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佞臣朱い

2006-08-06 23:01:44 | 十八史略を読む Ⅲ
十八史略を読む-Ⅲー145-梁3-佞臣朱い



東魏と西魏とは、連年攻伐を繰り返したが、戦況は一進一退、いずれも決定的な勝利をおさめるには至らなかった。そのうちに東魏の高歓が死ぬと、将軍侯景は東魏に離反し、支配下の十三州を引き出物として、梁の援助を求めてきた。




梁は、侯景を河南王に封じた。
これより先、侯景の使者が梁にやって来たとき、群臣の誰一人として、侯景を受け入れることに賛同する者はいなかった。武帝自身もなかなか踏み切ることができず、「わが梁は、きずひとつない金の瓶のように事なく治まってきた。侯景の受入が、問題の発端とならねば良いが」と案じるばかりだった。




ここにただ一人、積極的に受入説を主張したのが、寵臣の朱い(しゅい)である。武帝はついにその意見に従った。




「十八史略 Ⅲ 梟雄の系譜 :徳間書店、奥平卓、和田武司訳、1987年7月七刷」から




注)「平家物語」冒頭の有名な祇園精舎の下りに、梁の朱いを秦の趙高、漢の王莽、唐の安禄山と並べて、「これらはみな、旧主先皇のまつりごとに従わず、民間の憂うるところをしらざりしかば、久しからずして亡びにし者どもなり」と歌われている。
だが朱いは、他の三人と違って、国政を奪ったり天子を殺したりできるほどの大物ではなく、単なる佞臣にすぎなかった。
武帝は侯景支配下の十三州がノドから手の出るほどほしかったのだが、後難を恐れてためらっていた。朱いはそのところをよくのみこんで、帝におもねったわけである。


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