詩集「2N世代」

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天皇訴追を跳ね除けた資料作成 (2)

2013年11月02日 16時37分54秒 | 政治・経済資料

SAVING THE THRONE:by Richard Holden
(以下は翻訳要約のみ、クリックしてご自身で読解されんことを!)

1.東京裁判

独白録は昭和天皇ご自身の敗北した戦争に関する、GHQ提出用のコメントである。身近な側近5名が書きとって役立てた後は、宮中の奥深くに秘蔵されて誰の目にも触れることはなかった。寺崎(5人の側近のひとり)の娘マリコが1990年、その内容を記した文章を亡き父の所持品の中から発見し出版するまで、存在そのものが忘れられていた(45年間も!)。
昭和天皇ご自身のお言葉を記したものなので当然日本語である。しかしGHQ提出用のものであるなら英語版があるはずだ。こちらはBonner Fellersの娘Nancyが持っていた。Fellersは大学で日本人学生渡辺ゆりと知り合って、日本に興味を持っていた。1945年8月30日、FellersはMacArthurと同じ飛行機で厚木に降り立った。MacArthurは早くもこの機上でFellersに日本国新憲法制定の構想を述べている。渡辺ゆりはFellersにGHQによる天皇訴追は、米軍による日本占領を不可能にするだろうと忠告した。昭和天皇は一回目はFellersに出迎えられ案内されMacCarthurとは35分間会談した。FellersはDean Achesonと親しかったがAchesonは天皇訴追派だった。1946年3月6日、Fellersは米内光政を呼んで相談した。この時の会話は米内の日記に記されている。F-「天皇の無罪を日本側が立証する必要がある」F-「東條に全責任を押し付けるのがいい。天皇の反対を押し切ってでも戦争したかった、と証言するように、東條に頼んでみてくれないか」Y-「よろしゅうございます」ーそれを牢獄の東條に伝えた弁護士によると、東條は「心配するなと米内に伝えてくれ。恥を忍んで生き延びているのも、その役割を果たしたいからだ」と答えた。東條は裁判で、先の戦争は自衛のための戦争であり国際法を破るような侵略戦争ではないと、日本の戦争の正当性を主張した。その勢いでふと「臣民は陛下のご意志に逆らうことは断じてしない」と口を滑らせてしまう。これでは天皇陛下は開戦に積極的な意思があったとみなされる可能性がある。再度弁護士に注意され「私の開戦の決断に陛下は渋々同意された」と再度の尋問で前言を翻す。この辺は映画「PRIDE」にも描かれている。
参照:Tel Quel Japon過去記事
参照:Bonner Fellers Emperor Visits and The Memo

2.Fellersと寺崎の出会い

Fellersは以前から天皇が犯罪者なら罪状は何になるのだろうか、(それを何を根拠に否定しようか)と考えていた。渡辺ゆりに意見を求めるだけでなく、日本側の事情を直に聞いてみようと、宮中の内情を知る人物、寺崎に近づく。寺崎の妻Gwenは偶然Fellersの親戚であることもわかる。Gwenは夫と娘と共に日米戦争に関わった数奇な体験を後の1957年にNorth Carolina大学出版部から「Bridge to the Sun」というタイトルで出版した。Fellersは寺崎を信用できる人物と見て質問をぶつけた。天皇無罪を立証するためには、日本側の証拠がいるのです。事実を調べるうちに、ひとつの疑問に突き当たったのです。終戦の決断は天皇陛下の最終決断で軍部の戦争継続派をねじ伏せた。まだ本土が侵略される前に、天皇の権力でご聖断が可能だとして、では何故、そもそも開戦、真珠湾を天皇は認め許されたのかと。寺崎はその質問を天皇陛下に伝えた。「それでは説明しよう」ということで、東京裁判を控えて、日本側の証拠として、昭和天皇独白録の聞き取り書き取りが始まった。開戦に至る過程として、第一次世界大戦以後の数々の国際平和協定・国際平和条約について。そこにおいて西欧諸国が日本のアジアの領土や日本の海軍力を削ろうと制約をかけてきたこと。彼らは人種平等の理念を持たず、カリフォルニアへの今まで許されていた日本人移民を理由なく拒否したのはその一例である。これは国民を怒らせるに充分な出来事だった。その怒りを背景に軍人たちは立ち上がった。もはやその勢い、怒りを止めるのは不可能だった。「立憲君主としては内閣の決定を認めざるを得ない立場にある。仮に開戦に対して拒否権を発動したと仮定しよう。国内は反乱・騒乱でひっくり返ったことだろう。信頼を置いている忠臣たちは殺され、私自身の命も危機にさらされたことだろう。仮にそうではなかったとしても、最終的にはいずれ壮絶な戦争は引き起こされ、現実の第二次世界大戦よりも遥かに悲惨な結果となったであろう。そうなれば、日本国は破壊されつくしただろう」
昭和天皇は寺崎に翻訳英語版を作ってそれを質問者であるFellersに与えるように命ぜられた。翻訳に際して寺崎は、人種平等の部分を削り、軍人に対する天皇陛下の権限の無力を強調した。NHKは日米両文を比較して、特に英文に強調されている部分があるのを知った。
「立憲君主として内閣の決定に従わなければならなかった。1941年11月、12月に拒否権を発すれば大混乱になって、信頼できる家臣たちは殺され、自らも殺されるか、誘拐されるかしただろう。事実、天皇は囚人のような立場であり、無力であった。もしこれを言わなければ、天皇の立場がどうであったかは、誰にも知られることはなかったであろう。逆らえば、よりひどい野蛮な戦いになっていただろう。何をどうしたところで、戦争を止める力は自分にはなかった」
東京裁判は3月3日に始まった。被告人リスト29名の中に昭和天皇の名前はなかった。こうしてMacArthurの占領政策における天皇利用が確保された。5月5日、前大統領Hooverが事実検証に来日した。Fellersが独白録の存在を告げると「その天皇の資料は今のアメリカ人の感情には効かない。もっと後でより役立つ時がくるだろう」ということで、米国内では伏される事になった。
Fellersは1946年末に一旦帰国、後に28年間の軍隊人生から引退した。しかし1948年終結間近の東京裁判の法廷で再び天皇陛下の退位問題が持ち上がった。連合国側のメディアがいまもってそれを要求していたからだ。Fellersはワシントンにもどり、7月、寺崎に警告を与える。
「天皇陛下の退位は米国の占領政策に打撃を与える。新生日本のために労をなした今までのことが、すべて無駄になる。そうなると共産ロシアの思う壺だ」
1948年11月12日、東京裁判終結。同日天皇陛下はMacArthurに「退位の意思なし」を伝える。天皇の戦争責任問題も幕となる。
Fellersは日本政府から1971年に外国人としては最高の勲章、(
勲二等瑞宝章the Order of the Sacred Treasure second degree)を授与される。外務省からの文書にはこう記載されている。「Bonner Fellers氏はGHQの役人として天皇陛下が戦争犯罪者として法廷立たされる危機から、お守りし、お救いした」
昭和天皇はこの時期の回想としてこのようなお言葉を残されている。
"Now that the new constitution is in place, perhaps it was more fortunate for the people of Japan to have lost the war than to win and become a radical, militarist country."



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