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亡国の調べ

2006-08-06 23:06:21 | 十八史略を読む Ⅲ
十八史略を読む-Ⅲー149-陳2-亡国の調べ



北周の武帝は、北斉を滅ぼして北朝の統一に成功した。だがその子宣帝は自堕落者で、即位後一年も経たぬうちにくらいを幼児静帝に譲って、淫楽にふけり、すぐに死んでしまった。朝廷の実権は、外戚にあたる随公楊堅(ようけん)に握られた。楊堅は相国、隋王に進み、九錫の礼遇を得た後、静帝の禅譲を受けて隋王朝を開いた。静帝はいくばくもなく殺された。
楊堅は、西魏以来の属国、後梁を廃して直領に編入した。残るは陳のみである。当時、陳帝は五代目の陳叔宝だった。




後主長城公煬(よう)、名は叔宝(しゅくほう)。太子の頃から補佐官の江(こうそう)を相手にして酒浸りの生活を送っていた。




即位するとさっそく宮中に臨春閣・結綺閣・望仙閣と名付ける三つの高殿を造営した。それぞれの高さは数十丈、数十に上る部屋のことごとくを香木でしつらえた上に、金銀宝玉で飾り立てた。真珠のすだれや七宝のついたてをはじめとして、服飾品や什器類の見事なことは、古今にその例を見ぬほどである。周囲には池を掘り築山を築き、様々な草花を植えた。




そして後主自身は臨春閣に住み、貴妃の張麗華(ちょうれいか)は結綺閣に、“きょう”、孔の両貴嬪(きひん)は望仙閣に住んで、高殿を結ぶ二層の廊下から行き来した。



江は宰相になったものの、とんと政務に携わろうとせず、毎日のように孔範(こうはん)らの文人とともに、帝を囲んで、大奥での遊宴にふけった。この人々は、当時、“おべっか連”と呼ばれたものである。後主は、女官達と“おべっか連”に詩歌のやりとりをさせて楽しんだ。それらの詩歌につけた曲の中に、亡国の調べとして有名な“玉樹後庭花”の類が含まれている。こうして飲めやうたえの乱痴気騒ぎが、夜を徹して続けられたのである。



こんな具合だから、宦官と近習とが気脈を通じ合い、王族も外戚も気ままに振る舞って、賄賂が公然とまかり通った。なかでも孔範は、孔貴嬪と義兄妹のちぎりを結び、恩寵をかさにきて、「文武の才能にかけては自分に及ぶものはあるまい」とまで思い上がるようになった。



武官上がりの将軍は無学ということで軽蔑され、いささかでも過失があれば容赦なく解任されてしまう。このため、行政機構も軍の指揮系統も、まったく体をなさなくなってしまった。




「十八史略 Ⅲ 梟雄の系譜 :徳間書店、奥平卓、和田武司訳、1987年7月七刷」から




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