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ハスの花が-武帝の死

2006-08-06 23:03:03 | 十八史略を読む Ⅲ
十八史略を読む-Ⅲー146-梁4-ハスの花が-武帝の死



東魏はやがて梁に和親を求めてきた。だがその本意は、候景を誅殺しようとする点にあった。候景は梁が東魏と友好関係を結んだのを怒って、寿陽に挙兵すると南下して揚子江を渡り、建康を包囲した。




梁朝が成立してこの方、江東地方には長らく平和が続いていた。武帝はひたすら仏教を信奉し、自ら捨身の行をたびたび繰り返したほどである。そのため梁の人士は、すっかり文弱の気風に染まっていた。
従って、候景の軍が宮城間近に押し寄せたというのに、援軍は片っぱしから破られて何の役にも立たない。




武帝はやむなく使者を出して和議を求め、候景を大丞相に任命するとの条件で合意に達した。かくて宮城は、包囲5ヶ月にして反乱軍の手に落ちた。




候景は謁見のため宮中に入って、三公の座席に着いた。武帝は泰然として、「そなたは長い陣中生活で、さぞや疲れたことであろう」とねぎらいの言葉をかけた。
候景はまともに顔が上げられず、額から汗を流してかしこまるばかり、退出してから、つくづくと述懐したものである。
「わしの長い戦場生活の経験では、たとえどのような危険にさらされても、ついぞ恐ろしいと思ったことはなかった。ところが、蕭公(武帝)の前では、自然と身がすくんでしまう。全く生まれながらの気品というやつには歯が立たん。二度とお目にかかりたくないものだ。




武帝は、候景のために閉じこめられ、ろくな食事も与えられなかったので、憤激のあまり寝ついてしまった。熱で口の中が苦くてならず、蜜をほしがったがそれさえもない。
うわごとに「ハスの花が・・・・」と繰り返しながら息を引き取った。




「十八史略 Ⅲ 梟雄の系譜 :徳間書店、奥平卓、和田武司訳、1987年7月七刷」から




武帝は優れた文化人で、彼の48年間の治世において、経済・文学は空前の活況を示した。「文選(もんぜん)」の編者として有名な昭明太子蕭統(しょうとう)は、その長子である。武帝はその一方で異常なほど熱心な仏教徒であった。即位に際して、斉の和帝をはじめその一族を殺した罪業の意識が彼を苦しめ続けたのかもしれない。
また晩年には、人を罰するのをいやがり、はなはだしくは反逆を企んだものまでも許してしまうほどであった。後世の史家たちは、この点を捉えて帝王の責務を忘れた振る舞いであると非難している。
だが訳者は、この武帝に見られる人間の弱さを陰惨な南北朝の歴史に咲いた一輪の花にたとえている。




熱にうなされて、「蜜が蜜が」と言わないで、「ハスの花が・・・・」とは。お釈迦さまが武帝のすぐそばに現れたのでしょうか。私も臨終にあたってこんなコトバを言いたいものですが。まあそれは無理でしょうな。


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