球形ダイスの目

90%の空想と10%の事実

最後に頼るのは神

2007-02-03 | 技術
今日は天照大御神の力を借りるため、飯田橋の東京大神宮に出向いてきました。
結構、会社でも、後は神頼み、という話があります。

それまでとりわけ何かの神を信奉していたわけでもないのに、
ここに来て神の力が求められるのか… と、自分で来ておきながらちょっと考えました。
そういえば、俺は大学入学当初は神になりたいとか言ってたっけな…
(困っている人を助けたい気持ちと、困っている人に頼られたい気持ちがありました。)

賽銭の話。
賽銭って、とても不思議なものですよね。
そもそも神がいるかどうかなんてわからないのに、
相当な大金を入れていく人がいたりします。
…ですが、今日は僕もその一人になりました。
上手く理屈では説明できませんが、思いはそういう形をとることもある、としか言えません。
去年だったら絶対やらなかったと思います。

物事を成功させるためにはかなりのリスクを管理しなければなりません。
この場合賽銭ってのは物事を成功させたい意志、覚悟を金銭リスクに変換する機能となります。

"五千円入れたから叶うよね"とか、"五千円払ったから神が動くはず"とか、そういうことではありません。
これを叶えるためなら、無駄金になったとしても少なくとも
ここまでの金額を出す覚悟はあります、という気持ちの表明に近いです。
道端に捨てたりその辺の人にあげたりするようなことではダメ。
純粋な"無駄"であるからこそ、賽銭はそのアイデンティティを保てる。
("神社が儲けてるじゃん"と思う人もいるでしょうね。
 でも、それはあまり重要な問題ではないのです。
 確かに現実は神社の人がきっと金を回収するのでしょう。が、
 "俺は神に向かって賽銭を入れて願った"真実。それが重要。) 

坊主丸儲け、なんてね。
上の文を書くような馬鹿がたくさんいなきゃ、大して儲かりませんよ。
まぁ、年中丸刈りで、合コンに向かないファッションですし、
青春の対価なんじゃないですか。

コメント
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