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信州里山通信。自然写真家、郷土史研究家、男の料理、著書『信州の里山トレッキング東北信編』、村上春樹さんのブログも

ほぼ快晴の青空。今年最後の妻女山へ。北アルプスと戸隠連峰のパノラマ。会津比売(あいづひめ)神社へ先参り(妻女山里山通信)

2022-12-28 | アウトドア・ネイチャーフォト
 仕事納めの28日は朝からほぼ快晴の青空。昼頃に妻女山へ登りました。まず高速をくぐって上杉謙信槍尻ノ泉の急カーブへ。ここが登れないと上には行けません。なんとか行けそうです。雪が溶けて凍結してアイスバーンになったらスタッドレスでは登れません。毎年スタックして動けなくなる車がいるので要注意です。妻女山で12月の積雪は珍しいのですが、もし1月にかなりの降雪があれば春の訪れは早いかも知れません。

 妻女山展望台から西北の眺め。北アルプスの白馬三山。左から白馬鑓ヶ岳・杓子岳・白馬岳。これらの名称は白明治になって帝国陸軍陸地測量部が地図を作るにあたり地元につけさせたものです。それ以前は、西岳とか岳山とかいって正式な名称はありませんでした。右手前が茶臼山。その右奥は神話の里山・虫倉山。

 左にそびえるのは仁科三山。左から爺ヶ岳・鹿島槍ヶ岳・五竜岳。気温は0度。麓は午後に7.5度まで上がりました。鹿島槍ヶ岳の右の深い谷には、長野県で初めて認定された氷河があります。また下の谷は「かくね里」といって、古くは平家の落人が隠れ住んだ里ともいわれています。

 左手前には(旧妻女山)。川中島の戦いで上杉謙信が最初に本陣としたと伝わる場所で、古代科野国の古墳(円墳)。展望台から歩いて20分ぐらいです。4月に貝母が咲く陣場平へは峠をひだりへさらに10分ほど。国道に雪はありませんが、午前中はブラックアイスバーンになっていて非常に危険です。

 南を見るとその陣場平の山が見えます。展望台は老朽化が激しく危険な状態なので来年度修繕するそうです。大きな石碑は、松代藩が建てた善光寺地震の供養塔です。

 飯縄山(飯綱山)。拙書ではその歴史を詳しく記しています。飯縄権現を祀る飯縄神社。上杉謙信にも武田信玄にも尊崇された神社です。東京の高尾山の薬王院は飯縄権現を祀っています。標高1917mなので低いなと覚えるのですが、伝説と夏のお花畑が魅力的な長野市民の愛する山です。

 戸隠連邦と、戸隠富士と呼ばれる高妻山と左奥に乙妻山。蟻の塔渡りで有名な戸隠。標高は低いのですが、初心者が登る山ではありません。手前の千曲川は渇水期なので一年で最も水位が低い季節です。

 東の松代方面の眺め。清滝から林道経由で尾根に登り、30mの崖を奇妙山へ登るコースは拙書でも紹介しています。奇妙山は行基にまつわる歴史の深い里山で、古い山城の遺構もあります。根子岳と四阿山はまだ雪が少ない様ですね。

 新しく買ったスノーブーツに装着するスパイクアタッチメントを試すために林道を少し登ってみました。すっかり落葉したため樹間から北アルプスもよく見えます。

 降雪してから4,5日経っているのでアニマル・トラッキングには不向きです。タヌキとニホンカモシカの足跡がありました。先週末には猪狩りのハンター達が入った様です。

 帰りに会津比売(あいづひめ)神社へ先参りに。会津比売神社は諏訪社系の神社なんですが、御柱はありません。全国でたった一社という非常に珍しい神社です。会津は福島の会津と関係があります。
 崇神天皇10年9月9日、崇神天皇の伯父大彦命(おおひこのみこと)を北陸道へ、その子武淳川別命(たけぬなかわ わけのみこと)を東海道へ遣わせた。日本海側を進んだ大彦命は越後から東に折れ、太平洋側を進んだ武淳川別命は南奥から西に折れた。二人の出会った所を相津(會津、会津)という。『日本書紀』
 相津と想定される会津坂下町青津。能登南部からの移住者を想定される弥生時代終末期の男壇遺跡・宮東遺跡があり、亀ヶ森古墳等がある。(会津学研究会サイトより引用)
 この会津と、会津比売命の関係やいかに・・。大彦命は東征の後で、長野市篠ノ井の茶臼山動物園の下の長者窪という所に住み、薨去したと伝えられています。彼の功績を讃えて父出速雄命は娘に会津比売とつけたのではないでしょうか。
 この会津比売神社の祭神、会津比売命(會津比賣命)ですが、東北の大震災以降、知られるようになった貞観地震の記述がある『日本三代実録』貞観8(866)年6月甲戌朔条(最初の行)に、「授信濃國-無位-會津比賣神 從四位下」と出てきます。官位のない会津比売命に従四位下の位を授けますよということです。かなり高い位を授かっています。
 その理由なんですが、会津比売は、諏訪大社の祭神、建御名方富命(たけみなかたとみのみこと)の子、出速雄命(いずはやおのみこと・伊豆早雄)の子といわれているからなのです。しかも、神武天皇の子、神八井耳命(かむやいみみのみこと)の子孫といわれる、大和王権より初代科野(信濃)国造に任ぜられた武五百建命(たけいおたつのみこと)[古事記]の室(妻)といわれているからなのです。
■科野国造 武五百建命(たけいおたつのみこと)と妻 会津比売命(あいづひめのみこと)の家系図(諸説あり)
 神武天皇--神八井耳命--武宇都彦命--武速前命--敷桁彦命--武五百建命--健稲背
           大国主命--建御名方富命--出速雄命--会津比売命(出速姫神)

 つまり、出雲系の出速雄命一族は、娘の会津比売命が、天皇系(大和系)の科野国造 武五百建命と結婚したことにより、官位を授与され、後に諏訪に戻って大祝(おおほうり)家となったわけです。貞観年間に、無位となっていた出速雄命、会津比売命の官位授与を申請したのは、当時の埴科郡の大領であった金刺舎人正長といわれています。金刺氏は諏訪系統の流れで、貞観4年(862)に、埴科郡大領外従7位金刺舎人正長とあります。『日本三代実録』[信濃史料] 無位にあった自分の先祖の復権をすべく申請したということでしょう。古代科野国は、出雲系と大和系が結ばれてできたといえるのです。
 本年もご高覧いただきありがとうございました。どちら様も良いお年を。

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