シンガー『ナターシャ』のブログ

関西・東京・名古屋・広島、そして台湾もグローバルに歌うシンガーソングライター、jazzシンガーナターシャのブログです

履歴書その1

2007-07-30 | おもうこと
今日は満月ですねえ。天気がよかったからか、すごくはっきりくっきりの美しいお月様です。

昨日のブログのコメントを読ませていただいたり、書いたりしていて色々思い出しました。私が今まで英語や日本語を教える仕事をしてきて、ラッキーだったと思うことは色々ありますが、全ての世代と接したというのは大きなギフトでした。

アメリカで修士を終え、勉強したことをこれから実践でいかすぞ~と張り切っていた私が初めて教える仕事をしたのは、ミネソタのキャンプで日本語を教える仕事でした。6才から18才の子供たちと生活を共にし日本語を教えるのですが、教えるためのちゃんとした資格を持っているということで、若干ペイのいい高校生担当になりました。

クラス(といっても外ですけどね)で教えるのは別にいいのですが、困ったのは高校生と共に寝泊りする暮らし。アメリカの女子高生・・今なら日本の女子高生も負けてないでしょうが、朝、私の目を覚まさせるのは彼女たちの香水やヘアスプレーの混じった臭い。

洗面所はすね毛をそる子らや髪をとかす女子高生で占領されっぱなし。ちなみにワキ毛は気にしないのにすね毛は気にする・・文化の違いは面白いです。私は日本語を教える以前の生活態度やしつけの先生の仕事に疲れ果て、これから教えるのは絶対大人!と誓ったのでした。

必死の履歴書送付の功が奏し、UCLAのExtensionというところで日本語を教えることができました。生徒さんは年齢もばらばら。単位も出るので高校生や大学生は勿論、社会人、上はリタイアーした人、(退役軍人も結構いたなあ。昔、日本に駐留していた人たち)など色んな人が居て楽しく(ハリウッドが近かったので映画関係者も多数)自分の学んだことを活かせる仕事だったので、夜な夜な教材を作っていました。

自分の生まれ育った国のことをこんなにも熱心に学ぼうとしている人に「魔法をかけて日本語ぺらぺらにしてあげたい」といつも思っていました。今から考えてもあの情熱はすごかった。あそこまでする先生いないわな~というくらい・・。

最初UCLAの面接で「Evaluation(生徒からの評価)が半分以下なら即クビです」と言われ、最初は「ひええ。やっとつかんだ仕事絶対放したくない」という一心と自分の英語力に自信がなかったので面白いジョークも言えないし(アメリカでは必須です)、それなら一生懸命さで勝負!でしたが本当に魂から情熱を注いだ仕事でした。その後、あのときのようなエネルギー、情熱を注げるような仕事を追い求めて何年も色々なことにチャレンジしましたが何一つなかった・・くらいです。

シンガポールでは、最初企業で働いていましたが、その後、二つある大学で日本語を教えました。アメリカでバンバン質問してくる生徒さんたちに鍛えられていた私としては、日本みたいな感じだな~という印象を受けました。アメリカでは退屈な授業をしたら本能に近い彼らはほんと退屈そうにするので、いかに間をもたすか・・が重要でしたので、たくさんの絵を使いゲームを使い、いかにcreativeであるかが勝負でしたが、シンガポールでは教科書とプリント以外、例えば絵を使ったりすると「遊び」だと思われそれまでおとなしかった生徒が私語だらけになったり・・。

長くなってしまったので・・つづく。