凡凡「趣味の玉手箱」

キーワードは中国です。中国以外のテーマは”趣味の玉手箱にようこそ”で扱っております。

図書十四万巻を焼く

2006-08-06 23:04:30 | 十八史略を読む Ⅲ
十八史略を読む-Ⅲー147-梁5-図書十四万巻を焼く



東魏では、高歓(こうかん)の第2子高洋(こうよう)が丞相となり、ついで静帝の禅譲を受け、北西王朝を開いた。
梁では候景敗死ののち、蕭氏一族の間で帝位争奪戦が始まり、勝ち残った蕭繹(しょうえき;武帝の第七子)が江陵において即位した。これが博学で知られる文帝である。当時、蜀の地方はすでに西魏の手に落ち、梁は揚子江の中流以東を支配するのみとなっていた。




西魏は、桂国(将軍職の最高位)の于謹を総司令官として、梁に出兵し、江陵に侵入した。
元帝は、所蔵した古今の図書十四万巻を焼き捨て、「ああ、文武の道も今宵限りで尽き果てた!」と嘆じて降伏した。ある人から書物を読破したにもかかわらず焼いた理由を問われたとき、「自分は、万巻の書物を読破したにもかかわらず、今日の運命に立ち至った。書物に何の効用があろう」と答えたという。




西魏は元帝を殺し、先に西魏に亡命してきた王族の“蕭さつ”を帝位につけて、江陵を中心とする傀儡王朝を建てた。史上これを後梁と称する。
建康にあった梁の将軍陳覇先は、元帝の子蕭方智を擁立した。これが敬帝である。陳覇先は相国、陳公となり、九錫の礼遇を得、陳王となった後、筋書き通り禅譲によって帝位に就き、陳王朝を開いた。梁はここに四代56年で滅びたのである。敬帝はその翌年に殺された。
梁の滅亡に先立って、西魏にも政変が起こった。大丞相の宇文泰の死後、その後を継いだ宇文覚(うぶんかく)が、恭帝に禅譲を迫って、北周の王朝を開いたのである。




「十八史略 Ⅲ 梟雄の系譜 :徳間書店、奥平卓、和田武司訳、1987年7月七刷」から




最新の画像もっと見る