むさしの連歌会

雅な和歌の言葉で連歌を楽しむ会、一度、のぞいてみませんか?

今年も古河で花の下連歌会を開催しました

2024年03月26日 | 近況

3月26日、恒例の「花の下連歌会」を、古河市近郊の満福寺で張行しました。むさしの連歌会は、春と秋に、関東地方の連歌ゆかりのお寺で連歌会を開催しています。満福寺は、室町時代後期に古河公方足利成氏公によって開かれた古刹。連歌とのご縁は、宗祇の次の北野社連歌会所奉行職・宗匠職として、当時の連歌界で指導的な地位にあった猪苗代兼載翁が、晩年、病を養うため成氏公を頼って古河に住み、翌年没。ここ満福寺に葬られたことによるものです。

その古河で連歌会が復活したのは、第23回国民文化祭(いばらき2008)のとき。地元で短歌会を率いておられた立石和正先生のお骨折りによるものです。以来、私たちは、様々なかたちで古河の連歌会とかかわってきました。鶴崎裕雄先生の命名により平仮名の「むさしの連歌会」になってからは、今回が7回目の「兼載翁追善花の下」です。そのうち3回は、コロナのためメールによる文音連歌となりましたが、古河在住のメンバーが送ってくれる満福寺山門脇の見事な枝垂桜の写真を見ながら巻き上げ、懐紙を奉納してきました。

古河花の下連歌会は、まず兼載翁と成氏公の墓所にお参りすることから始まります。
実は今回、花の下と言いながら。ちょっと調子が狂いました。今年は、山門脇の枝垂桜がまだ咲いていないのです。昨年はこの時期、すでに花吹雪になっていたのですが、今年は開催日の設定が早すぎました。気候変動の影響でしょうか、難しいですね。
それでも、兼載翁墓所の脇の枝垂桜は、何輪かがちらほら咲き初め。桜の花をことのほか愛された兼載翁の心配りかなと、みなで語り合いました。

そして本堂での法要の後、庫裏で連歌を巻きました。

今年の発句は、兼載翁の「さそふ風よわれば迷ふ花もなし」。これに池田南天代表が脇を付けてスタートしました。

この日は、お客様が二人いらっしゃいました。大阪は平野の杭全神社連歌会から、連歌歴二十年の連歌巧者が一人。もう一人は南天代表の講義を聞いて連歌に関心を持っていたが、連歌を詠むのは初めてという方でした。他の連歌会の詠みぶり等を伺うのは勉強になりましたし、新しい方のフレッシュな詠みぶりには古参メンバーも大いに刺激を受けました。連歌の裾野がさらに少し広がった気がします。

また来年の開催をお寺にお願いして、帰路につきました。


4年振りに浄光明寺で「鎌倉連歌会」を開催しました

2023年12月09日 | 近況

鎌倉扇ヶ谷の「浄光明寺」は、藤原定家の孫で歌道冷泉家の祖となった為相卿ゆかりの名刹です。その母は、「十六夜日記」を書いた阿仏尼。この日記は阿仏尼が、家領の相続のことで幕府に訴え出るため鎌倉へ下向したときのことを書いたものです。高校で習いましたね。為相卿も、訴訟のために鎌倉に来ることが多く、やがて藤ヶ谷に居を構えて和歌・連歌を指導。鎌倉における文化の発展に貢献しました。和歌の世界では、新後撰和歌集以下の勅撰集に65首入集、家集として「藤谷和歌集」が残されているなど押しも押されもせぬ存在ですが、連歌の世界でも「藤谷式目」(現在は散逸)を著わすなど指導的な存在であったようです。二条良基とともに「菟玖波集」や「応安新式」の編纂にあずかった連歌師、救済に和歌を教えたのも為相卿でした。

むさしの連歌会は、春は猪苗代兼載のお墓がある満福寺(栃木県野木)で「古河連歌会」を、秋は浄光明寺で「鎌倉連歌会」を開催しています。コロナで中断を余儀なくされていましたが、4年ぶりの開催です。むさしの連歌会は、ふだん東京に本拠を置き、毎月第2土曜の定例日に武蔵野市の施設で集まって実座を、その間はメールによる文音で連歌を巻いています。このほかに、年2回は、少しでも関東に正風連歌を広げようと、地元の方々のご協力を得て、連歌ゆかりのお寺で連歌会を張行しているのです。今年は11月15日、浄光明寺のご住職、大三輪龍哉様のご参加も得て、第3回「冷泉為相卿追善 鎌倉連歌会」を開催しました。

当日は、ご住職が本堂に用意して下さった為相卿の霊位に、まず各々が手を合わせた後、本堂内で世吉を詠みました。むさしの連歌会では、いつも発句をコンテストで投票により選ぶのですが、今回はちょっと趣向を加えました。前もって池田南天代表が為相卿の和歌の中から一句を選び、それを本歌取りした発句を各人が提出、その上で全会員がメールで投票して決めることにしたのです。代表が選んだ為相卿の和歌は、「時雨よとなに急ぎけむもみぢ葉の千入(ちしほ)になれば秋ぞとまらぬ」。新千載和歌集にも入った名歌です。これに対し、会員の一人が付けた発句が「かぎりとて秋ぞとまらぬ谷(やつ)のいろ」でした。本歌取りの作法を踏まえつつ、浄光明寺の背後に切り立った鎌倉名物の谷(やつ)の風景、その晩秋から初冬への季節の移ろいを詠んだ素晴らしい発句です。ダントツの得票数で発句は決まり。連歌会はこれに脇を付けるところからスタートしました。

この会には、会員の古くからの友人で地元鎌倉に住む人、会員の香道の門弟など、おおぜいのお客様が参加しました。浄光明寺のご住職は、この連歌会も3回目。見事な付句を詠んで下さいましたし、他のお客様も連歌は初めてと言いながら、周囲の会員の助けを借りながら、ちゃんとよく付いた句を詠んでくれました。後で振り返って、「楽しかった」と語って下さったそうです。

この日、巻き上げることのできなかった残りは、次の定例日である12月9日の実座で詠みました。そこにも、お客様を迎えることができたのです。九州は大宰府天満宮、神縁(みゆかり)連歌会の有川宜博宗匠と宮崎由季様です。創設以来30年の先輩連歌会から来られたというので、みんな最初は緊張していたのですが、連歌の仲間はすぐに打ち解けます。午後には普段どおり軽口の応酬、後の飲み会では大いに盛り上がり再会を約するまでに至りました。

むさしの連歌会にとって、思い出に残る「鎌倉連歌会」でした。


恒例の花の下、ついに復活しました

2023年05月06日 | 近況

恒例の花の下~猪苗代兼載翁追善連歌会~は、コロナの為、2020~22年の間リモートによる張行を余儀なくさせられましたが、本年はようやく四年ぶりに実現させることができました。満福寺の満開の花をめでながら、そして皆さんの顔を見ながら句を詠むことの喜びは、何物にも代えがたいものでした。

また、2020年2月を最後に閉ざされていた東京での実座も復活させることとしました。まだ油断はできませんが、お互いの顔を見ながらの「座」を大切にし、歌を連ねる楽しみを続けてゆきたいと思っています。

 


令和四年の恒例花の下 ~猪苗代兼載翁追善連歌~

2022年04月24日 | 近況

 今回の花の下連歌も、残念ながらメール通信での開催となりました。

 しかしながら満福寺の見事な花の写真を地元の方からお送りいただき、お陰様で臨場感たっぷりに楽しむことが出来ました。開始直前に私もご挨拶に伺い、是非来年は兼載翁ゆかりの花の下でと、ご住職より嬉しいお言葉を頂戴いたしました。

 もう会員の皆様、すでに連歌師レベルの伎倆と誇りに感じております。次回こそはゆかしき枝垂れ桜の下で披露・奉納をと、心より願う次第であります。

       代表 南天

 

西光山満福寺の山門(栃木県野木町、古河公方ゆかり)

猪苗代兼載翁(1452~1510)の墓碑


今年も「花の下連歌」をリモートで開催します

2021年04月01日 | 近況

むさしの連歌会では、新型コロナに対応して、昨年の春からリモートで連歌会を催してきました。途中、流行がやや下火になった時は、実際に顔を合わせて詠むリアルの連歌会とリモートとを組み合わせるハイブリッド型連歌会に転換したこともあったのですが、今はまたメールで膝送りする文音形式で巻いています。何百年も続いてきた連歌、コロナごときには負けられません。

伝統の継続といえば、むさしの連歌会では、猪苗代兼載翁のお墓がある満福寺で地元古河市の方々と一緒に、ここ10年ほど「花の下連歌」を続けてきました。しかし、今は大勢で押しかける訳にはいきません。そこで、昨年と同様、メール文音形式で「猪苗代兼載翁追善 花の下連歌会」を張行することにしました。

発句は、兼載翁の「春を惜しめさかりの花に風もなし」。むさしの連歌会のメンバー十数名が今日から、これに付けていきます。巻き上がったら、またブログにアップしますのでご覧下さい。

猪苗代兼載翁は、宗祇翁とともに正風連歌の黄金時代を築いた人。その活動時期は、応仁の乱以降の戦国時代と重なっていますから、さぞ色々なご苦労をされたことと思います。それに比べると、現代の我々の苦労など大したことはないと、彼の岸から見て笑っておられるかもしれません。でも、連歌の後輩たちの熱意は汲んで下さると思います。

むさしの連歌会の古河在住メンバーが、今の満福寺の様子を写真に撮ってきてくれました。今年は花が早いといっても、古河ではまだ散り初めの見頃のようです。一昨年までは、この下で実際に連歌を巻いていたので懐かしい限りです。リモートといっても花の下は花の下。楽しい連歌会にいたしましょう。


「ハイブリッド型」連歌会を始めました

2020年12月16日 | 近況

コロナ禍のもとで、いかに私たちの日常生活を維持していくか、これは難しい課題です。むさしの連歌会では、ここへきて新たな取り組みを始めました。実際に集まって詠む連歌会と、インターネットで詠み継ぐ連歌会の組合せ、いわば「ハイブリッド型」の連歌会です。

むさしの連歌会が今年の4月から「リモート連歌会」を開催していることは、既にお知らせしたとおりです。毎月2回の定例開催日の決められた時間帯に、参加者全員がパソコンやスマホに向かって、メールの「全員に返信」機能を使い情報を共有しながら付けていく方法です。そして、このやり方にも徐々に習熟、11月までに13回開催して、ほぼ4巻を詠み上げました。

しかし、これだけで満足しないのが、連歌の愛好者です。「やっぱり、一緒に顔を見ながら詠みたいよう!」、そうした声が高まってきました。ですが一方では、基礎疾患をかかえている人もいますし、家族に高齢者がいる人、連歌会の会場まで電車を乗り継いで来なければならない人もいます。情熱は同じでも、事情はさまざま。そこで考えたのが「ハイブリッド型」の連歌会です。

まずは、毎月2回の開催日に会場へ来ることができる人が、実際に顔合わせして詠めるだけの句を詠む。残りは、メールによる「文音(ぶんいん)連歌」の形式で、一人ずつ詠んでは次の人に回していくというやり方です。この間、発句は、むさしの連歌会伝統の「発句コンテスト」で決めていきます。ただし、これも今はリモート。会員全員からインターネットメールで発句を募り、匿名投票で選びます。立場は違っても、全員で一つの巻を詠み上げていくという気持ちに変わりはありません。この方式を通して巻き上げたのが、第64巻の賦何草連歌です。

このように色々な形で連歌を楽しむことができれば、コロナなどには負けません。感染状況がどのように推移しても、何れかの方式で連歌を詠み続けることができると思います。戦国の世も生き抜いてきた連歌、これを愛する連衆がいる限り、疫病程度でその灯が消えるはずはないのです。

でも、やっぱり皆で集まって、花の下、ゆったりと連歌をよみたいな。他の連歌会とも交流したいな。ワクチンや治療法が確立して、早くそうした世の中になって欲しいと願っています。


リモート連歌会を始めました

2020年07月01日 | 近況

むさしの連歌会は毎年春、古河の満福寺で、地元の方々と一緒に連歌会を開催することを恒例としてきました。お寺には、宗祇とともに連歌の最盛期を築いた猪苗代兼載翁の墓所があり、そこでの「花の下連歌」には格別の思い入れがあります。しかし、今年は新型コロナウイルスの流行により、その中止を余儀なくされました。そればかりか、都内の会議室で行ってきた月2回の例会も、3月からは開けなくなってしまいました。

こうなると連歌の虫がうずくのが、私たち連歌愛好家のさが。顔を合わせることは無理だとしても、何とか一緒に連歌を巻くことはできないかと有志が工夫し、インターネットを使った「リモート連歌会」を始めました。

世の中には、Zoomなどテレワークのためのツールがたくさんあります。でも、パソコン・スマホ・ガラケーと色々な機器を使っている我々仲間は、それには頼れません。一方、メールを順送りして付けていく文音連歌では、皆が一堂に会するという臨場感を得られません。そこで考えたのが、メールの「全員に返信」機能を使って、皆で情報を共有しながら付けていく方法です。4月から既に、5回のリモート連歌会を開催。最初は思うにまかせぬことも多かったのですが、近頃はかなり慣れてきました。

ここに至るまでは、試行錯誤の連続でした。リモートで出勝ちにすると皆が急ぎすぎるので膝送りをメインにすること、衆議判でやると混乱するので宗匠・執筆・板書係・通信世話係の分担制にすること等は、皆で知恵を絞って編み出したやり方です。でも、まだまだ工夫の余地はあるように思います。ここ首都圏は新型コロナもまだ収まっていないので、引き続きリモート連歌会によらざるを得ません。

「作品集」に掲げた第60巻賦何色連歌は、そうして詠み上げたものです。「猪苗代兼載翁追善」としたのは、もともとがその趣旨であったため。その気持ちで連歌を巻きました。発句は、兼載翁の句。これには、おもしろいエピソードがあります。むさしの連歌会では、何時も発句をコンクール(匿名投票)で決めているのですが、今回は一人がちょっとした悪戯をたくらみました。兼載翁の句をそっと忍ばせておいたのです。開票してみると、果たして兼載翁がダントツの1位。皆、「なあんだ」と言うと同時に、「我々の選句眼もそこそこ確りしているな」と安心しました。

次回は7月の第2土曜日。ぼつぼつ第61巻が満尾を迎えるころだと思います。さすがに顔を合わせての実作より時間がかかりますが、質疑応答の時間帯に池田代表の懇切な指導を受けられることも魅力です。こんなことをしながら、何時かは皆が打ち揃って連歌を巻く日が来ることを楽しみに待っています。

  古河市 西光山満福寺山門(昨年4月)


11月7日 浄光明寺で第二回の「鎌倉連歌会」を開催しました

2019年11月10日 | 近況

晴れ上がった秋空の下、鎌倉の名刹「浄光明寺」で、昨年に続き第二回の鎌倉連歌会を開催しました。浄光明寺は、鎌倉時代の歌人(定家の孫)で連歌の一つの源流ともなった冷泉為相(れいぜいためすけ)卿ゆかりのお寺です。高校で習う「十六夜日記」の著者、阿仏尼の子息という方が分かりやすいかもしれませんね。

為相卿は、所領の争いを幕府に訴えるため鎌倉へ下向した阿仏尼に従って、ここ鎌倉の藤ヶ谷に住み、京都と往復しながら関東の武家に和歌を指導。歌道の冷泉家を開いた人です。 

それだけではありません。為相卿は、われわれが楽しんでいる連歌の世界にも、大きな影響を与えているようです。鎌倉時代の終わり頃から、庶民を交えて寺社の境内で詠む花の下連歌が盛んになりました。それと公家歌人の詠む堂上連歌とを融合して、今に伝わる連歌の基本ルールである応安新式を策定し、最初の連歌集である菟玖波集を編纂したのは南北朝時代の大政治家「二条良基」です。そして、その良基を助けたのは連歌師の「救済」(きゅうせい)。その救済の師が、連歌では花の下連歌をリードしていた善阿、和歌では為相卿だったのです。

今回の鎌倉連歌会は、浄光明寺住職の大三輪龍哉師によるご挨拶と、こうした連歌の歴史に触れた「むさしの連歌会」池田南天代表の講話から始まりました。連歌への為相卿の影響等をもっと見つめてみたいというお話でした。 

でも、難しい話はここまで。皆でお弁当を食べてから、連歌の座を始めると、笑い声の連続です。発句は、日本のあちこちに連歌の種を撒いておられる鶴崎裕雄先生から頂戴したもの。これに皆が詠み連ねていきました。大三輪住職も連歌会は二度目ということで素晴らしい月の句や花前の句を詠んで下さいましたし、見学者の方も飛び入りで二句を付けるなどの活躍ぶり。さすが為相卿ゆかりのお寺だからでしょうか、ほかの連衆も普段よりすらすらと付けることができたような気がします。 

座の後の懇親会でも笑い声の連続。ここからからまた連歌の世界が広がっていって欲しいと、皆で話し合いました。

 


4月3日 恒例の古河「花の下連歌」を開催しました

2019年04月07日 | 近況

むさしの連歌会では、毎年この季節、古河の満福寺において、猪苗代兼載翁を偲び「花の下法楽連歌」を張行しています。この日は、少し風が寒いものの、よく晴れ上がった花日和。地元古河のメンバーを含む「むさしの連歌会」の総勢十数名に、お忙しいなか遠くから駆けつけて下さった鶴崎裕雄先生ほかのゲストを加え、にぎやかに連歌の集いを催すことができました。 

満福寺は、室町時代後期に、時の古河公方=足利成氏(しげうじ)によって開かれた古刹。そこに、猪苗代兼載翁のお墓があります。兼載は宗祇とともに「新撰菟玖波集」の編集にかかわった人。そう申し上げれば、国文学を勉強した方ならばお分かりいただけるのではないでしょうか。 

兼載は、1452年に会津の猪苗代家に生まれ、応仁の乱を避けるため関東へ来ていた心敬に、連歌を学びました。それから京に上り連歌・和歌等の研鑽を積んで、宗祇の次の北野連歌会所奉行に就任。当時の連歌界の中心にいた人です。 

兼載は、もともと関東・奥州に縁が深かったのですが、古河との縁は、晩年、足利政氏のもとに身を寄せ病を養ったことで極まります。1510年に亡くなり、ここ満福寺に葬られました。兼載は、ことのほか桜の花を愛していたとか。今もその供養碑には、後の人が植え継いだ見事な桜が枝垂れかかっています。

  

 (注)碑文「永正七庚午六月六日卒 耕閑軒法橋兼載翁墳 花散りて名のみ残るや墳桜」 

 

連歌会は、先ずご住職の敬祷のもと、池田代表以下の参加者が、兼載翁の供養碑に線香を手向けることから始まります。それぞれ心の中で、連歌の上達、あるいはこのように楽しい連歌のつながりを築いてくれた大先輩への感謝を念じたことと思います。 

 

 

そして昼食を取り、ご住職心づくしのお菓子等をいただきながら、二座に分かれて世吉を巻き上げました。今日初めて連歌を詠んだという人もいましたが、見事な付け。喝采の声が上がっていました。 

それから本堂で、巻き上げた連歌を奉納しました。最後は、鶴崎先生からのご挨拶。「来年の大河ドラマは明智光秀が主人公なので、これを機会に広く連歌のことを知ってもらおうと思っている」、「現代に連歌が根付くためには新しい人の参加や各地の交流が不可欠なので、古河や鎌倉での連歌会張行はとても嬉しい」とのお言葉をいただきました。 

帰路にはもう一度、山門の見事な花を眺めました。今もここに連歌会が続いていることを、兼載翁が喜んで下さったら幸いです。

 

 

 

 


10月23日「浄光明寺 鎌倉連歌会」を張行しました

2018年10月29日 | 近況

鎌倉扇ヶ谷の古刹「浄光明寺」は、藤原定家の孫で歌道冷泉家の祖となった為相卿ゆかりのお寺です。その母は十六夜日記を書いた阿佛尼と言えば、ごぞんじの方も多いと思います。所領の相続のことで幕府に訴え出た阿佛尼と同様、為相卿も鎌倉に下向して扇ヶ谷のそばの藤ヶ谷に住み、鎌倉連歌・歌壇の指導や発展に力を尽くしたとのことです。今は残っていませんが、連歌の世界では「藤谷式目」を作ったことでも知られています。

むさしの連歌会は、毎春、猪苗代兼載のお墓がある古河の「満福寺」(栃木県)で、花の下連歌を開催しています。兼載は、宗祇とともに戦国時代の連歌の興隆をになった人なので、連歌フアンにはおなじみかもしれません。関東でもう一つの連歌ゆかりの地、鎌倉においても連歌会を開催できないかと、鎌倉に住む当会会員が浄光明寺のご住職にご相談したところ、快諾して下さいました。おかげさまで10月23日、その本堂において第一回の「冷泉為相卿追善 鎌倉連歌会」を張行することができました。

当日は、連歌界の重鎮である鶴崎裕雄先生や、大阪で長く連歌会を主催しておられる杭全(くまた)神社の藤江宮司様、また遠く古河の会員や地元鎌倉の見学者も迎えることができました。記念すべき会になったと思います。ご住職の龍哉師も、連歌は初めて言いながら二句を詠まれる巧者ぶり。さすが連歌ゆかりの古刹で、みな楽しい時を過ごしました。

当日の流れを、写真とともにご紹介しましょう。鎌倉駅に集合した後、徒歩で十数分の浄光明寺本堂に参集。まずは裏山にある為相卿の墓所をお参りしました。

それから本堂に戻り、ご住職、藤江宮司と当会代表池田南天からの挨拶等の後、扇の座と藤の座に分かれて世吉を巻き上げました。最後は、鶴崎先生のご講評です。

そして、連衆みんなが詠んだ句を懐紙に書き上げ、為相卿の霊位に奉納して退出しました。ちょっと誇らしい気持ちです。仏前には、江戸時代に冷泉家を中興した為村卿の懐紙も飾られており、お寺と冷泉家との深い繋がりも感じられました。

帰路は、藤ヶ谷にある阿佛尼の墓所にも参拝。夜は、鎌倉駅前の川端康成・大佛次郎ゆかりのお店で楽しく喉をうるおし、実り多い一日を終えました。

ご住職のご厚意もあり、来年も同じ場所で鎌倉連歌会を張行することができます。このブログをお読みになった連歌フアンの皆さん、ぜひ来年はご参加ください。連歌のネットワークがますます広がっていくことを、会員一同、心から願っています。