うたかたの夢暮らし 睡夢山荘にて(Dream life of Siesta hut)

夢から覚めた泡沫のごときだよ、人生は・・
せめて、ごまめの歯ぎしりを聞いとくれ

市民的自立と民主主義(再掲)2011-09-11

2020-03-04 10:29:33 | ブログ

3.11大地震と大津波の未曾有の災害に壊滅的打撃に喘いでいる被災者達がいる。
そして、確かに有効で的確な施策を打ち出せない、或いは実施できない行政や政治が現実にある。
個人的で孤立した力が、大規模災害や大きな歴史のうねりや国家的事件を前にして無力であり、社会学的、歴史的必然の赴くままに帰趨されることは、ある意味了諾せざるを得ないことであろう。
しかし、しかしである。 圧倒的国家的規模の事件を前にして、人としての権利の実現と主張を、そして同時に自らの成さねばならない社会的責任を自ら放棄し、忘れていないだろうか。
 最近災害被災者や地域行政者へのマスコミ取材でインタビューされる人々の言葉が大変気になるのである。
「仮設住宅をなかなか作ってくれない」 「補給物質の配給を早くしてくれない」 「出荷制限の解除をしてくれない 」 「安全基準を示してくれない」 「原発再開の許可基準を示してくれない」 「公務員を増やしてくれない」 等など
被災したなすすべも無い社会的弱者といわれる人々だけではなく、自治体の長までも全く同じ口調なのである。

私達は民主主義を大切に思っている。そして日本という国は民主主義が確立した国であると思っている。いや、思っていた。
しかし、そうではないのかも知れない。 民主社会とは自立した個々人が自らの構成する共同体に対し、主体的関与しながら自らと共同体の存立と発展を実現していく社会なのだとおもう。 ここでは、あくまで個々人の自立が前提なのである。
今未曾有の歴史的混乱に直面した時、多くの人々が自分の身のおき方を身の振り方を、判断しなくなっていないだろうか。 今日、明日を、そしてこれからの自らがどう生きて行くかを、具体的な生命維持の手立てを、自らの力の範囲内ではあるが個々に判断し、自己責任で決定していく自立した精神が発揮されれば "くれない"の言葉の氾濫がこれほどあろう訳は無い。
 「自らの自己責任と自助の果てで社会に対して、今こそ自分は助けを必要としているのだ」と主張する権利は社会人として必須なのである。 ここには"くれない"という他頼的なルンペン的な言葉は無い。
ましてや、自治体の長や地方行政官といわれる人々は、同レベルの言葉を発するべきではない。
「地方の力では此処まではやれるが、これ以上の規模の能力は国家的レベルである。」 或いは 「この住民サービスに必要なものは此処ではこうであるべきだから、国家の役割と住民の自治的役割はこうすべきだ」といった主体的な政策要求を主張すべきなのではないだろうか。

自己の人としての自立自存を全く放棄したのではないのかと思えるような人々の態様は、やはり日本には民主主義的社会は未だ定着していないのだと・・・


コメント (1)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 景観権侵害への実況 その2 ... | トップ | 東京電力送電鉄塔建設に対す... »
最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
高度なポストを評価した。私は毎日全く別のブログ... (appliance repair Encino)
2011-09-25 23:08:02
高度なポストを評価した。私は毎日全く別のブログに全く新しい何かを学ぶ。いずれかの決定。他の作家から紙のコンテンツの材料を読んで、少しの彼らのウェブサイトから一つのことを学ぶために刺激する。私はあなたが心なら私のブログにこのコンテンツの確実使用するようにしたいと思います。 Natually私たちはあなたのウェブサイトではここにリンクを与えるでしょう。あなたの共有を尊重しています。
返信する

コメントを投稿