ください。(You Tube)
 
http://www.youtube.com/watch?v=nQ4GXuYkh68
  http://www.youtube.com/watch?v=qiyVg-dZ79c
  http://www.youtube.com/watch?v=hOMmKLoVyoI

 TVやラジオやPCが普及していないその昔、女が歌うこう言う歌を聴いて、男性の中には、本当に女はこうすれば喜ぶものだと思い込んでしまった人たちがいたのではないでしょうか。無邪気に信じ込んで、もてようと無理をして歌のように振舞った男達。その悪循環でまた女達は次第に拘束や暴力を愛情表現と勘違いしていったのかも知れません。
 昔のシャンソンはヒモや娼婦が登場人物の定番だったから、この歌も多分例外ではないでしょう。でも実際はヒモがみんなサドだったわけではない筈です。情報やマニュアルがあれば、もっとスマートに「恋愛の商売」が出来たに違いないのに、Guilbertの販促戦略のおかげで、気の毒にも不幸な錯覚に陥った男女の姿が、この歌から見えてくるような気がします。
 情報化社会が進行するにつれて、男が女にもてる工夫を学び始め、さすがにこういうシャンソンも次第に姿を消していきました。近年の情報のデジタル化は、昔のパターン化した「男の欲情を刺激し、男の願望に取入るだけの歌詞」をついに絶滅させました。この歌は、男の傘の下でしか女が生存できなかった時代、男の暴力が性的魅力として認知されていた時代があったことを、思い出させてくれます。DV(Domestic Violence)という言葉がその概念が浸透している21世紀にあっては、暴力の被害者を「コミカル」の対象にするなんて、たとえ歌の世界とは言え許容しがたい無体でしかありえません。

(追記)最後にGuilbertのルックスの名誉回復のため、私が以前彼女に関する記事に使ったとびきり美人に仕上がったポスターのあるアドレスを書いておきます。
 
http://blog.goo.ne.jp/correspondances/e/2b753e5cc7da8bff64d4af9ff747b555


1-2 凌辱 Georges Brassens : Le Gorille

2010年11月18日 22時40分48秒 | シャンソン歌詞の男目線

福本和也という航空推理小説の分野で大活躍した作家がいた。読んでいると、コクピットの中で機体を操縦しているような仮想体験が出来るので、福本氏のほとんどの航空小説は読了した。ひとつだけ気になったのは、どの作品においても、女性の愛に対する不信が根強くあり、主人公と女性との行為も甚だ復讐的匂いに充ちていた事だ。なにかトラウマがあったのだろうか?
 Brassensには、そのようなトラウマはなかったと思うし、また女性にももてたと思うのだが、男から自由を奪うワナのような肉体的存在としての女性に対して、やはり嫌悪感があったのではないかと思われる。塚本邦雄氏のBrassens贔屓は、この辺への共感に起因するところ、実は大ではなかっただろうか。塚本氏でなくとも、Brassensファンは日仏両国にも世界中にも圧倒的に多い。だから多くの先哲の方々からお叱りを受けるかもしれないが、Brassensの「ゴリラ」について一度女性の側からの感想を、蛮勇を持って述べてみたい。
 たとえ諧謔の歌と解しても、この歌詞は一般的に女性にとっては、実は充分に不快な内容なのだ。逃げ遅れた老婆と若い判事を嘲笑の対象にしているところは、歌詞としてその質において、貶し漫才ドツキ漫才と同一次元だ。笑いを目的とするならば、決して相手をその対象にしてはいけない。良質な笑いは自分を哀れな被害者にして、自分自身に失笑を向けなければならない。 
 蒲田耕二氏の「聴かせてよ愛の歌を」(清流出版2007年9月刊 P.360&P.361)によると、「この曲が慎ましく訴える、死刑廃止のメッセージに気づく者は少なかった」とある。若い判事を笑いものにしている最後の部分がそのメッセージのつもりなのだろうか。だとしたら、フォーク的メッセージソングとしても、その質は小学生以下の出来だと言わざるをえない。男性も女性も人間の扱いは当時はこの歌詞のような認識でも、平気だったのかもしれないが。だとしたら、なんと鈍な時代だったのだろうか。(注:実際ラジオでは1950年前半、3年間ほど放送禁止になっていたが、それは、猥褻と言う観点からであって、決して凌辱と言う観点からではなかった。信心深いBrassensの母もこの曲を嫌ったが、同じ理由からだった。)
 私の亡き友人のJacquesによると、これは死刑制度反対、それ以外何のつもりもない歌らしいが、そうだとすれば、重たい議論なのに何の説得力もない。なにしろ気の毒な目にあった判事を嘲笑するだけなのだから。(注:死刑廃止に関するシャンソンならむしろJulien ClercのL'assassin assassiné,歌詞Jean-Loup Dabadie、作曲Julien Clerc,をいつの日か取上げてみたい。)
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それでは、ざっと歌詞を検討してみよう。
1.おばはん達が、若く美しいゴリラと、ゴリラの肉体のある一部を、ものほしそうに眺めていました。という出だし。この歌詞からして、トラの、否ゴリラの威を借りた一般男性の日頃のトラウマの解消のような気がする。これだけでもLadyが聞いたら卒倒ものだ。そうとは気づかないかも知れないが、すでに凌辱は開始されている。
2.ゴリラの檻が突然開いて、ゴリラが出てきて「今日は童貞を捨てるぞ」とのたまう。主役の雄ゴリラの登場。おばはん達は既に下位の引き立て役である。
3.巡回動物園の経営者が出てきて「ゴリラは女を知らない」と叫び、それを聞いた人間の雌ドモは「せっかくのチャンスを利用しないで」逃げる。人間の雌ドモが、ゴリラの童貞をありがたがる?という今ならセクハラまがいのことが前提として歌われる。誰ですか、そこで「なかなか、面白い歌詞だな」って言ってるのは!それはあなたが、男性だからですよ。
4.もの欲しそうに眺めていた女ドモが逃げるのは、自己欺瞞だ。ゴリラは人間よりいいのだから、怖がって逃げるなんて、馬鹿げていると、多くの女が言うだろう、ときたもんだ!ゴリラは人間よりいい等と、女は馬鹿だから思っているだろうという推量。どこまで愚弄したら気がすむのだろうか。
5.若い判事とヨレヨレのばあさんが逃げ遅れる。ゴリラはノッシノッシと二人に近づいていく。どちらを笑いものにしようか、という極めて趣味の悪い作者(Brassens)の快感の挿入。
6.まさか、よれよれの私に来るこたぁないわいな、と期待しつつもばあさんは思い、まさか僕を雌ゴリラと間違うわけはあるまい、と若い判事は考える。続きを見れば、この男の判断が間違いなのだが、と歌われる。(ここから死刑廃止論か?)判事が間違う者として登場するわけ?判事を笑いものにするための伏線。inespéréの訳をどうしようか時間をかけたが、同じ予想外でも肯定的に使用される場合が多い語なので、望外の、と訳した。セクハラここに極まる。
7.あなたがゴリラの立場だったら、どちらを選びますか?と聞いて、万一僕がゴリラだったら、そりゃばあさんの方だ、とBrassensのお言葉が入る。単なる結果の意外性を引き出すための伏線に過ぎない。ゴリラに弄ばれるのは、果たしてどちら?不幸に陥った人達をちょっといたぶり過ぎ。この歌を聴きながら酔いがまわって気分のいい男性の聴衆は「ばあさんだ」「判事だ」等と口々に茶々を入れるのだろう、楽しい歌ですこと!この時点で、判事に向かうことは、ほとんどの者が予測できる。でないと歌にならないからだ。
8.大方の予想を裏切って(嘘)、ゴリラは木々の中へ若い判事を引っ張り込む。年老いた女はゴリラですら相手にしない?否、そんなことは言ってない?ゴリラの選択に関して、趣味が悪いとか、エスプリがないとか、理由付けをしているが、このゴリラの選択こそが、この歌の凌辱クライマックスである。また、もし死刑制度反対のための歌詞なら、はじめから判事を攻撃するつもりなのだ。死刑を言い渡す胸糞の悪いこの若い男と、二者選択をするためにブラッサンスが提示したのが、ヨレヨレの老婆。お分かりですか?ヨレヨレの老婆は、胸糞の悪い判事と、同程度に胸糞が悪いと言うブラッサンスの思いがここで露呈しているのです。
9.それからが味な話、そして少し笑ってしまう、が続きは口には出来ません、と言いながらも、「判事はクライマックスで『ママ』と叫んでよよと泣いた」と、被害者を情け容赦もなく嘲笑する。そのありさまは、その判事がその日死刑台で死なせた男の最後と同じでしたよ、で歌は終わる。これが、死刑廃止のメッセージ?単に逃げ遅れた者達を終始嘲笑・冒涜する、不快な歌詞だと思うのだけれど。そして何より女性と言うものに対する100%の冒涜・凌辱の歌詞であると、私は告発する!

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〔追記〕 Brassensや「ゴリラ」が一番好きなシャンソン歌手、シャンソンだとおっしゃる男性は多い。ドボジデ?歌唱力が抜群だから?(ノン)、歌詞が文学的だから?(ノン)、メロディーラインが素晴らしいから?(ノン)、笑わせてくれるから?(?)それともあなたが死刑廃止論者だから?(?)はたまたトラウマの解消が出来るから?(ウイ)、ゴリラによる敵討ち?(ウイ)
 この曲をご存知ない方にも上記の記述に共感を寄せていただくために、インターネットでこの曲が聞けるアドレスを紹介しておきます。
http://brassenswithenglish.blogspot.com/2008/02/le-gorille_16.html 又は
http://www.youtube.com/watch?v=JHXVsTGCCxk
 そうなんです。こんな曲なんです。なのに大人気なんです。以下のアドレスをアドレス欄にいれると、英語の訳の他にフランスの他の歌手を初め、Brassens以外の7人の歌手達がスペイン語、ロシア語、イタリア語、スウェーデン語などでこの曲をカバーしている歌声が少し聞けます。
http://www.georgesbrassens.fr/brassens-atrad.htm
 さらに以下のアドレスに行くとフランス語、イタリア語、ミラノ方言イタリア語、英語、ギリシャ語、スペイン語、ロシア語、ペルシャ語、ラテン語に翻訳された「ゴリラ」の歌詞を読むことが出来ます。
http://www.antiwarsongs.org/canzone.php?id=6854&lang=en
 そのペイジのThe Video of the song is availableの下のShow/hide detailsをクリックするとそれぞれの語でフルに歌われる「ゴリラ」の動画を6種類聴くことが出来ます(注:You Tubeの「Ojo al Gorilla」スペイン語版のみが削除されています)
 事実このように信じられないくらいの不滅の人気曲なんです。楽しげに聞いたり歌ったりされている世界中の殿方に水を差すようで申し訳ないですが、そろそろこの辺りで女性側からの感想を、逆襲を覚悟しつつも一言、申し上げておくべきだと思うのであります。 


1-1 凌辱 Georges Brassens : Le Gorille

2010年11月18日 22時35分50秒 | シャンソン歌詞の男目線

 「薔薇色のゴリラ」(北沢図書出版1995年10月刊)という塚本邦雄氏の手になるシャンソン論がある。ブラッサンスの顔を熊に喩え「こんな熊がいたら飼って、否飼われてみたいものだ(上記P.38)」「顔が気に入って衝動的に買ったレコードも少なくないが、ブラッサンスの場合はその最たるものだ(上記P.38)」とあるようにブラッサンスにぞっこんだ。シャンソン界最高の歌手を最終的に一人に絞れば、ブラッサンスだと結論を出し(上記P.293)あげくが「薔薇色のゴリラ」の書物タイトルである。即ちタイトルの中のゴリラはブラッサンスの以下の曲名からきている。

1.C'est à travers de larges grilles,
Que les femelles du canton,
Contemplaient un puissant gorille,
Sans souci du qu'en-dira-t-on.
Avec impudeur, ces commères
Lorgnaient même un endroit précis
Que, rigoureusement ma mère
M'a défendu de nommer ici...
Gare au gorille !...

2.Un jour la porte de la prison bien close
Où vivait le bel animal
S'ouvre, on n'sait pourquoi. Je suppose
Qu'on avait du la fermer mal.
Le singe, en sortant de sa cage
Dit "C'est aujourd'hui que j'le perds !"
Il parlait de son pucelage,
Vous aviez deviné, j'espère !
Gare au gorille !...

3.L'patron de la ménagerie
Criait, éperdu : "Nom de nom !
C'est assommant car le gorille
N'a jamais connu de guenon !"
Dès que la féminine engeance
Sut que le singe était puceau,
Au lieu de profiter de la chance,
Elle fit feu des deux fuseaux !
Gare au gorille !...

4.Celles là même qui, naguère,
Le couvaient d'un œil décidé,
Fuirent, prouvant qu'elles n'avaient guère
De la suite dans les idées ;
D'autant plus vaine était leur crainte,
Que le gorille est un luron
Supérieur à l'homme dans l'étreinte,
Bien des femmes vous le diront !
Gare au gorille !...

5.Tout le monde se précipite
Hors d'atteinte du singe en rut,
Sauf une vielle décrépite
Et un jeune juge en bois brut;
Voyant que toutes se dérobent,
Le quadrumane accéléra
Son dandinement vers les robes
De la vieille et du magistrat !
Gare au gorille !...

6."Bah ! soupirait la centenaire,
Qu'on puisse encore me désirer,
Ce serait extraordinaire,
Et, pour tout dire, inespéré !" ;
Le juge pensait, impassible,
"Qu'on me prenne pour une guenon,
C'est complètement impossible..."
La suite lui prouva que non !
Gare au gorille !...

7.Supposez que l'un de vous puisse être,
Comme le singe, obligé de
Violer un juge ou une ancêtre,
Lequel choisirait-il des deux ?
Qu'une alternative pareille,
Un de ces quatres jours, m'échoie,
C'est, j'en suis convaincu, la vieille
Qui sera l'objet de mon choix !
Gare au gorille !...

8.Mais, par malheur, si le gorille
Aux jeux de l'amour vaut son prix,
On sait qu'en revanche il ne brille
Ni par le goût, ni par l'esprit.
Lors, au lieu d'opter pour la vieille,
Comme l'aurait fait n'importe qui,
Il saisit le juge à l'oreille
Et l'entraîna dans un maquis !
Gare au gorille !...

9.La suite serait délectable,
Malheureusement, je ne peux
Pas la dire, et c'est regrettable,
Ça nous aurait fait rire un peu ;
Car le juge, au moment suprême,
Criait : "Maman !", pleurait beaucoup,
Comme l'homme auquel, le jour même,
Il avait fait trancher le cou.
Gare au gorille !...

1.他人の目を気にもせずに
近辺の女どもがしげしげと見つめていたのは
たくましい一匹のゴリラで
ゴリラは大きな鉄格子の向こう側にいた
おしゃべりな女どもは破廉恥にも
母がその単語を発するのさえいけません
と、厳しく言っていた
ゴリラの身体のある場所を
もの欲しそうに横目で見つめていた
ゴリラに、注意!

2.ある日その美しい動物が暮らしていた場所の
しっかり閉まっていた筈の扉が開いた
よくわからないが、思うに、きっちりと鍵をかけて
いなかったのだろう
大きな猿は、檻から出て
「今日こそアレを捨てるぞ」と言った
アレとは童貞のこと
推量されていることと思いますが
ゴリラに、注意!

3.巡回動物園の経営者が
取り乱して叫んだ
「畜生、やっかいなことだ。このゴリラは
まだ女を知らないのだから」
眺めていた女どもは
ゴリラが童貞と知るや否や
このチャンスを活かそうとせず
(馬だったら蹄鉄から火花が散るほどの速度で)
大慌てで逃げ出した
ゴリラに、注意!

4.ついさっきまで、卑猥な目つきで
ゴリラとのあらぬことを妄想し欲情していた女どもは
思考に一貫性がないのを暴露するかのように
逃げ出した
怯えて逃げるなんてまるで意味がないと
多くの女性が教えてくれるでしょうに
ゴリラは好色で愛の行為も
人間の男より上手だからなおさらだと
ゴリラに注意!

5.ヨレヨレの老婆と情緒の希薄な若い判事を残して
皆はさかりのついたゴリラからすたこら逃げた
女どもが全員姿を消したのを見て
四足のゴリラは身体を左右に揺すって
ノッシノッシと老婆と司法官の(正装である)ロングスカートの方向へ
速度を速めていった
ゴリラに、注意!

6.「あらら」と百歳の老婆はため息をついた
私に欲情するなんてこと、もし、があるとしたら
凄いことだわ
でも、でも、それは望外のこと!
判事も冷静に考えて思った
僕を雌ゴリラと間違えるなんて
絶対有り得ない、と
実際起こったことは、つまり、有り得ると
後に彼に証明したのだが!
ゴリラに、注意!

7.たとえばあなたが
この大きな猿のように
もし万一判事又は老婆のどちらかを
強姦しなければいけない立場に
立ったとすれば
二人のどちらを選びます?
このような選択に於いて
私がそう言う場面に嵌りこんだら
間違いなく
私の選ぶ対象は
老婆となるでしょう
ゴリラに、注意!

8.しかしゴリラは情事に長けるとしても
不幸にも、その代わりに趣味が悪くて
エスプリに欠ける
と言うのは周知のこと
他の誰もがそうするようには
その時老婆を選ばずに
判事の耳をつかんで
茂みの中に引きずりこんだ
ゴリラに、注意!

9.それから続きは
味わい深かろうと
ただ不幸にも私の口からは言えません
言えないのは残念では有りますが
言ったら少し笑えたかも知れません
と言うのは、その若い判事は
事の絶頂で「ママァ!」と叫んで
(普段の鉄仮面はどこへやら)ひどく泣いたのです
その様子は、同じ日にその判事が
死刑で首を落とした男の最後と
同じ有り様でした
ゴリラに、注意!

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


樋口一葉 にごりえ 朗読 & 泉鏡花 日本橋

2010年11月14日 09時08分27秒 | 文学資料

林秀彦氏の「失われた日本語、失われた日本」を読んでいると久保田万太郎の『おりき』を朗読すれば、日本人としての幸せを噛みしめることが出来ると書いてあった。少し抜粋してある部分を読むと、これは昔、今ジュネーブの大学で日本文学を教えているKが、こう言うセリフを言ってごらん、と言って、芝居ごっこをしている私に与えた、その同じセリフの部分だった。よく覚えている。樋口一葉の「にごりえ」からの、おりきの長ゼリフである。ある夏、友人の別荘に行って、退屈のあまり、延々とお芝居ごっこをしていたのだ。Kは私におりきを演じさせたかったのだろうか。K自身も同じ身の上で、お互いに生い立ちの不幸を即興で嘆きあう、という設定だった。そんなことを思い出して、ネット上でその朗読部分を探してみた。

Ohanasipodjp: 朗読のペイジ
樋口一葉:にごりえ
林秀彦氏及びKが好んだ部分は、にごりえ6の中に出てくる。非常に説得力のある貧乏話で、この作品の核と呼べる部分かもしれない。
参照:Blog 
樋口一葉 にごりえ

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ついでに源氏物語の朗読も探してみた。
聞くだけでも物凄い時間がかかる。
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朗読のペイジに久坂葉子の作品朗読もあったのでクリックしてみました。
久坂葉子 作品 朗読 :
今回は久坂葉子作 愛撫を聴きました。19歳にしか書けない世界ですね。バックの演奏も素晴らしくよかったです。

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朗読があれば別ペイジにしたかったのですが
朗読が無く、読みも聴きも出来ず、
Blog紹介のみ、ゆえに追記としました。
追記:2010年11月14日
山中湖の別荘でKが私に演技指導した別作品
むしろこちらの方が全編を通して...
私は稲葉屋のお考 Kは瀧の屋の清葉
にごりえのおりきだったり、日本橋のお考だったり
私はKにそう言う女を喚起させたということ?

春で、朧で、御縁日: 今でも覚えているセリフです
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飾釦
松岡正剛 千夜千冊:
以下のBlogはさらに分析が詳細
鏡花、人形、『日本橋』
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