うたかたの夢暮らし 睡夢山荘にて(Dream life of Siesta hut)

夢から覚めた泡沫のごときだよ、人生は・・
せめて、ごまめの歯ぎしりを聞いとくれ

物語再掲

2014-02-11 16:22:28 | インポート

作: 界 稔

序章

徳川300年の幕藩体制下、米作中心の生産体制と現実の貨幣経済との矛盾あるいは、各藩への窮乏化政策である参勤交代や幕府特命の各種土木工事などにより、西国の雄藩 薩摩と言えどもその藩財政は困窮を極めていた。 これは、どの藩も似たり寄ったりであったが、薩摩というところは米作に不向きな火山灰生成によるシラス台地がほとんどの土地を占めていたため、表向きの石高に関わらず、実際は思ったほどの石高は取れなかったのが現実であった。    下層農民の逃散や散発的な一揆押しかけは、日常化しつつあったし、藩主の日常賄いもたびたび制限される事態となっていた。  また、藩主交代に当って、藩政改革を求めた近思録事件が起こり、切腹13名を含む100名余の処分者を出す騒ぎが起こった。  時の藩主斉興はこれに対し、財政に明るい調所笑佐衛門広卿を家老に抜擢し、藩財政の建て直しを命じていた。

後代の不評はあるが、この調所は本当のところ大変な名家老と言えよう。

幕末薩摩の勇躍を支えたのは、この時代の財政建て直しの功によるものであるといっ ても過言ではない。     貨幣経済の現実に合わせて、換金作物の栽培、生産と物流を含めた交易体制の整備は必須改革要項であった。   中でも奄美地方の砂糖キビ栽培とその搾取政策は、その販路の独占により、莫大な利益を生んでいった。   また、大阪や江戸の御用商人からの借金の棒引き、踏み倒しに近い契約を粘り強い交渉の末に結ばせたりしていた。

一方、西国辺境の地であり、近年盛んに出没する外国船の影響も見逃せないのだが、鎖国と厳しい隠密、目付けの監視政策にもかかわらず、外国との密貿易も大きな財政確立の柱となりつつあった。    元来、薩摩は300年前の関が原の合戦にあるように、徳川への反抗心は伝統的なものであった。   辺境にあることと、その剛猛な軍団を刺激したくない幕府の思惑から外様としては破格と言える石高と領地を保障されていたが、この反面厳しい監視の下に置かれていたのは当然であったろう。

 鹿児島は今でも特異な地方語健在な地域である。抑揚の違いや単語の特異性はは隣の熊本や宮崎、沖縄とも極端な違いを示している。 

 人為的変造の匂いがするくらいである。地元の古老によるとよそ者、特に幕府隠密との判別をし易くするために、言葉を変えたのだと聞いたことがあるほどである。 

このような、土地柄である幕府隠密も中々入り込めなかったものであろう。 

 よって、砂糖キビや蝋燭、養蚕、葉タバコなどの換金作物の生産の奨励政策も本来は幕藩体制の下ではままならないはずであったが、一躍殖産繁栄したものであった。 

このような交易材料を担保に御用商人の借金長期返済契約を勝ち取ったり、新たな借金を強奪的に契約したりの、豪腕家老であった。 

一方、密貿易は東シナ海に面し天然の良港を多数持つ薩摩である。 

北薩摩の川内川河口の寺泊や阿久根、甑島や薩摩半島の山川、枕崎、坊津など、主に朝鮮や清の海賊まがいの密輸船が出入りしていた。 

また、香港、マカオからのオランダ船や近年姿を現しだした英仏米艦隊の琉球出入りも鎖国崩壊を見るようであった。 

事実、島津重豪の時代には、航海物資の補給を名目に、度々外国船が訪れ西洋の文物が流入したもので、西国領主や京都公家衆の間で珍重物流したのであった。 

 ここに注目したのが調所であり、支那やマカオを経由して取引される付加価値の高い密貿易品に焼き物があることを知る。 

支那や朝鮮白磁に代表される白磁器は近世ヨーロッパで大変な人気を博していた。 

ボーンチャイナと称されるヨーロッパ磁器の一世紀以上前史には、景徳鎮を初め李朝白磁などが盛んに製作されたものであった。  

これはヨーロッパ貴族の愛好するものの代表的な焼き物であり、後世のヨーロッパの焼き物にも多大な影響を与えたのである。 

 薩摩には、秀吉の朝鮮出兵時に朝鮮白磁に憧れた時の島津義弘が、朝鮮陶工を捕虜、連行して開窯させた薩摩焼があったものの、本場の白磁には及ばぬものであった。 

もともと、磁器は陶器と違いガラス質を多く含む陶土、正確に言えば陶石を砕いて粉末にしたものを原料にし高温釜で焼成する、より高度な技術を必要とする焼き物である。 

このガラス質の為に、硬度が高く薄い器の製作も可能であり、より透明感のある白焼き物が焼成できるのである。 

 この時代、磁器の生産が盛んに行われたものに、有田が在った。 

密貿易船からの情報に、この有田の磁器が珍重されていることを知った、調所は薩摩の各窯元の陶工陶首を手厚く保護して殖産興業を図ったのである。

 

 伊作家当主の佐衛門へ隠密な下命が在ったのも、このような状況下であった。 

伊作家は陶工窯元を束ねる名主職を代々、務める家柄で、士分とはいえ、多くの使用人を抱えて自らも陶窯を営んでいた。 

佐衛門には、嫡男の作衛門の他七人の子供が授かったのだが、二人の娘と末っ子の八之進の四人を残し、後は若くして病没していた。妻の徳江も末の八之進の産褥中に身まかっている。 

当主の座を跡取りに譲り、後はのんびり老後をと、思っていた佐衛門にとって、昨今の藩政改革の動きや藩上層部の陶器への関心の変化に、異変めいたものを感じていた矢先である。

 

「佐衛門さあ、息災そうでなによいじゃ。

 

窯場ん様子はどげんじゃろかい。 盛んじゃっとじゃろな! 顔をあげやぃ。」

 

鹿児島城下の勘定方役宅に突然呼び出され、緊張の面持ちで平身低頭している佐衛門に、声を掛けたのは勘定方家老の伊地知である。

 

「あいがとございもす。お陰さあで、職人達っも励んで呉れもんで、何とか御用もできもしと。」

 

「そげんな。それぁ良かした。 

佐衛門さあもヨカ年成いやしたなぁ、どしこ成いやしたな?」

 

「もう、58じゃいさぁ、後取いの作衛門に譲っせえ、ゆっくいしたかと思いもす。」

 

と、問答を交わしたところで、伊地知が真顔になり、「ところで 」と、話したのが、4男の八乃進を御用に取り立てるから了承せよとの事であった。

 

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