二泊三日、日本海へ車中泊の旅の二日目です。前日は暑くて汗だくでした。夕方になっても27度からなかなか下がらず参りましたが、日没後は海風も吹いてしのぎやすくなりました。翌朝は、8時頃に出発。国道8号を東へ向かいました。6月には春日山城跡へ行きましたが、今回は「御館の乱」でも有名な鮫ヶ尾城(さめがおじょう)へ。
(左)道の駅・マリンドリーム能生の朝。連休なので車中泊の車もたくさんいました。キャンピングカーも数台。(中)散歩をしていると息絶えたオニヤンマがいました。餌の羽虫を抱えています。尾部に産卵弁が見えるのでメスでしょう。成虫の寿命は2ヶ月ぐらいなので、命を全うしたのかもしれません。(右)ピンぼけですが、富山といえば鱒の寿司。朝日町の道の駅で買いました。夕食です。これに信濃町で焼きとうもろこしを2本とツマミを買いました。ビールと赤ワインで晩酌です。
(左)国道8号から63号を南下し、鮫ヶ尾城跡へ。駐車場脇に鎮座する延喜式内社の斐太神社(ひだじんじゃ)。周辺には弥生時代後期後半の「倭国大乱」の頃からの斐太遺跡があります。北方に観音平古墳群、南方に天神堂古墳群があります。200軒を上回る竪穴建物跡を有する東北日本最大規模の遺跡です。越の国からの渡来人と関係があるのでしょうか。
呉越というときには、春秋時代、呉(ご…BC585~BC473 春秋時代に存在した国。現在の蘇州周辺を支配した。紀元前478年に越王勾践によって滅ぼされた)と越(えつ…BC600~BC334 春秋時代に浙江省のあたりにあった国)と、紀元後の五代十国時代に呉越という国があったので混同しないよう注意が必要です。「呉越同舟」は、前者の話です。もし、両者が渡来したのなら、倭国大乱が起きても全く不思議はありません。また別の説では、高句麗の襲来によって倭国大乱が引き起こされたというものもあります。(右)数分登って鮫ヶ尾城跡へ。斐太遺跡の古墳時代の竪穴式住居の再現が見られます。奥に案内所。係の女性に行き方を教わりました。
鮫ヶ尾城の図(上越マイスターと呼ばれた大塚直吉氏作)。分かりやすく非常に美しい図絵ですね。これを頭に叩き込んで出発です。
鮫ヶ尾城は、武田信玄の北上に備えて上杉謙信が築城したものです。拙書でも紹介の信州の北国街道沿いの髻山城は、善光寺平を見張る橋頭堡の様な山城でした。この鮫ヶ尾城
は謙信の死後、二人の養子の景勝と景虎が争った「御館の乱」で、敗走した景虎が自刃した悲劇の城としても有名です。
(左)池の周りを歩いて向こう側の城跡へ。(右)斐太遺跡の図。奴国大乱で軍事的緊張が高まった時期に、短期間に使われた一過性の集落だそうです。その後、人々はどこへ行ったのでしょうか。信州へ逃れた人もいるのではないでしょうか。春秋時代の紀元前480年頃に越により滅びた呉のエリートが渡来。紀元前330年頃に滅びた越が渡来とすると、日本全体で60万人といえども渡来した地域は近かったはずで、奴国大乱が起きても不思議はないと考えます。5月に鳥取で弥生時代の110体におよぶ人骨が発掘されましたが、皆頭や体に襲われた大きな穴が開いていました。奴国大乱の証拠かもしれません。先に渡来した呉の民が越の民を襲ったのか。逃れた人々が斐太遺跡に隠れ住んだとはいえないでしょうか。
後の古墳時代初期。古代科野国の崇神天皇に任命された初代科野國造の武五百建命は大和系。その妻の會津比賣命は出雲系。政略結婚かもしれませんが、大国主命に略奪結婚をさせられた奴奈川姫のような悲劇性は感じられません。もしかしたら、奴奈川姫は越の末裔かと。大国主命は呉の末裔かと。
そしてその後中国を統一した秦の始皇帝。その皇帝に上申し、不老不死の薬を探すと村人一同と渡来し戻らなかった徐福。中国では歴史家が、神武天皇は徐福であり、大和朝廷の元祖である(後の葛城氏)という説も唱えています。徐福は、古代ユダヤのいなくなった11部族のひとつとも。伊勢神宮などに残るユダヤの印。八咫烏や烏天狗。古代史の謎は深海の様に深く神秘的です。
(左)城跡の尾根に乗ります。広くなだらかな斜面です。(右)やがて急になり、郭跡と思われる平地も出現します。前夜雨が降ったために湿度100パーセント。立ち止まるとヤブ蚊に襲われるので、立ち止まることもできません。
(左)シロオニタケの幼菌。毒キノコです。テングタケ科のキノコは猛毒のものがあるので要注意です。一度は食べられますが、二度目はありません。(右)堀切が各所に見られます。
城跡の等高線地図。下から尾根を登ってきました。本来の正面は左の尾根で、虎口もそちらにあります。帰りは右の谷筋の道を下ります。等高線が詰まったところは崖といっていいほどの急斜面で、敵の攻撃を防ぎます。
(左)本郭。キアゲハが舞っていました。(右)本郭からの眺め。四阿のベンチに座ってしばらく沈思黙考。兵どもが夢の跡。
(左)下ってすぐに咲いていたセンニンソウ(仙人草)。キンポウゲ科の毒草ですが、いい香りがします。(右)フジバカマ(藤袴)と似ていますが、葉が三裂していないので、ヒヨドリバナ(鵯花)でしょう。妻女山のヒヨドリバナでは、アサギマダラが吸蜜する姿が見られます。
(左)たぶんシシウド(猪独活)。セリ科シシウド属の多年草は、似たものが多く、なかなか見分けが難しいのです。花火の様な美しい花です。(右)ツリフネソウ(釣舟草)。色といい形といい艶めかしい花です。こんな風に濡れると余計に。
案内所に戻って係のおばさまにお茶とふかしたサツマイモをいただきながら談笑。撮ってきた植物やキノコの写真を見てもらうと興味を示してくれました。ではと、拙書を出して上杉謙信が布陣した本当の妻女山(斎場山)の話も。
すると、ここはカタクリで有名だけれど、アケボノシュスラン(曙繻子蘭)の群生地があるので行ってみませんかと。花は見られませんでしたが、右は蕾(つぼみ)でしょうね。花期はこれからの様です。新潟では普通の山野草ですが、長野県では準絶滅危惧種です。咲き終わって種になったキンラン(金襴)も見せていただきました。色々楽しい話をさせていただいて出発。開花期にまた来られるといいのですが。早春のコシノコバイモ(越の小貝母)も見たいですね。
お腹が空いてたどり着いた道の駅あらいのきときと寿し。連休ですから大混雑。それでも30分でカウンターへ。今回はおすすめメニューをいただきました。ホウボウ・松かれい・かわはぎ・活ばい貝・しまあじ。そして締めは高級魚ののどぐろ。アサリの味噌汁を添えて。他に三皿食べたのですが忘れました(笑)。小雨降る中を関山神社へ向かいました。
関山神社。 妙高山岳信仰の神社。妙高山は奈良時代の和銅元年(708年)に裸行上人が開山したと伝えられています。平安時代後期に木曽義仲、戦国時代には上杉謙信も戦勝祈願をしています。現存する火祭りは修験道の証。
(左)木鼻の唐獅子と貘。(右)関山三社権現の本尊仏。中央に聖観世音菩薩。左右に十一面観世音菩薩と文殊菩薩。
(左)荘厳な神輿。(右)近くにある仏足石。中央に釈迦の左足形。右に華判(釈迦の実印)、左に舎利塔が彫刻されています。奈良の薬師寺の仏足石に次いで二番目に古い南北朝時代の作と考えられています。
結局この日も汗だくだったので信濃町の苗名の湯に入り、道の駅しなのへ向かう途中で道路脇にコスモス(秋桜)が咲いていました。しばし車を止めて鑑賞。脳内を山口百恵の「秋桜」が流れていきました。
◉秋桜 山口百恵 コスモス
道の駅しなのの夜。夜半に霧雨が降り出しました。FM長野のユキ・ラインハートのA・O・Rの8時からの特集は、映画『ロケットマン』が上映中のエルトンジョンの特集でした。次の三連休には必ず観に行きます。バニー・トーピンとの逸話など素晴らしい番組でした。微かな雨音を子守唄に眠りにつきました。
(左)翌朝は6時に起床。秋桜の向こうに黒姫山。6時半に斑尾高原に向けて出発。斑尾高原は雨でした。(右)今回買い求めたお土産の一部。マリンドリーム能生で買った鮫の歯のお守り。翡翠のお守り。店の女性が一緒に選んでくれました。一番透明度が高いものを購入。関山神社で求めたキャッツアイの御神籤。御神籤はともかく、地球の歴史を語る宝石というか鉱物が好きなのです。マリンドリーム能生では、カニ味噌の瓶詰めを。道の駅しなのでは、前回も買ったお気に入りのヨーグルトのお酒「信乃大地」と妙高高原ビール一番人気のダークラガーを買いました。
斑尾高原から飯山に下りました。千曲川の上に雲がたなびいています。左には信越トレイルの山並み。飯山から木島平へ、中野から小布施へ。松代から戸倉上山田温泉へ。入湯して帰りました。いい旅でした。
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★本の概要は、こちらの記事を御覧ください。
★お問い合せや、仕事やインタビューなどのご依頼は、コメント欄ではなく、左のブックマークのお問い合わせからメールでお願い致します。コメント欄は頻繁にチェックしていないため、迅速な対応ができかねます。
インタープリターやインストラクターのお申込みもお待ちしています。シニア大学や自治体などで好評だったスライドを使用した自然と歴史を語る里山講座や講演も承ります。大学や市民大学などのフィールドワークを含んだ複数回の講座も可能です。左上のメッセージを送るからお問い合わせください。
(左)道の駅・マリンドリーム能生の朝。連休なので車中泊の車もたくさんいました。キャンピングカーも数台。(中)散歩をしていると息絶えたオニヤンマがいました。餌の羽虫を抱えています。尾部に産卵弁が見えるのでメスでしょう。成虫の寿命は2ヶ月ぐらいなので、命を全うしたのかもしれません。(右)ピンぼけですが、富山といえば鱒の寿司。朝日町の道の駅で買いました。夕食です。これに信濃町で焼きとうもろこしを2本とツマミを買いました。ビールと赤ワインで晩酌です。
(左)国道8号から63号を南下し、鮫ヶ尾城跡へ。駐車場脇に鎮座する延喜式内社の斐太神社(ひだじんじゃ)。周辺には弥生時代後期後半の「倭国大乱」の頃からの斐太遺跡があります。北方に観音平古墳群、南方に天神堂古墳群があります。200軒を上回る竪穴建物跡を有する東北日本最大規模の遺跡です。越の国からの渡来人と関係があるのでしょうか。
呉越というときには、春秋時代、呉(ご…BC585~BC473 春秋時代に存在した国。現在の蘇州周辺を支配した。紀元前478年に越王勾践によって滅ぼされた)と越(えつ…BC600~BC334 春秋時代に浙江省のあたりにあった国)と、紀元後の五代十国時代に呉越という国があったので混同しないよう注意が必要です。「呉越同舟」は、前者の話です。もし、両者が渡来したのなら、倭国大乱が起きても全く不思議はありません。また別の説では、高句麗の襲来によって倭国大乱が引き起こされたというものもあります。(右)数分登って鮫ヶ尾城跡へ。斐太遺跡の古墳時代の竪穴式住居の再現が見られます。奥に案内所。係の女性に行き方を教わりました。
鮫ヶ尾城の図(上越マイスターと呼ばれた大塚直吉氏作)。分かりやすく非常に美しい図絵ですね。これを頭に叩き込んで出発です。
鮫ヶ尾城は、武田信玄の北上に備えて上杉謙信が築城したものです。拙書でも紹介の信州の北国街道沿いの髻山城は、善光寺平を見張る橋頭堡の様な山城でした。この鮫ヶ尾城
は謙信の死後、二人の養子の景勝と景虎が争った「御館の乱」で、敗走した景虎が自刃した悲劇の城としても有名です。
(左)池の周りを歩いて向こう側の城跡へ。(右)斐太遺跡の図。奴国大乱で軍事的緊張が高まった時期に、短期間に使われた一過性の集落だそうです。その後、人々はどこへ行ったのでしょうか。信州へ逃れた人もいるのではないでしょうか。春秋時代の紀元前480年頃に越により滅びた呉のエリートが渡来。紀元前330年頃に滅びた越が渡来とすると、日本全体で60万人といえども渡来した地域は近かったはずで、奴国大乱が起きても不思議はないと考えます。5月に鳥取で弥生時代の110体におよぶ人骨が発掘されましたが、皆頭や体に襲われた大きな穴が開いていました。奴国大乱の証拠かもしれません。先に渡来した呉の民が越の民を襲ったのか。逃れた人々が斐太遺跡に隠れ住んだとはいえないでしょうか。
後の古墳時代初期。古代科野国の崇神天皇に任命された初代科野國造の武五百建命は大和系。その妻の會津比賣命は出雲系。政略結婚かもしれませんが、大国主命に略奪結婚をさせられた奴奈川姫のような悲劇性は感じられません。もしかしたら、奴奈川姫は越の末裔かと。大国主命は呉の末裔かと。
そしてその後中国を統一した秦の始皇帝。その皇帝に上申し、不老不死の薬を探すと村人一同と渡来し戻らなかった徐福。中国では歴史家が、神武天皇は徐福であり、大和朝廷の元祖である(後の葛城氏)という説も唱えています。徐福は、古代ユダヤのいなくなった11部族のひとつとも。伊勢神宮などに残るユダヤの印。八咫烏や烏天狗。古代史の謎は深海の様に深く神秘的です。
(左)城跡の尾根に乗ります。広くなだらかな斜面です。(右)やがて急になり、郭跡と思われる平地も出現します。前夜雨が降ったために湿度100パーセント。立ち止まるとヤブ蚊に襲われるので、立ち止まることもできません。
(左)シロオニタケの幼菌。毒キノコです。テングタケ科のキノコは猛毒のものがあるので要注意です。一度は食べられますが、二度目はありません。(右)堀切が各所に見られます。
城跡の等高線地図。下から尾根を登ってきました。本来の正面は左の尾根で、虎口もそちらにあります。帰りは右の谷筋の道を下ります。等高線が詰まったところは崖といっていいほどの急斜面で、敵の攻撃を防ぎます。
(左)本郭。キアゲハが舞っていました。(右)本郭からの眺め。四阿のベンチに座ってしばらく沈思黙考。兵どもが夢の跡。
(左)下ってすぐに咲いていたセンニンソウ(仙人草)。キンポウゲ科の毒草ですが、いい香りがします。(右)フジバカマ(藤袴)と似ていますが、葉が三裂していないので、ヒヨドリバナ(鵯花)でしょう。妻女山のヒヨドリバナでは、アサギマダラが吸蜜する姿が見られます。
(左)たぶんシシウド(猪独活)。セリ科シシウド属の多年草は、似たものが多く、なかなか見分けが難しいのです。花火の様な美しい花です。(右)ツリフネソウ(釣舟草)。色といい形といい艶めかしい花です。こんな風に濡れると余計に。
案内所に戻って係のおばさまにお茶とふかしたサツマイモをいただきながら談笑。撮ってきた植物やキノコの写真を見てもらうと興味を示してくれました。ではと、拙書を出して上杉謙信が布陣した本当の妻女山(斎場山)の話も。
すると、ここはカタクリで有名だけれど、アケボノシュスラン(曙繻子蘭)の群生地があるので行ってみませんかと。花は見られませんでしたが、右は蕾(つぼみ)でしょうね。花期はこれからの様です。新潟では普通の山野草ですが、長野県では準絶滅危惧種です。咲き終わって種になったキンラン(金襴)も見せていただきました。色々楽しい話をさせていただいて出発。開花期にまた来られるといいのですが。早春のコシノコバイモ(越の小貝母)も見たいですね。
お腹が空いてたどり着いた道の駅あらいのきときと寿し。連休ですから大混雑。それでも30分でカウンターへ。今回はおすすめメニューをいただきました。ホウボウ・松かれい・かわはぎ・活ばい貝・しまあじ。そして締めは高級魚ののどぐろ。アサリの味噌汁を添えて。他に三皿食べたのですが忘れました(笑)。小雨降る中を関山神社へ向かいました。
関山神社。 妙高山岳信仰の神社。妙高山は奈良時代の和銅元年(708年)に裸行上人が開山したと伝えられています。平安時代後期に木曽義仲、戦国時代には上杉謙信も戦勝祈願をしています。現存する火祭りは修験道の証。
(左)木鼻の唐獅子と貘。(右)関山三社権現の本尊仏。中央に聖観世音菩薩。左右に十一面観世音菩薩と文殊菩薩。
(左)荘厳な神輿。(右)近くにある仏足石。中央に釈迦の左足形。右に華判(釈迦の実印)、左に舎利塔が彫刻されています。奈良の薬師寺の仏足石に次いで二番目に古い南北朝時代の作と考えられています。
結局この日も汗だくだったので信濃町の苗名の湯に入り、道の駅しなのへ向かう途中で道路脇にコスモス(秋桜)が咲いていました。しばし車を止めて鑑賞。脳内を山口百恵の「秋桜」が流れていきました。
◉秋桜 山口百恵 コスモス
道の駅しなのの夜。夜半に霧雨が降り出しました。FM長野のユキ・ラインハートのA・O・Rの8時からの特集は、映画『ロケットマン』が上映中のエルトンジョンの特集でした。次の三連休には必ず観に行きます。バニー・トーピンとの逸話など素晴らしい番組でした。微かな雨音を子守唄に眠りにつきました。
(左)翌朝は6時に起床。秋桜の向こうに黒姫山。6時半に斑尾高原に向けて出発。斑尾高原は雨でした。(右)今回買い求めたお土産の一部。マリンドリーム能生で買った鮫の歯のお守り。翡翠のお守り。店の女性が一緒に選んでくれました。一番透明度が高いものを購入。関山神社で求めたキャッツアイの御神籤。御神籤はともかく、地球の歴史を語る宝石というか鉱物が好きなのです。マリンドリーム能生では、カニ味噌の瓶詰めを。道の駅しなのでは、前回も買ったお気に入りのヨーグルトのお酒「信乃大地」と妙高高原ビール一番人気のダークラガーを買いました。
斑尾高原から飯山に下りました。千曲川の上に雲がたなびいています。左には信越トレイルの山並み。飯山から木島平へ、中野から小布施へ。松代から戸倉上山田温泉へ。入湯して帰りました。いい旅でした。
◆『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。地形図掲載は本書だけ。立ち寄り温泉も。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。
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