Paul Bowles 充実Sites
資料1 : 資料2 : 資料3 :
Paul Bowles Radio : Hans Arpの
ダダについての講演まで聞こえてきた!
以下は音声資料
1985 Bowles reading of: HERE I AM :
Paul Bowles reading poem Nights
Paul Bowles reading from The Sheltering Sky :
Le Nouvel OBSがSdeB誕生100年を記念して
表紙に掲載した、かの哲学者の背面...
とコメント。今、話題騒然、
女優でなく、哲学者だけにインパクト強烈。
参照: Simone de Beauvoir ;
クリックして現れる写真は1952年Arthur Shayによってシカゴで撮影されたものらしい。
今は小さくなってしまったが、SartreもBeauvoirも当時どれだけの巨人だったことか。実存主義の時代。二人は公然と愛人関係にあったが、共に暮らしたことはなかったようだ。
1965年Sartreは若いArlette Elkaïmを養女にしている。一方、BeauvoirもSartreの死後Sylvie Le Bonを養女としている。またSartreはDolores Vanetti、BeauvoirにはNelson Algrenというアメリカ人の恋人がそれぞれにいた。Beauvoirには若い映画監督のClaude Lanzmannという愛人もいた。Barbaraの埋葬でDepardieuがしたように、Beauvoirの埋葬で弔辞を述べたのはClaude Lanzmann。二人が出会った1952年、彼は27歳、彼女は44歳の時。Beauvoirが生活を共にしたのはClaude Lanzmanただ一人である。二人の関係は1950年代の終わりまで続き、その後も1986年の彼女の死まで毎週2回は会いつづけた。
Sartreの女癖の悪さは日本でも良く知られているが、1981年に出版された「La Ceremonie des Adieu」によってSartreは晩年ほとんど目も見えず耳も聞こえず、垂れ流し状態だった事まで知れ渡ってしまった。醜悪な老いがあのSartreにも襲ってきたと言うことだ。
Beauvoirには女学生を誘惑し彼女たちをSartreに回していたとか、Sartreの男子学生を自分の愛人にしていたという証言もある。醜聞の事実は作品の中に閉じ込めたままにしなければ、後年イメージが悪化するという好例だ。
ただ、今となってSartreやBeauvoirが後世に与えた最も強烈なインパクトは、その哲学ではなく、その男女のあり方、のような気がする。二人が「自由恋愛」のパイオニアとして永遠にその名を留めるとしたら、どんなスキャンダルも単なる社会学上のケイス・スタディーに早変わりする。
「Simone de Beauvoirの背面裸体に驚くよりも、皿洗いをするBeauvoirの写真の方が、むしろインパクトが強いだろう」という半分冗談ともつかぬコメントに読者が笑ってしまったりするのも、そのためだ。
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2008年1月15日のCorrespondancesの記事を移動してきました。