詩集「2N世代」

詩作品、短編、評論、エッセイ他: Blogタイトルと内容がこの数年異なってきた。タイトルを変えたほうがいいかもしれない。

天皇訴追を跳ね除けた資料作成 (3)

2013年11月08日 12時24分42秒 | 政治・経済資料

昭和天皇はこの時期の回想としてこのようなお言葉を残されている。
 "Now that the new constitution is in place, perhaps it was more fortunate for the people of Japan to have lost the war than to win and become a radical, militarist country."
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新憲法公布の詔書を朗読される天皇陛下音声
1946年11月3日 東京・帝国議会貴族院本会議場


施行は1947年5月3日 ↑
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天皇陛下の大御心
即位礼正殿の儀のおことば(平成2年11月12日)
天皇皇后両陛下御結婚満50年に際して(平成21年)
上記のお言葉の元ペイジ Tel Quel Japon過去記事
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保守には越えられない断崖絶壁がある。反省して

思考停止のワンパターンをまずやめなければならない。


Tel Quel Japon過去記事
参照:どうする日本国憲法 連続大討論 (1):
改憲はクーデターしかない、と文人三島が絶望的判断をし、成功するにせよ失敗するにせよ、その行為は腹を切る「切腹」によってしか筋を通せない、という断崖絶壁的三島由紀夫の決意をどうして誰ひとり思い出さないのだろうか?彼らの様式美的自殺は自らに課した処刑以外の何ものでもない。
(敢えて逆賊となった三島由紀夫vs
核心を議論できない保守達の居酒屋の宴会↓↑)
参照:どうする日本国憲法 連続大討論 (2):
居酒屋の初恋談義、しゃべっている本人だけが聞き手を得て高揚する、という場面の連続である。居酒屋の鍋奉行は長谷川三千子氏。

参照:どうする日本国憲法 連続大討論 (3):
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参照:日本国憲法 & SUSUMU OKANO (4)

"Now that the new constitution is in place, perhaps it was more fortunate for the people of Japan to have lost the war than to win and become a radical, militarist country."

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原爆投下はやむをえないことと、私は思ってます
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昭和天皇はこの時期の回想としてこのようなお言葉を残されている。
"Now that the new constitution is in place, perhaps it was more fortunate for the people of Japan to have lost the war than to win and become a radical, militarist country."

 

殺された私は、こんな文言の下に眠ってなんかいません


天皇訴追を跳ね除けた資料作成 (2)

2013年11月02日 16時37分54秒 | 政治・経済資料

SAVING THE THRONE:by Richard Holden
(以下は翻訳要約のみ、クリックしてご自身で読解されんことを!)

1.東京裁判

独白録は昭和天皇ご自身の敗北した戦争に関する、GHQ提出用のコメントである。身近な側近5名が書きとって役立てた後は、宮中の奥深くに秘蔵されて誰の目にも触れることはなかった。寺崎(5人の側近のひとり)の娘マリコが1990年、その内容を記した文章を亡き父の所持品の中から発見し出版するまで、存在そのものが忘れられていた(45年間も!)。
昭和天皇ご自身のお言葉を記したものなので当然日本語である。しかしGHQ提出用のものであるなら英語版があるはずだ。こちらはBonner Fellersの娘Nancyが持っていた。Fellersは大学で日本人学生渡辺ゆりと知り合って、日本に興味を持っていた。1945年8月30日、FellersはMacArthurと同じ飛行機で厚木に降り立った。MacArthurは早くもこの機上でFellersに日本国新憲法制定の構想を述べている。渡辺ゆりはFellersにGHQによる天皇訴追は、米軍による日本占領を不可能にするだろうと忠告した。昭和天皇は一回目はFellersに出迎えられ案内されMacCarthurとは35分間会談した。FellersはDean Achesonと親しかったがAchesonは天皇訴追派だった。1946年3月6日、Fellersは米内光政を呼んで相談した。この時の会話は米内の日記に記されている。F-「天皇の無罪を日本側が立証する必要がある」F-「東條に全責任を押し付けるのがいい。天皇の反対を押し切ってでも戦争したかった、と証言するように、東條に頼んでみてくれないか」Y-「よろしゅうございます」ーそれを牢獄の東條に伝えた弁護士によると、東條は「心配するなと米内に伝えてくれ。恥を忍んで生き延びているのも、その役割を果たしたいからだ」と答えた。東條は裁判で、先の戦争は自衛のための戦争であり国際法を破るような侵略戦争ではないと、日本の戦争の正当性を主張した。その勢いでふと「臣民は陛下のご意志に逆らうことは断じてしない」と口を滑らせてしまう。これでは天皇陛下は開戦に積極的な意思があったとみなされる可能性がある。再度弁護士に注意され「私の開戦の決断に陛下は渋々同意された」と再度の尋問で前言を翻す。この辺は映画「PRIDE」にも描かれている。
参照:Tel Quel Japon過去記事
参照:Bonner Fellers Emperor Visits and The Memo

2.Fellersと寺崎の出会い

Fellersは以前から天皇が犯罪者なら罪状は何になるのだろうか、(それを何を根拠に否定しようか)と考えていた。渡辺ゆりに意見を求めるだけでなく、日本側の事情を直に聞いてみようと、宮中の内情を知る人物、寺崎に近づく。寺崎の妻Gwenは偶然Fellersの親戚であることもわかる。Gwenは夫と娘と共に日米戦争に関わった数奇な体験を後の1957年にNorth Carolina大学出版部から「Bridge to the Sun」というタイトルで出版した。Fellersは寺崎を信用できる人物と見て質問をぶつけた。天皇無罪を立証するためには、日本側の証拠がいるのです。事実を調べるうちに、ひとつの疑問に突き当たったのです。終戦の決断は天皇陛下の最終決断で軍部の戦争継続派をねじ伏せた。まだ本土が侵略される前に、天皇の権力でご聖断が可能だとして、では何故、そもそも開戦、真珠湾を天皇は認め許されたのかと。寺崎はその質問を天皇陛下に伝えた。「それでは説明しよう」ということで、東京裁判を控えて、日本側の証拠として、昭和天皇独白録の聞き取り書き取りが始まった。開戦に至る過程として、第一次世界大戦以後の数々の国際平和協定・国際平和条約について。そこにおいて西欧諸国が日本のアジアの領土や日本の海軍力を削ろうと制約をかけてきたこと。彼らは人種平等の理念を持たず、カリフォルニアへの今まで許されていた日本人移民を理由なく拒否したのはその一例である。これは国民を怒らせるに充分な出来事だった。その怒りを背景に軍人たちは立ち上がった。もはやその勢い、怒りを止めるのは不可能だった。「立憲君主としては内閣の決定を認めざるを得ない立場にある。仮に開戦に対して拒否権を発動したと仮定しよう。国内は反乱・騒乱でひっくり返ったことだろう。信頼を置いている忠臣たちは殺され、私自身の命も危機にさらされたことだろう。仮にそうではなかったとしても、最終的にはいずれ壮絶な戦争は引き起こされ、現実の第二次世界大戦よりも遥かに悲惨な結果となったであろう。そうなれば、日本国は破壊されつくしただろう」
昭和天皇は寺崎に翻訳英語版を作ってそれを質問者であるFellersに与えるように命ぜられた。翻訳に際して寺崎は、人種平等の部分を削り、軍人に対する天皇陛下の権限の無力を強調した。NHKは日米両文を比較して、特に英文に強調されている部分があるのを知った。
「立憲君主として内閣の決定に従わなければならなかった。1941年11月、12月に拒否権を発すれば大混乱になって、信頼できる家臣たちは殺され、自らも殺されるか、誘拐されるかしただろう。事実、天皇は囚人のような立場であり、無力であった。もしこれを言わなければ、天皇の立場がどうであったかは、誰にも知られることはなかったであろう。逆らえば、よりひどい野蛮な戦いになっていただろう。何をどうしたところで、戦争を止める力は自分にはなかった」
東京裁判は3月3日に始まった。被告人リスト29名の中に昭和天皇の名前はなかった。こうしてMacArthurの占領政策における天皇利用が確保された。5月5日、前大統領Hooverが事実検証に来日した。Fellersが独白録の存在を告げると「その天皇の資料は今のアメリカ人の感情には効かない。もっと後でより役立つ時がくるだろう」ということで、米国内では伏される事になった。
Fellersは1946年末に一旦帰国、後に28年間の軍隊人生から引退した。しかし1948年終結間近の東京裁判の法廷で再び天皇陛下の退位問題が持ち上がった。連合国側のメディアがいまもってそれを要求していたからだ。Fellersはワシントンにもどり、7月、寺崎に警告を与える。
「天皇陛下の退位は米国の占領政策に打撃を与える。新生日本のために労をなした今までのことが、すべて無駄になる。そうなると共産ロシアの思う壺だ」
1948年11月12日、東京裁判終結。同日天皇陛下はMacArthurに「退位の意思なし」を伝える。天皇の戦争責任問題も幕となる。
Fellersは日本政府から1971年に外国人としては最高の勲章、(
勲二等瑞宝章the Order of the Sacred Treasure second degree)を授与される。外務省からの文書にはこう記載されている。「Bonner Fellers氏はGHQの役人として天皇陛下が戦争犯罪者として法廷立たされる危機から、お守りし、お救いした」
昭和天皇はこの時期の回想としてこのようなお言葉を残されている。
"Now that the new constitution is in place, perhaps it was more fortunate for the people of Japan to have lost the war than to win and become a radical, militarist country."


天皇訴追を跳ね除けた資料作成 (1)

2013年11月02日 13時02分35秒 | 政治・経済資料

日本を救ったとされる物語
(語り)か、隠された真実か。

次ペイジに掲載します
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その他の資料

Found in Translation : History:
A Japanese diplomat's writings about Emperor Hirohito
fill in some blanks in World War II records.
 Read

○Gwen Terasaki collected her husband's diaries from her brother-in-law, Taira Terasaki.○Gordon Berger did the initial translations.
寺崎の日記は妻→娘Mariko→孫Cole→から
Gordon Bergerの手による翻訳に至った。何年もの年月のあとで。
writings fill in some blanks in World War II records
長年未開封とされた手記が
「第二次世界大戦の記録の空白を埋める」という見出しである。
Among Hidenari Terasaki's poems, sketches and musings about his family is the only known record of Emperor Hirohito's opinions on what started the war. And the documents have added to the historical debate over whether the emperor could have intervened to prevent the fighting.
(In interviews before his death in 1989, Hirohito said he was powerless to stop the conflict.)
この手記の歴史的価値は↑上に引用した部分にある

最近アメリカが日本向けのPropagandaとして発してきた映画
この約束を、この恩をわすれるなという発信だろうか?
映画「終戦のEMPEROR」
Gen. Douglas MacArthur and Gen Bonner Fellers
landing at Atsugi :


寺崎の妻Gwenが書いた彼女の自伝はハリウッド映画になっている。
映画:Bridge to the Sun:
寺崎とその妻がハリウッド映画の主人公たり得るのはGHQのWGIPに寺崎が大いに役立ったからだ。日本の敗戦後においても寺崎の評価は高い。WGIPがGHQと特定の日本人との共同創作であるからだ。
この映画関連記事
A Tenessee Woman in Wartime Japan

Mariko Terasaki Miller (寺崎の娘)to speak
at ETSU's December commencement :
November 29, 2000
In 1981, Mariko, a book by the well-known nonfiction writer Kunio Yanagida, was published in Japan. And, on Aug. 15 that year, the anniversary of the Japanese surrender, NHK (public) Television presented a three-hour docudrama about Miller and the experiences of the Terasaki family.
1981年には柳田邦雄著「マリコ」が発売されベストセラーとなる。(柳田邦男『マリコ』 新潮社 1980年、新潮文庫、1983年)同年8月15日、NHKが寺崎一家について3時間のドキュメンタリー風ドラマ番組を放送、日本中に大反響を呼び起こした。
Mariko Terasaki Miller
寺崎英成: wikipedia
暗号名はマリコマリコ・テラサキ・ミラー

Mrs. Miller discovered the monologue of Emperor Showa (Hirohito) among the papers and diaries of her father. The monologue was published in Japan in 1991, along with reminiscences jointly written by Mrs. Miller and Ko Shioya and passages from her father's diaries.
『昭和天皇独白録、寺崎英成御用掛日記』
1991年、文藝春秋
Wikipedia:
昭和天皇独白録 寺崎英成 御用掛日記
Blog参照1 & Blog参照2
1947年3月~4月にかけて、松平慶民宮内大臣、松平康昌宗秩寮総裁、木下道雄侍従次長、稲田周一内記部長、そして寺崎英成御用掛の5人の側近が、張作霖爆殺事件から終戦までの経緯を4日間計5回にわたって昭和天皇から直々に聞き、まとめたもの
In a Memoir, Hirohito Talks of Pearl Harbor:
日本の歴史学者たちは、たとえばルーズベルト陰謀論に一切耳を貸さない、OSSの資料やVenonaの情報にも一瞥さえ与えないのは、この一文があるためだろう。以下を否定できないのだ。
 if he had tried to stop the attack on Pearl Harbor in 1941, "it would have led to a coup d'etat" in which he likely would have been assassinated.
東京裁判史観も悪の枢軸論もこれで永遠に固定される、そしてアメリカは永遠に「Remember Pearl Harbor!」を自由自在に使いまわせるというわけだ。
OSSの資料やVenonaの情報を使えば、こんなことは今は簡単に否定できる。それでも歴史学者たちも論壇人も、そのチャレンジをしようともしない。何故か、彼らの爪の垢までもが自虐史観に犯されているからだ。彼らは気の毒なことに、南京や慰安婦で書物のペイジを埋めたりTV出演したりして生計を立て、愛国保守を名乗り、人気を博し票を取りあるものは政治家に転身したりしながら、腐って腐臭を発しているGHQとの捏造「バーター物語」をあくまでも隠蔽しつつ守り続けるつもりなのだ。彼ら(保守を名乗る者)は新しい資料を活かす術をしらない。
(時間がない!)